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1934年7月 幌筵島沖合いにて

 カムチャッカへの陸軍兵員輸送任務は、違和を覚えるほど順調に事が進んだ。

 波の穏やかな日が連日におよび、予想していたソ連軍による迎撃も見られず、護民艦隊は八郎潟より北海道厚岸(あつけし)の停泊地、択捉の単冠ひとかっぷまでのおよそ2000kmをわずか10日間の快速で踏破することに成功する。

 給油による停泊を挟んでも、平均時速10ノットを下回ることがない。

 これは正規海軍の船足と比べてみても全く劣っておらず、漁業活動も含めた北洋での航行経験が存分に生かされていた。


 旧オルフェイ級駆逐艦"海彦"艦長室の舷窓より、艦長の新見は幌筵ほろむしろ島の西岸を覗く。

 沿岸に異常は見られない。

 島の上空では二機の複葉偵察機がひっきりなしに飛び交っていた。

 新規戦力、九〇式二号水上偵察機だ。

 忌々しい政治の"臭み"に後押しされた航空戦力の拡充であったが、ありがたいことに変わりはなかった。

 ただし、肝心の航空士育成まで時間と手が回らなかったため、その大部分を陸軍より借り受けた状態になっているのが何とももどかしい話ではある。

 陸軍飛行戦隊より出向してきた彼ら航空従事者は海上での航法を学んでいないこと以外、すこぶる優秀な技術を有していた。

 この予想外の質の良さは、どうやら元々満州方面の空を守る任に着いていたため、実戦を経験した者が多いことに因るものらしい。

 大方、満州国の否認や対ソ情勢の変化を受けて、余剰人員を総隊に寄越したといったところであろうか。

 慣れぬ水上機に四苦八苦しながらも、総隊出身の航空士と共に空を飛ぶ彼らの姿からは、前線から前線へたらい回しにされる兵士の悲哀が感じられ、転勤族の海軍出身者としていささか共感を覚えないではなかった。


「どうだ。彼らは使えそうかね」

 ロココ調の優美な椅子に腰をかけ、軍刀を杖にしていた佐藤が新見へと声をかけてくる。

 老齢のためか、未だ包帯の取れぬ身体が何とも痛々しい。


「はい。ここ数日の動きを見るに、先任によって上手く導いてやれば、うちの奴らと何ら遜色のない働きをしてくれそうですね」

「ふむ、それは助かる。軍令部こしぬけどもに借りを作らずに済むというならば、何よりだ」

 その物言いに新見は苦笑した。

 佐藤は先の戦いの結果、すっかり海軍の上層部嫌いになってしまったようである。

 叙勲のために上京した際にも、居合わせた高官たちに痛烈な罵倒を浴びせかけ、あわや乱闘騒ぎに至らんとする事件が起きたほどだ。

 流石に敵を作り過ぎるのもまずかろうと、その場は新見が止めたのだが、腹の虫が未だ治まっていないようであった。

 ……ただ、新見としても佐藤の憤りは良く分かる。

 何せ手塩にかけて育てた海兵・士官を2割も失う羽目になった訳で、それも派閥政治などという現場を離れたくだらない流れ弾によるものなのだから、奸計を弄した相手を到底許す気にはなれなかった。


「しかし、航空機による四方の偵察は万事つつがなく、聴音機による異常も認められん……。これはこれで薄気味の悪い順調さであるな」

「それは、確かに……」

 敵に海上・航空戦力がいる以上、当然カムチャッカへ兵員輸送艦隊が辿りつく前に迎撃部隊が現れると新見たちは予想していたのだが、完全に当てが外れてしまった形になる。

 単純な索敵漏れということもなさそうだ。

 先の戦訓から、艦隊司令部は航空機による目視の広域哨戒こそが対潜水艦、対航空攻撃に有効であるとの結論を出していた。

 幾度にも重ねられた兵装運用試験の結果、水中聴音機で潜水艦の接近を感知できる最大距離はおおよそで2万メートルから3万メートルといったところで、艦隊の航行中にはノイズがひどくほとんど役に立たないことが判明している。

