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1934年7月 カムチャッカへ向かう海路にて

 夏場の北洋は気圧が高い。

 空気密度が燃焼効率の向上に繋がるため、こころなしか"海猫"のブリストル・マーキュリーエンジンも小気味良い音を奏でていた。

 エンジン音に伴い、千早の心も高揚していく。

 武者震いに近い感情だろうか。

 臣民の命を守ることが本懐の総隊としてはあまり誉められたことではないのだろうが、正直あの"赤色"との再戦が待ち遠しかった。


 海原に広がる薄暈うすぼけた空気を見通そうと千早は目を細める。

 敵はまだ見あたらない。


「……気負い過ぎかな」

 背もたれに身体を預けてため息をつく。

 あのロシア人の、間違いなくエースパイロットであろう彼の細面を思い浮かべると、部下や仲間をやられた憎しみを抱く一方で、腹が立つくらいに上手い操縦技術に尊敬を覚える自分がいた。

 この感情は、ロバートに抱いたそれと似ている。

 あの時の借りを返したい。それと同時に空の頂きをも目指したい。


 風防越しに空を見上げる。

 オホーツクの空はこれで2度目であったが、冬場のそれとはまた違って見えるものだと感嘆の息を吐いた。


 白煙を吐く"海猫"から眼下を見下ろすと、オホーツク海が千島列島に隔てられた内海であることが良く分かる。

 目と鼻の先の北太平洋は白く波打っているが、オホーツクはというと実に静かなものであった。

 この様子なら、千島の内側を沿うようにして進んでいる自艦隊も早々トラブルに見舞われることはないだろう。


 千早は海上を同航する仲間たちへと目を向けた。

 護民設計艦1隻に、1000トン級の小型艦2隻、6千トン級の大型艦2隻、そして一見しただけでは何を意図したものか分からない艦が1隻。

 3隻の輸送船団を輪形陣にて囲み、中千島の沖合を航行中のこれら全てが護民艦隊だというのだから、時勢というものにはまこと侮れない。


 護民設計艦は、千早の所属艦である2番艦"竜宮"だ。

 1番艦の"浦島"は損壊が激しく、今後の戦闘に耐えられそうな状態ではなかった。

 これならば無理に修復するよりは解体した方が良いとのことで、今は処分を待つ身となっている。

 小型艦2隻は、ソビエトのオルフェイ級を改修したものであった。

 旧型ではあるがれっきとした駆逐艦であり、その名を護衛艦"海彦"と"山彦"に改め、護民艦隊の最大砲火力を担っている。


 本来ならば、護民艦隊は国際的に定められた海軍軍縮条約により、1000トンを超える戦闘艦を保有することが不可能であった。

 その状況を覆したのが、昨年の新知・択捉の戦いである。

 他国艦隊に領海内にまで踏み込まれての海戦は、腰の重かった帝国海軍の影響力を大きく減じてしまう。

 ――いざという時に動かぬ海軍に戦闘艦を委ねるよりも、護民総隊にいくらか割り当てた方が国益にかなうのではないか?

 陸軍と海運会社を身内に持つ財閥がこのように政府に強く働きかけ、駆逐艦2隻分の割り当てを海軍より奪い取ってしまったのだ。


 身を切られることになった海軍としては、さぞ腹立たしかったに違いない。

 自艦隊の旧型艦2隻を解体し、総隊に譲ろうとすらしなかったのは、ある意味でその意趣返しであった。


 こうした紆余曲折もあって護民艦隊は艦隊戦に対応可能な戦闘艦を入手することができたのだが、主戦力はあくまでも航空戦力にあると総司令部は考えている。

 航空戦力を強力に後押ししているのは、意外にも大艦巨砲主義者であるはずの佐藤中将であった。


『第一に、航空機と機銃を揃えるべきである。空中からの火力投射こそが今後の海戦を左右する』

 と、やや護民艦隊の趣旨から外れた主張ではあったものの、概ねこの意見は総隊員の間で好意をもって受け入れられた。

 この要求と上手く合致する形で生み出されたのが、6千トン級の特設水上機母艦"富山"と"対馬"だ。

 水上機母艦は軍縮条約の規定から外れる、条約制限外艦艇と呼ばれる艦種であった。

 航空機の搭載可能数は24機と、護民設計艦の8倍を誇る。

 これらの航空戦力を臨機応変に活用することで、様々な状況に対応しようというのが当面の艦隊運用方針であった。


 ここまででも十分すぎる躍進と言えるのだが……、と嘆息しつつも千早は"海猫"の高度を下げ、徐々に速度を落として残る1隻――、上陸用舟艇母船"秋津"の艦尾へとつける。

