1934年1月 秋田県男鹿半島、共和商事本部にて
奥羽の山向こうから朝焼けの光がやってくるたび、千早は男鹿半島が日本の裏側にあるのだという思いを強く抱く。
雪に覆われた尾根の輪郭が赤く輝く時分になると、漁村を母体としたこの土地は光と影のコントラストが際立ち、一層暗く沈み込むからだ。
夜明けを待ち望む暗がりの中で、焦れったい陽光をいち早く浴びることができるのは近代・高層建築群にのみもたらされる恩恵であった。
冬の長い夜が明け、背の高い総隊本部の屋根が赤く照らされる頃合いのこと。
千早が寒風吹きすさぶ庭先で趣味の剣術鍛錬をやっていると、宿舎の方から起床ラッパの音が高らかに鳴り響いてきた。
「総員起こし」の合図である。
これより水兵たちの吊床訓練が始められ、宿舎内がまるで火がついたように騒がしくなるのだ。
千早は宿舎へちらりと目をやると、構えていた木刀を下ろし、これで仕舞いとばかりにウンと背を伸ばす。
今日の千早はラッパに支配される必要がない。
先日の夜まで佐藤と長らく県外へ出ていたためか、ラッパ手の任からも訓練課程からも外れていた。
自室へ早足で帰りながら、
「おはようございます!」
「おはよう」
水兵たちと挨拶を交わしていく。
千早たち元海軍士官は個別に個室が割り振られていた。
別段、海の上と同様に水兵たちと同室でもかまわなかったのだが、士官職は部屋に持ち込み書類仕事をこなすことも多く、機密性も求められることから、個室をあてがうべきという結論に至ったらしい。
自室に入ると、壁に木刀を立てかけ、湯気の立つ身体を手早く拭き取る。
着替えるべきは第一種軍装だ。
本日は、共和商事に用がある。
大理石で造られた共和商事のビルヂングは、総隊本部の隣に建てられていた。
5階建ての高層建築となっており、傍から見ても豪奢に見える。
総隊本部よりも立派な造りになっているのは、軍民の上下意識を変えるための一手だと聞いていた。
総隊員としてあまり良い気はしなかったが、"テクスト"に記された軍国主義へと邁進するデメリットを考えれば、軍事組織の冷遇は仕方のないことなのかもしれない。
それに、今の総隊にはガワになどこだわる余裕はないのだ。立派な建物よりも必要なものがあるのだから。
それは人と船――、つまるところ戦力であった。
「これは宮本航空士。おはようございます」
「おはようございます。社長は本部にいらっしゃいますか?」
「ご案内いたします」
学生上がりの職員に案内され、千早は社長室の扉をくぐる。
共和商事の社長である要は、何やら書類に筆を走らせていた。
三か月前までこびりついていた目の隈が大分和らいでいるように見える。仕事が落ち着いたのか、何か心境の変化があったのか。
要は千早の来訪に気がつくと、
「お帰り、千早。祝勝会にも顔を出さず、凱旋も漫ろに北陸を巡っていたそうじゃないか。風来坊にでもなるつもりかい?」
例のごとく、小憎たらしい物言いで千早を出迎えてくれた。
「此度の戦いで亡くなった戦友たちのご家族の元へ伺っていたんだ」
軍帽をかぶり直しながら、答える。
新知・択捉の戦いで、総隊所属の水兵・士官は100人の内、22人が殉職した。
殉職したならば、遺族に訃報を伝えねばならない。
気の進まない役目であったが、新年をまたがずに知ることができた方が遺族にとっても都合が良かろうとの判断から、師走を通して佐藤中将とともに見舞いに回っていたわけだ。
殉職者の多くは砲撃による戦死がほとんどであった。
一部には機関室の事故で全身大やけどを負った末に命を失った者もあり、その最期は誰もかれもが壮絶の一言に尽きる。
彼らの死を偲ぶたびに千早は思うのだ。
もっと、上手くやれたのではないか。死なずに済ませられる者もいたのではないかと。
「それは……、軽口だった。すまない。僕もこの皮肉癖を直そうとは思っているんだが、いかにも直る気配がないよ」
ばつが悪そうにする要に対し、気にするなと笑い返す。