 これではいざという時に役に立たない。

 更に航空機に至っては、時速200kmを超える速度で迫ってくるのだから、悠長な目視による索敵をしていては、航空攻撃による艦隊の全滅すら起こり得る。

 そこで艦隊を運用する上では日中の間、周囲100km圏内を航空機によって索敵し、夜間は航行速度を落としての聴音索敵に徹することで、万が一の可能性を潰していく安全策を採ることにした。

 こうして二重の警戒網を以て今回の航海に臨んだわけであるが、索敵機の一機も見当たらないというのはいかにもおかしな話である。


「先日、夜間に聞き取れたという奇妙な水中音は、敵のものではないのだな?」

「はい。自分もレシーバーで確認いたしました。トロールをやっている時にも聞いたことのある音なのですが、聴音士の話によれば、大型の海生生物が発する音なのではないかとのことです」

「大型の……、鯨か何かかな」

「クジラの鳴き声というものを自分は今まで聞いたことがありませんので太鼓判は押しかねますが、恐らくはそうかと」

 新見の受け答えに佐藤は渋面を作り、テーブルに広げられた海図へと目を落とした。


「となれば、今この海域に敵はいないことになる……」

 海図はオホーツクのみではなく、日本海まで含めた幅広いものであった。

 幌筵沿岸には本艦隊の駒が、沿海州には海軍艦隊の駒が置かれており、樺太や千島各島には陸軍戦力をあらわす駒が置かれている。


「少し、周囲の動きを考えなおしてみるか。"マカロフ"殿もご参加下さるとありがたいのだが」

 佐藤の英語での呼び掛けに応じるようにして、部屋の隅に控えていた中年の厳めしい白人が、足を引きずりテーブルへと寄って来た。

 その痛々しい動きに気づいた佐藤は、

「やや、いかん。考えが至らんかった。新見君、彼の椅子をテーブルに寄せてはくれんか」

「いえ、アドミラル。痛みには慣れておりますので、自分は大丈夫です」

 本人の言う通り、移動時こそ足を引きずってはいたものの、いざその場に立ってしまえば、まるで鉄骨が入っているかのようにふらつくことがない。

 恐らくは相当鍛えているのだろう。いわおとも熊とも見紛う体つきであった。


 新見は静かに海図へと目を向ける白人をちらりと覗く。

 白髪をオールバックに撫でつけた彼は鹵獲艦、オルフェイ級をはじめとするソビエト艦隊を指揮していた将校であった。

 頑なに自らの名を口に出そうとしないため、佐藤たちは彼のことを便宜上"マカロフ"と呼ぶことにしている。

 マカロフとはかつてバルチック艦隊を率いた司令長官の名前であった。

 どうやら、彼は本人と会ったこともあるようで、"マカロフ"と呼ぶことに決めた瞬間浮かべた、何とも言えない表情が新見の印象に残っている。


 新知・択捉の戦いによって彼らソビエト兵は500人の内、150人が捕虜として日本国内へ輸送されることになった。

 そんな彼らが未だ秘密裏に日本へと留め置かれている理由は、彼らを取り巻く無慈悲な環境にある。

 どうやら彼らは、粛清の捨て駒として威圧外交の尖兵を強いられていたようなのだ。

 捕虜として受け入れたほとんどの海兵が、軍港都市クロンシュタットでボリシェヴィキ政権に対して反乱を起こした政治犯であった。

 最早彼らに帰る祖国はない。

 仮にソビエトに帰ったとしても、スパイ容疑をかけられ投獄されるだけであろう。

 本人だけならまだ良いが、その罪が家族にまで及んでしまう可能性を考えれば、日本側としても彼らを無下に解放することはできなかった。

 故に現在彼らの身柄は共和商事によって、厳重に匿われている。

