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1933年11月末 南千島、択捉島にて

 北洋の海は、日が落ちてから夜の帳が訪れるまでがとても長いのだと初めて知った。

 日中に飛び交った砲弾の雨が、まるで幻であったかのようだ。

 思わず息を呑む。

 周囲はぺりぺりと時折流氷の削れる音がするのみで、何処もかしこも凍った景色が広がっている。

 千早が駆る"海猫"は、戦いの終わった海面をゆっくりと滑っていた。

 

 その時速はおおよそ30kmに届かぬ程度。

 当然空を飛ぶには速度が足りず、今の"海猫"は足が高いだけのカヌーと何ら変わりない。

 波に揺られて機体が傾く。

 操縦席に置かれていた安全祈願のお守りが足下に滑り落ちた。慌てて千早はそれを拾い上げ、懐へと仕舞う。

 部下の遺したものであった。


「……もうちょい大人しくなってくれ」

 静かに荒ぶる海に対して、思わず毒づいてしまう。

 千早は自らの乗機をソ連の"赤色"に手ひどくやられてしまったため、部下より機体を借り受けていた。

 いくら五体満足のフロートがあるとは言え、こうも上下に大きく揺れると、翼に抱えた荷を振り落としかねない。

 せめて急な転舵は抑えようと、操縦桿を握る手に力を込めた。


 水平器の傾きを許さず、全神経を機体制御に注ぎつつ、択捉島の周囲を反時計回りに巡回する。

 外洋に面した大きな入り江にたどり着いたところで太平洋の荒波が驚くほどに大人しくなった。

 ――単冠ひとかっぷ湾。大型船の停泊にすら耐えられる、天然の良港だ。


「もう少しだ。辛抱してくれ」

 風防の外側へと声を投げかける。

 浜辺へ機体を寄せエンジンを止めると、航空機部隊の部下が急ぎ足で駆け寄ってきた。


「ミヤ隊長!」

「藤田か」

 彼は千早が面倒を見ていた航空士の一人であった。名前は藤田信雄と言う。年の頃もまだ10代で、今年総隊に配属されたばかりの三等水兵であった。

「陸さんは?」

「直に来ます。ほら」

 遠目にこちらへと鞄を抱えて走ってくる青年の姿が目に映った。

 一般的な陸士の軍装を身に纏っているが、頭にかぶるヘルメットには、赤十字のマークがペイントされており、加えて“白地赤十字”章入りの腕章を着装している。

 1929年に締結されたジュネーブ条約により従軍が許されることとなった、衛生兵の軍装であった。


「お疲れさまです、宮本さん」

 衛生兵は"海猫"へと近づき、挙手礼するが早いかすぐさま主翼に飛びつくと、目にも留らぬ速さで翼に乗せられた軍人たちの介抱を始める。

 彼らは先の戦いの影響で海へと投げ出された者たちであった。

 爆撃によって吹き飛ばされた者は最早手の施しようもなかったが、中には炎上する甲板から自発的に外へと飛び込んだ者もおり、こうして救助活動が行われることになったのだ。

 近場にいた者は既に輸送船に備えられていた端艇カッターによって、その大部分が救助されている。

 千早が受け持ったのは不幸にも遠方へ流された者や、流氷の中に取り残された者たちの探索と救助で、とりわけ緊急を要する任務であった。


「山根中尉。どうですか?」

「ちょっと待っててくださいね」

 衛生兵の山根は救助された軍人の意識を確認すべく、一人一人に声をかけていく。

「おい、助かったぞ。おい! 意識はあるかっ?」

 一部から弱々しい反応が返ってきた。

「よし、よし! まだ死ぬなよ。安心もするな。頑張って耐えろ、もう少しの辛抱だからな」

 大声で怒鳴りつけるようにして負傷兵を激励しつつ、山根は千早へと向き直った。


「外傷は少ないんですが、低体温症がひどいですね。とりあえず意識のない者から優先して救護室へ移します。手足が無事で済めばいいんだがなあ……」

「手伝います」

 この近辺の海水温は3度から4度と低い。

 爆発や炎上による火傷や海面に打ち付けられたことによる打撲以外よりも、とにかく低体温症が怖かった。

 悪化すれば身体の末端から壊死が始まりかねない。山根と千早、藤田の三人で救助者を背負うと、彼らの身体はぞっとするほどに冷たかった。


「宮本さん、助かります」

「いえ……、あまり助けになれず申し訳ない」

「生き残りが1人でも増えれば大勝利です。人命救助は、そう考えた方が楽ですよ」

 山根の指示に従い、千早と藤田は仮設の救護室へと救助者を運び込む。

 救護室の中では陸軍の衛生兵のほかに、護民総隊から派遣された手伝いが忙しく動き回っていた。

 見ているだけで目が回りそうな光景だ。

 蘇州で嗅ぎ慣れた、すぐ側まで迫る濃密な死の気配に千早はたまらず顔を歪める。


「藤田、ここで山根中尉を手伝っていけ。俺は報告に行ってくる」

「り、了解しました!」

 青い顔をしている藤田に手早く命令を出すと、千早は早足で仮設の指揮所へと足を運んだ。

 指揮所は漁師小屋を接収し、簡単な改装を施したものであった。


「護民総隊、宮本航空士。失礼いたします」