 艦首よりも細く尖った艦尾はスロープ状になっており、一部は海中に没していた。

 "秋津"の水夫は"海猫"の姿を認めると、手持ちの信号旗をはためかせた。「準備せよ」の合図である。

 艦尾に置かれた馬留めが外され、四角いマストのような厚い布が海面へと流されていく。

 ドイツ由来の新技術、ハイン・マットと言うらしい。

 本来の水上機母艦は航行中に水上機の回収はできなかったのだが、この四角帆によって回収が可能になると耳にしていた。

 とは言えまだ試験運用の段階であり、何処まで有用なのかは分からない。

 おっかなびっくり四角帆に着水しエンジンを落とすと、確かに機体が固定される。


「うーん……」

 妙な気分だった。

 昨年までトロール漁を"竜宮"でやっていたせいか、艦尾に据え付けられたリールによって四角帆と共に巻き上げられていると、何だか自分が網にかかった魚にでもなったかのような心地がするのだ。

 もぞもぞとしている内に艦尾へとたどり着くと、漁師役の水夫たちが大勢で千早を出迎えてくれた。


「空の守護神のご到来ですな。ようこそ、"秋津丸"においでなさった」

 と紳士的な微笑みを向けてきたのは、ひときわ服装の上等な壮年の男性であった。

 恰幅の良い体格をしており、穏やかなえびす顔からは軍の匂いが感じられない。

 挙手礼をしないところを見ても、恐らくは商船出の人間だろう。

 今回の北洋行きが秘密作戦であったこともあり、千早は彼らと面識がなかった。

 初対面ですべきはまず自己紹介だ。


「"竜宮"所属、宮本航空士であります。これより貴艦の護衛任務に着任いたします」

 言うと男性は苦笑いを浮かべて帽子を被り直した。

「ああ、これは申し訳ない。"秋津丸"船長の河野です。陸軍の方々もお待ちしておりますので、こちらに……」

 促されるままに居住区画へと向かう。

 道すがら、甲板に置かれていたエンジン動力付きの小型艇が目に付いた。

 あれが大発動艇という奴であろうか。

 この船との合流は北海道に着いてからであったため、とにかく物珍しさが先に立つ。


「どうなさいましたか?」

「ああ、いえ……」

 河野の怪訝な顔や甲板でくつろぐ陸軍の兵士たちに気がつき、千早は慌てて居住まいを正した。


 この船は、カムチャッカへと陸軍一個師団を輸送する任を担っているのだ。

 おのぼりさんのようでは総隊の沽券に関わりかねなかった。




 船長室には、円卓を囲んで見知った顔と見知らぬ顔ぶれが揃っていた。

「久方ぶりだな」

 と嬉しげに口を開いたのは、陸軍第7師団の歩兵第25連隊を率いる面々だ。

 オーク材のチェアに腰かけているのが、永見俊徳ながみとしのり陸軍大佐。

 択捉で飲み明かした寺尾明陸軍大尉は部屋の隅に立っていた。


 対して、こちらに興味深々のまなざしを向けてきたのが、