 "マカロフ"がこの場にいるのは、ソビエト艦隊に関する知識を請われてのことだ。

 海兵たちの身の安全を確保するという交換条件の上ではあったが、祖国に見捨てられたこともあってか、彼からもたらされる情報は有益なものが多かった。

 佐藤と新見、"マカロフ"の三者がテーブルを囲む。


「駒を並べ直しましょうか」

「頼む」

 新見が海図上から一旦駒を全て撤去すると、まっさらになった海図の北端、カムチャッカ半島を佐藤が人差し指ですっと指し示した。


「まず、陸軍の秘密作戦はカムチャッカ半島で勃発した先住民族の反乱に端を発しておる」

「はい。本作戦における陸さんの最終目標は先住民族の独立を題目に、我が国とソビエトとの間に緩衝国を作らんとすることだと伺っております」

 佐藤は頷き、カムチャッカ半島に駒を一つ、沿海州に駒を一つ配置した。


「かなり前から武器の運びこみを行っていたようだな。カムチャッカでは白系ロシア人を含む先住民族の反乱部隊2000人が既に事を起こしておるようだ。これに呼応するようにして、関東軍と白系ロシア人部隊3万が満州国境ノモンハンにて外満州――、つまりは沿海州へ向けて進軍を開始しておるはずで、白系ロシア人の頭領は……」

「セミョーノフ殿です。コサックの退役将軍ですね」

 セミョーノフの名を聞いた瞬間、"マカロフ"が眉を顰めた。


「あの無法者ですか……」

 コサックとはロシア帝国が組織化した半農武装集団で、中国における軍閥と立ち位置が良く似ている。

 セミョーノフは革命のどさくさに紛れてロシア中央銀行から金塊を盗み出したことが広く知れ渡っており、ソビエト国内のみならず世界各国に悪名が知れ渡っていた。


「満州事変からこの方、ハルビンでは中華民国による白系ロシア人狩りが行われているようですから、あの辺りを牛耳るセミョーノフ殿も後がないのでしょう」

 1929年、中華民国とソビエト連邦が満州鉄道に連なる中東鉄道の利権を巡って軍事衝突にまで発展したことがあった。

 その戦いで中華民国はソビエトの極東軍に散々ばら打ち負かされ、満州におけるソビエト利権の確保や白系ロシア人の弾圧を停戦時に呑まされている。

 もし満州事変によって日本の傀儡国がかの地に誕生していれば、民国とソビエトとの約定も意味のないものに終わったのかもしれないが、今となってはもう遅い。

 白系ロシア人たちは、満州に変わる新たな亡命拠点を築き上げなければならないのだ。

 陸軍と白系ロシア軍の連携を見るに、恐らくはその候補地が沿海州とカムチャッカなのだろう。


「予想され得る敵軍の配置だが……、マカロフ殿。この、沿海州に1万、カムチャッカに1万というのはまことなのですかな? 極東軍の総数は8万を超えると聞いておったのですが」

「……今は、まともに戦争のできる状態ではありませんから」

 マカロフは忌々しげに海図を睨みながら吐きだした。


「今のソビエトは外貨獲得のため、小麦を他国へ輸出しています。しかし、ここ1~2年は飢饉が続いている。それでも外貨が欲しいので、人が食う小麦を奪ってでも小麦の輸出を続けている。戦争ができると、思いますか?」

「それは……」

 想像を絶する惨状に、新見は呻くことしかできなかった。

 マカロフの話が確かならば、戦争どころの話ではない。下手をすれば、大量の餓死者が出ているはずだ。


「だからこそ、貴国のオホーツク海域における漁業をけん制する必要があった。沿岸漁業はシベリアの民にとって、まさに生命線なのです」

「だが、昨年の海戦で漁業による食料の獲得も危うくなってきた。故に、戦争を出来る状態ではないと?」

その通りです(ダー)