幼馴染の捻くれを今更どうこうしようという気はなかったし、自分なりに反省の念もあった。
他人の口を閉ざし、悲劇に蓋をするようでは改善の見込みはないだろう。
「しかし、もしやすると艦隊の司令官が不在であったのもそのためか。健康上の理由としか聞いていなかったが」
「何処で戦報を聞きつけたのか分からんが、大手の新聞社が取材にと押し掛けてきていたからなあ。つまらんことで足止めを食らいたくなかったのだそうだ」
佐藤不在の折、記者への対応は新見が全て担当したらしい。
千早も挨拶回りの最中に記事を読んだが、その内容は総隊を無暗に持ち上げるものであった。
『オホーツク海海戦勃発す。我が帝国の誇る護民艦隊を率いる名将、佐藤司令官の采配によりソビエト艦隊は散々ばらに打ちのめされり。さりとて、海軍の何たる腰の重さか。神輿もむ、祭りの後の、上喜撰』
先だってまで共和商事を売国奴と罵り、護民艦隊を金の無駄遣いと嘲っていた新聞社が書いた記事である。
そのあまりの変わりように、思わず佐藤と目を見合わせてしまうほどであった。
「つまらないことか……、世論に持ち上げられるのは中将閣下もお嫌いなのかね」
「嫌いというよりも、信用がならんという風だった。かくも容易く手のひらを返すなら、明日には罵倒されていたっておかしくない、だそうだ。俺自身も同感だな」
「違いないだろうね」
敵に回るやもしれぬ軽薄の徒を相手にするよりも、共に戦った戦友を悼みたい。
門前で汚れもいとわず膝をつき、遺族の手を取り謝罪する佐藤の姿は、千早の目にも気高いものとして映った。
潔癖な、軍人らしい軍人とはこのような御仁を言うのだろう。
"出向組"を敵と断ずる井上には悪いが、彼らを悪く思う気にはなれそうになかった。
「確か君も含めて総隊員の主だった者には勲章が授与されるそうだね。ご遺族の方たちの生活もそう悪いものにはならないんじゃないか?」
「いや、勲章の年金では全然足りん。そのための挨拶回りだ、実は、遺族会を結成しようと思っている」
「遺族会?」
首を傾げる要に、説明を続ける。
「現役の隊員たちでご遺族の生活を面倒見ようという互助会だ。幸い、中将も強く賛成なさってな。会員から年金や給料の一部を徴収し、生活費や学費に充てたいと思っている。できることなら、将来的には職の斡旋も共和商事を通じて行いたいところなんだが……」
「つまりは、在郷軍人会のようなものかな」
「そのようなものと捉えて差し支えない」
要の表情が渋いものに変わった。
在郷軍人会とは、元陸軍軍人にして総理大臣経験者でもある田中義一が結成した組織を指す。
これには互助会としての役割もあったのだが、それ以上に政治家の票田としての意味合いが強く、軍人の政治進出にも一役かっていた。
彼は、総隊が政治力を持つことを憂慮しているのだ。
「……総隊と共和商事は一蓮托生だからね。無論、ご遺族への援助はこちらとしても惜しまない。ただ、上が妙な動きをするようなら、教えてくれよ?」
「心得ている」
軍人が出過ぎた真似をして良いことなど無いことは、"テクスト"を読んだ千早にも良く分かっている。
色良い返事に要は一応の満足を得たようで、椅子の背もたれに身体を深く預けた。
「それで君を呼んだ本日の要件だが、陸軍からいくつか提案が来ているんだ」
「らしいな」
即座にそう答えると、要はオヤっという顔になった。
「やけに耳が早いじゃないか。どういう伝手で情報を手に入れたんだい?」
「最近、陸さんと情報交換するようになったんだ。総隊への歩み寄りについても、中央で起きているごたごたについても聞き及んでいる」
情報の提供者は主に第25連隊の栗原中尉であった。
択捉にて話をしてみたところ、彼はいわゆる陸軍"皇道派"なる派閥に所属していたらしい。
"皇道派"とは海軍における"血盟団"と似たようなもので、天皇陛下による親政を目論む過激な一派のことである。