「ほー、こやつが永見さんの連隊を救ったという守護神の一人ですか」

 タコのような風貌をした口元の髭がやけに目立つ男であった。

 千早が挙手礼をすると彼は鷹揚に頷き、席を立って陸軍式の礼を返してくる。


「陸軍大佐の牟田口むたぐちだ。本作戦の輸送指揮官職を預かっている。道中の護衛任務、海軍以上の働きぶりとやらを期待させてもらうぞ」

 何とも返しづらい持ち上げられ方であった。

 そもそも千早は海軍出身の人間であり、元同僚たちの有能さを十二分に理解している。

 第一、佐藤をはじめとする"出向組"は本来的に海軍の人間なのだ。そんな彼らを差し置いて自分は海軍以上であると奢ることはできなかった。

 そのため、どう返したものかと言葉に詰まる。

「お任せ下さい」と太鼓判を押せば、元同僚を貶めることになるし、かと言って牟田口の言葉を否定すれば弱腰とも取られかねない。

 ここは「微力ながら粉骨砕身する所存です」と当たり障りのない返しをするのが得策だろうと、お茶を濁すことにした。

 幸い、牟田口は曖昧な返答を気にする性質ではなかったらしく、演説めいた語り口が続けられる。


「とにかく、道中の兵員損失さえなければ作戦は成功するのだ。そのために海軍も囮に使った。貴様らの責任は重大であるからして、心するように」

 牟田口の話を聞きながら、千早は脳内で東アジアの地図を思い浮かべる。

 帝国海軍の第1遣外(けんがい)艦隊及び、第1航空戦隊は今頃沿海州のウラジオストクへと攻め寄せているはずだ。

 満州事変の時と同じ手口であった。

 本命に兵力を集中させないためにも、本命から離れた戦略要地を攻撃し、敵を分散させるのだ。

 先の不正規戦闘からこの方、ソビエトと正式に停戦協定を交わしておらず、先制攻撃の名分も立っている。

 かの国にとってウラジオストクがシベリア鉄道を利用して海上戦力をアジア方面へと運びいれるための重要な根拠地である以上、その領海内にまで攻め入れられれば、必ず迎え撃ってくるだろう。


 千早の脳裏に、"鳳翔"の仲間たちの姿が浮かび上がってきた。

 第1航空戦隊が投入されているのだから、彼らも当然戦場に出向いているはずだ。

 敵はソビエトの複葉戦闘機。

 もしやすると択捉でやり合ったガル翼の機体が出てくるかもしれない。

 あの新鋭機どもと三式艦戦がやりあって、果たして優勢を取れるだろうか……?

 どうしようもなく不安が募る。

 出来ることなら、被害が無いよう心より願った。

 そんなことを考えている間にも、牟田口は饒舌に語気を強めていく。


「……そもそも、本作戦は西洋人支配からアジア民族を独立させることこそが第一の目的としてあるのだ。神国日本の手により、カムチャッカ土人が救出されれば、他のアジア諸民族とて独立の気運を刺激されるに違いあるまい。大アジアの復権がかかっているのだ。この作戦には」