 新見は自国の食糧事情について考えを巡らせる。

 我が国は共和商事の尽力によって、昨年より大分食料事情が改善してきている。米に限っては、余りかねないほどの豊作ぶりだ。

 兵糧の観点から両国を見れば、成程今こそソビエトに攻撃を仕掛ける好機なのかもしれない。

 短期的にも、長期的にも優勢が見込めるだろう。


「……ならば、この苦境下においてソビエトは我が国の攻勢にどう対処しますかな。元ソビエト将校の立場からのご意見を、お聞かせ願いたい」

「海上の戦力配分を今一度お教えいただきたい」

 新見は促されるままに、海軍と護民艦隊の駒を再配置していく。

 ウラジオストクの沖合いには海軍の第1遣外(けんがい)艦隊及び、第1航空戦隊が置かれる。

 第1遣外(けんがい)艦隊は"平戸"をはじめとする防護巡洋艦や軽巡洋艦"天龍"が所属しており、かなりの戦力を有していた。

 第1航空戦隊には"加賀"と"鳳翔"、そして"龍驤りゅうじょう"が所属しており、100機を超える航空機の運用が可能だ。

 護民艦隊については言うまでもないだろう。以前より格段に戦力が拡充されている。

 マカロフは海図を見ながらしばし考え込み、やがて口を開いた。


「陸に関しては侮らぬ方がよろしい。極東方面軍の総司令官は、ヴァシーリー・ブリュヘル。寡兵での戦いに長けた名将です。何かしら起死回生の一手を打ってくるはずです。海に関しては……、航空攻撃か、潜水艦による奇襲以外にはありえないでしょう。戦力が違いすぎる」

「やはり、潜水艦ですか」

 ぶるりと武者震いがした。

 艦隊司令部で、潜水艦に対する対策は練りに練り上げたつもりだ。

 だが、それでも果たしてどこまで通用するものなのか、不安なのだ。


「まあ……、今しばらくの攻撃は無いだろうとは思います」

「それは何故ですか?」

「戦力比から考えても、多少の戦力を投入したところで日本軍の上陸を防ぐことはできないからです。私が指揮官ならば、敵の数を減らすことに終止するよりも、敵軍全体に影響を与える攻撃作戦を立案します」

「つまりは――」

 マカロフが重々しく頷き、新見に答えた。


「兵站への攻撃です。コマンダー・新見」

 潜水艦の本来的な役割は通商破壊――、輸送船の撃破である。

 敵艦が兵站への攻撃を主軸に置くとするならば、この戦いは決して短期間で終わることはないだろう。

 つまり陸軍をカムチャッカへ運び終え、彼らへの補給を担う輸送船が行き来するようになってからが、護民艦隊にとって真の戦いといえるのだ。

 肩に重い何かが圧し掛かって来るような心地がした。


 結果として、事態はマカロフの予想通りに進んでいくこととなる。

 ソビエトの迎撃部隊は占守島を超えても姿を現さず、陸軍は発動艇による強襲上陸の必要も感じさせないほど難なくカムチャッカ南東部の軍港、ペトロパブロフスク・カムチャツキーへの上陸を果たした。

 "秋津"と輸送船によって運ばれた兵員は、陸軍第7師団と第91師団の精鋭役2万人余り。

 彼らは現地反乱軍と連携をとりつつ、半島付け根付近の街、パラナまで破竹の快進撃を続けていく。

 飢餓に苛まれていた各都市の人民にとって、解放を謳う反乱軍と帝国陸軍は救いの主にでも見えたのかもしれない。

 彼らは進軍する軍を諸手で迎え入れ、軍も住民感情を考慮して彼らに食料を無償で提供した。

 反乱軍に従えば食料が得られる――、そんな風聞が立ったのか、更にコリヤーク地方やチュクチ地方からも反乱軍を呼び込まんとする声があがり、軍はそれらに応じて戦線を日を追うごとに拡大していく。

 そうして広がりきった戦線に楔を入れんが如く、ソビエトの反撃が始まった。

 カムチャッカへと向かう日本の食糧輸送船に、極東艦隊の潜水艦が襲いかかったのだ。


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