陸軍大臣である荒木貞夫を首魁とし、その勢力たるや大学校を出たエリートたちによる"統制派"と並ぶほどの賛同者を得ているとのことだ。
彼らは共和商事の諸施策を陛下による御親政と評価しているようで、その護衛戦力たる護民総隊にも好意的感情を抱いているようであった。
先の満州事変における、荒木陸相の政治的譲歩も彼らの意見が影響している。
彼らは「陛下の御関心は外地よりも内地の救済にある」と共和商事の動きを見て判断したらしく、半ば盲目的に荒木へ圧力をかけたのであった。
こうなると血気盛んな青年士官からの声望によって今の地位を保っている荒木は弱い。
案の定、"皇道派"の圧力に折れてしまい、財閥と口約束を交わしていた陸軍上層部から総スカンを受ける羽目になってしまったわけだ。
栗原が月寒を拠点地とする第25連隊に異動してきたことも、こうした一連の派閥政治に絡む報復人事によるものなのだと、自ら語っていた。
『満州送りならば色々と悩んだのでしょうが、25連隊で助かりましたよ。旭川は一時住んでいたことがありますし、何より護民総隊さんと関わりが持てましたから。同志にも手土産ができました』
と笑顔で語っていたことが印象に残っている。
千早が択捉での会話を大まかに語ると、要はこれでもかというくらいに表情を歪めて口を挟んだ。
「……あまり陸と関わりは深めないように頼むよ。何を仕出かすか分からないのだから」
"テクスト"において帝国陸軍は文字通り悪の象徴であった。
"皇道派"によるクーデター事件や国民への圧制、アジアにおける現地民の虐殺など、その罪状は枚挙にいとまがない。要の危惧は歴史を俯瞰する立場から見れば、当然すぎるものであった。
だが上海で命を救われ、北洋で共に戦ったからこそ思うのだ。
陸軍もそう唾棄すべき存在ではないと。
願うことならば、あの古賀清志や石岡のように良好な関係を築き上げて、今後の未来へとつなげていきたい。そう千早は思っていた。
「それで、具体的にはどのような話が来ているんだ」
幾分か話題逸らしの色を含んだ返答に、要はため息をつきつつも書類をこちらに差し出してきた。
「川崎や日本郵船の保有する中古貨物船の提供。中島飛行機との技術提携。上陸舟艇母船、護衛艦新造の要請。その他諸々というところだね。良く分からないのが、陸軍士官の出向だ。総隊で陸の軍人がどれほど役に立つものかと疑問に思わざるを得ないよ」
書類に目を通してみたところ、提供予定の貨物船には先の戦いで損害を受けた"富山丸"や"対馬丸"も含まれていた。
いわゆるT型貨物船と呼ばれる大正期の型であり、どちらも総トン数6000トンを超える大型船だ。
艦が足りず、あちらこちらに手を回している護民艦隊には嬉しい増援となるだろう。
中島飛行機との技術提携も歓迎すべき話であった。
中島飛行機は陸軍にフランスのニューポールを模倣した九一式戦闘機なる複葉機を提供している。
いわばフランスの航空機技術に精通しているわけで、上手くいけば陸・護の航空機技術が飛躍的に向上するはずだ。
ただ、上陸舟艇母船というのが分からなかった。
「発動艇なるエンジン動力の小型艇を運ぶ船らしい。上海事変から用いられていたそうだが、知らないのかい?」
「黄浦江では見なかったな。作戦海域が違ったのかもしれん。察するに、兵員を小型艇で上陸させるための母艦だと思うが、それを何故護民総隊で造らねばならんのかが分からん」
いまいち陸軍の意図が読めない。
要は小馬鹿にするように肩をすくめ、返してきた。
「大方、海軍の代わりに言うことを聞く戦力が欲しいのではないかね? 陸軍というのは何事も自分の思い通りに行くべきだと考えている節があるからね」
「穿ちすぎだ」
とは言うものの、護民総隊が上陸舟艇母船とやらを持つことになれば陸軍の上陸作戦を手伝わざるを得なくなるだろう。
要の予想もあながち的外れではない。
だが、ここで要請を断れば折角の中古船舶提供の流れも破談になりかねず、痛し痒しの問題であった。