「土人、ですか」

「何かね?」

「いえ」

 頭に引っかかった言葉を脊髄反射的に問い返すと、牟田口は嫌そうな顔をした。

 どうやら、自らの言葉を遮られるのを嫌う手合いであるようだ。

 このまま延々と独演会が続きそうな気配であったが、おもむろに横合いから差し出口が挟まれる。

 見慣れぬ士官の一人であった。


「大佐、アジア諸民族の独立は皆が心に願っていることであります。ですが、今は意義の確認よりもやらねばならぬことがありましょう」

 はて、と千早は首を傾げる。

 差し出口を挟んだのが、階級章を見るに少尉であったからだ。

 少尉であるのに佐官と膝を突き合わせて椅子に座っている。

 意思の強そうな目が特徴的な、千早と同世代の青年であった。


「む……」

 牟田口もこれに不満そうな表情を浮かべたものの、上下を笠に着せた叱責をしようとしない。

 この青年に対し、下手に出なければならない理由でもあるのだろうか。

 頭に疑問符を浮かべている千早に対し、青年は挙手礼と共に名乗りをあげた。


「捜索連隊の騎兵少尉。桃山と言う。隣におるカイゼルひげが、歩兵連隊のホン中佐。隅に立っておるのが自走砲中隊の金山大尉。いわゆる朝鮮人日本兵という奴だな」

「桃山……、公爵殿下でありますか?」

 目の前にいる相手の素性にようやく理解がいって、千早は慌てて最敬礼をとる。

 桃山は朝鮮の王家が日本に併合された際に名乗った姓だ。

 併合されたとはいえ王族の出であることに違いはなく、国政に携わる権限こそ与えられていないものの日本では皇族に準じる立場として敬うよう義務付けられている。

 牟田口が強く出られないのも納得であった。

 桃山は敬礼を解くよう手で制し、言葉を続ける。


「牟田口大佐が仰るように、本作戦は兵員の損失が何よりも怖い。永見大佐。先だって貴連隊に甚大なる被害を与えたのは……」

「航空機と潜水艦でありますな、殿下」

「それだ。宮本航空士。そういった敵の最新兵器への対策は十分なのか? 我々も陸にさえ着けば縦横無尽に奮戦できる自信はあるが、海上で狙われてはどうしようもない」

 幾分か恐怖の色が感じられる声色であったが、それ以上に追いつめられたかのような、気迫がこもっているように感じられた。

 千早は自らを朝鮮人だと名乗った面々へ、ちらりと目を走らせる。

 洪は静かに目を瞑っており、金山は直立したまま微動だにしない。張り詰めた空気だけがピリピリと伝わってきた。


 陸軍の人事について分かることは少ないが、こうも朝鮮人士官が本作戦に投入されているからには何か意味があるのだろう。

 つい政治的な思惑を探ろうとする頭を軽く振って、雑念を振り払う。

 今は彼の質問に答えることが先決だ。


「常に水中聴音機による索敵と、航空機による哨戒を続行中です。特に航空機による索敵は交代で四方を見ておりますので、少なくとも日中に取りこぼすことはありません」

 "富山"と"対馬"には中島飛行機の手による九〇式二号きゅうれいしきにごう水上偵察機が計40機搭載されていた。

 九〇式はアメリカのO2Uコルセアを国産化した、頑丈な造りの複葉水上機である。

 国産のブリストル・ジュピターエンジンを搭載しており、その最高時速は230km。

 時速330kmを超える"海猫"やマッキと比べると一等格が下がる機体ではあったが、当座の機体確保のために採用された。

 共和商事の開発した最新鋭航空機は、量産に適していなかったのだ。

 

 何せ昨年の春から生産を始めたというのに、"海猫"やマッキの機体数はようやく10機に届いたばかり。

 職人の手による生産が急な需要に追いつけず、泣く泣く中島に補充分を発注したのであった。


 このように急ごしらえの航空機部隊ではあったが、「取りこぼしはない」との言葉に誇張はないと誓って言える。

 昨年よりも航空戦力がはるかに増強されたことは確かな事実であるからだ。

 新知・択捉では戦力が足りず、悔しい思いをさせられたが、今回は潤沢な戦力が用意できている。

 四方に布かれた警戒網とて参謀たちが戦訓を通して練り上げたものだ。容易く破れるものではないはずであった。


 千早の答えに、桃山はそれでも不安が残る様子であったが、

「宮本少尉。万が一、警戒網から漏れることがあっても貴様が追い払ってくれるんだろう?」

 隅に控えていた寺尾がふと口を挟んできた。

 急な横やりに千早は驚きながらも、

「それは、無論です」

 と答えると、口の端を持ち上げ、したり顔で続ける。


「守護神が言うのですから、ご安心召されよ。我々は枕を高くして到着を待ちましょう」

 寺尾の軽い物言いを聞き、桃山もようやくその表情を緩めた。

 それはそれで良かったのだが、


「……ところで、守護神とは何ですか?」

 先ほどから妙に居心地の悪い言葉が気にかかる。

 恐る恐る問うてみると、25連隊の面々がニヤリと悪童の顔になった。


「お前、自分が何をやったのか忘れたのか。数で勝る敵機相手に大立ち回り。聞いた話じゃ、軍用艦まで炎上させたんだろう? うちの連中の間じゃ、お前たちはもうお守り扱いだよ。後でうちの航空従事者連中から話をせがまれるだろうから、覚悟しておけよな」

「あー……」

 どうやら千早たちは陸軍内で思った以上に大げさな持ち上げられ方をしているようであった。

 恐らくは本来着艦する必要のないところを、わざわざこうして呼びつけたのも酒の肴にすることが目的なのだろう。


「……護衛がありますので、お手柔らかに願います」

 若干辟易した千早の言葉に、陸軍の面々より笑い声が漏れ出でた。


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