「とりあえず、確かに書類は預かった。本日中には谷口本部長にお届けしよう」
「頼むよ。共和商事も、護民総隊も今は良い流れに乗っているのだと思う。この流れのまま、一気に国内を大改造してしまいたいものだね」
話がまとまったところで、新たな来客の知らせがもたらされた。
要は目元を軽く呼びながら、うんざりとした口調で千早に言う。
「悪いね。友誼を深めたいところだが、急な来客があったようだ」
「大変そうだな」
千早がねぎらうと、手をひらひらとさせながら苦笑いを浮かべる。
「僕も男児だからね。頑張らざるを得ない局面というのはわきまえているつもりだよ。特に、"新法"の制定で政府も世論も変わりつつあるんだ。今励まずして何とする……、ってところかな」
"新法"とは昨年末に可決された"基幹産業特別保護法"のことであった。
これは日本海側諸地域の台頭によって危機に瀕した植民地経済を救済するためのものであり、大枠としては植民地産業に補助金を出しつつ、日本海側諸地域産の農水産物に一時的に関税をかける形でまとまっている。
この法律の制定には東北・北陸産農水産物の生産量増加が密接にかかわっていた。
昨年度におけるこれらの地域の生産量は想像を絶する量に及び、今年度も右肩上がりの生産量増加が予想されている。
こうなると、困るのは植民地経済に少なくない額を投資していた企業家たちだ。
満州などの広大な農地を用いた大規模農業ならばいざ知らず、台湾や南洋の農水産業に投資していた者たちは今頃顔を青くしていることだろう。
植民地経済は帝国主義を支える根幹だ。
経済の拡張路線を掲げる立憲政友会と、時の犬養政権がこれを保護するのは当然の判断と言える。
だがいくら救済処置とはいえ、内地よりも外地を優先する政策に帝国議会や国内世論は紛糾しているようであった。
各御用新聞社も事態の鎮静化に手を尽くしているようだが、東洋経済新報をはじめとする反政府色の強い新聞社が政権批判を続けており、ともすれば犬養政権が崩壊する事態にまで陥るかもしれない。
「関税をかけられることは必ずしも悪いことじゃない。何故なら、これで政府の懐に影響力を行使することができるからね。次の衆議院選挙では、僕らを支持する政治家が生まれたっておかしくはない。……そう考えると、遺族会の設立は妙手になりそうだな」
ぶつぶつと今後の策を練り始める要を見て、千早も明日の我が国に思いを馳せる。
国際社会から孤立しておらず、植民地の拡大路線にも歯止めがかかりつつある。
このまま上手くやれれば、あの忌まわしき対米戦争すら回避できるやもしれない。
となれば……、と千早は総隊本部への帰り道に北の空へと目をやった。
やはり、今の懸念はソビエトだ。
先の戦いはどうやら威圧外交の類であったようで、目下のところ政府がソビエトと交渉を行っている最中だという。
この交渉が穏便に終わるか、破談に終わるかで日本の行く末も変わってくるだろう。
ふと、択捉沖で出会った"赤色"の戦闘機が思い出された。
あの戦闘機とはまた相見える予感がする。
懐に手を当てるとお守りの感触が伝わってきた。部下の遺した、焦げ付いたお守りである。
あの時の借りは何としてでも返さねばなるまい。
――千早のこの予感は、陸軍による秘密作戦の発動とともに実現されることとなる。
1934年7月、カムチャッカ半島にて大規模な先住民族による反乱が勃発した。
陸軍はこれをアジア民族が表に立った"民族自決による正当な独立運動"であると支持を表明、カムチャッカへの大規模派兵を政府に求める。
国内は先の海戦や新聞による情報操作もあって、丁度反ソ感情の高まった折にあたり、世論に後押しされた政府に陸軍の要求を撥ねつける余裕はなかった。
後に勘州事変と名付けられたこの騒乱は、大日本帝国の陸・海・護三軍とソビエト陸・海軍が正面からぶつかりあった大規模戦闘へと発展し、千早はこの戦いにおいて再びあの"赤色"と相見えるのであった。