 中には三角巾で腕を吊った渋谷と、以前より見知っていた陸軍の佐官が待ち受けていた。

「宮本隊長。首尾はどうだった」

「二度の巡回で発見できた要救助者は7名。内、6名を救助いたしました」

 救えなかった1人は既に手遅れの状態であった。

 千早は下唇を噛み、懐に手を当てる。

 手遅れだった軍人は、足が吹き飛んだ状態で流氷に投げ出されていたというのに命を保ち続けていた。

 その命を奪ってしまったのはひとえに千早の不用意な接近のせいである。

 不意の助けに張っていた気が抜けたらしく、海中へと転び落ちてしまったのだ。

 慌てて引き上げたが、既に息は止まっていた。


「救えなかった方の遺髪と、階級章です」

 千早が懐に忍ばせた遺髪を差し出すと、陸軍の佐官は厳めしい顔をくしゃくしゃに潰し、一寸後に口を開いた。

「苦労をかけた、宮本少尉。本当に助かった」

「いえ……、それでは再び捜索に行って参りますので、失礼いたします」

 挙手礼したところで、「待て」と渋谷に止められた。


「もう、夜だ。いくら北洋の宵が長いとはいえ、夜間飛行は危険を伴う。今日の救助活動はこれで仕舞いだ」

「ですが――」

 要救助者が北洋の夜を無事に越せるとは思えない。

 むきになって食い下がる千早を、今度は陸軍の佐官が強く諌めた。

「無謀はいかん。宮本少尉。海に投げ出された268名の内、200名までも無事に救出できたのだ。これで良しとする」

 言い返そうと千早は佐官を睨み、不承不承に命令を受け入れた。

 誰よりも納得のいっていない顔をしているのが、目の前の佐官であったからだ。


「……了解しました。宮本航空士、これより待機に入ります」

 挙手礼をし、俯き気味に指揮所を出る。

 その後ろを、渋谷も共に歩いていた。


「ミヤチ、陸さん連中と知り合いなのか? あの大佐もお前さんのことを知っているようだったが」

「蘇州で国民党軍に囲まれた自分を救出してくれたのが、彼らだったんです」

 今回陸軍より千島列島へ派遣された部隊は、陸軍第7師団の歩兵第25連隊であった。

 彼らは明治期の屯田兵を起源に持ち、その錬度は国内においては比類無き精強さと名高い。

 先の大陸における戦闘でもその高い錬度を生かして国民党軍を散々に打ち負かしていた。

 恐らく、彼らがいなければ千早も今頃生きていなかっただろう。

 その彼らが犠牲になったのだ。

 此度の戦いで戦死したと聞かされた士官の中には、蘇州で世話になった者たちも混ざっていた。

 助けてもらった恩を返せず、最早会うこともかなわない。

 意図せず恩知らずとなってしまった身の上が恨めしく、見晴らしのいい草原より遠目に浜辺の向こう、湾の向こう側へと目をやる。

 未だ助けを求めている友軍がこの近辺に取り残されているのかも知れない。

 彼らの姿がぼんやりと宵闇に浮かんでは消える。歯がゆくて、仕方がなかった。


「そうかあ」

 渋谷はそう言ったきり、黙って千早の横に並ぶ。

 下手な慰めは無用だろうという、彼なりの気遣いなのかもしれない。

 二人はそのまま陸・護民共同の野営地へと向かう。

 野営地が両軍で共同なのは連絡の便を考えたということもあったが、それ以上に兵を収容する船が足りないためであった。

 何せ、輸送船の1隻と"浦島"が航行不能になっているのだ。

 何時沈むともしれない船に人を乗せておくわけにはいかない。野営地は単冠湾の海岸線沿いに設営することとなった。


 そう言えば、と海岸に寄せられた"浦島"を見やる。

 艦首が吹き飛んだ艦隊の旗艦は、浮いているのが不思議なほどの損傷を受けていた。

 あの"浦島"に不意の一撃を与えた艦は何処にいたのだろうか。人命救助の傍らで、生田と千早は周囲を探してみたが、それらしき艦を見つけることはできなかった。


「シローさん、あの雷撃は一体何だったんでしょうか」

「"浦島"の頭をえぐった奴か」

 渋谷は口元に手を当て、困ったように空を見上げた。


「姿が見えないってのに攻撃が来るとなると……、恐らくは潜水艦だろうなあ」

「潜水艦、ですか」

 ここで出てきたか、という思いであった。

 未来知識として海上護衛の天敵は、潜水艦であると事前に学んでいた。

 駆逐艦が沿海州で建造できるのならば、潜水艦だって同様に建造できるはずだ。

 そのことを失念していた。大失態と言って良い。

 予め付近に潜水艦がいるだろうことを進言できていれば、いや……。


「そもそも"浦島"も"竜宮"も対潜装備は積んでいたはずなのに」

 護民設計艦には、潜水艦に対抗するために英国式の対潜爆雷と投下軌道、そして聴音機が備えられていたのだ。

 それが何の役にも立たず、不意打ちによって大打撃を受けてしまった。何故、こんなことになってしまったのか。

 千早の疑問に対して渋谷は自分なりの答えを得ていたようで、ため息交じりに答えを返してきた。


「あの乱戦の中、聴音器なんて悠長に落としていられん。今回の件で分かったが、目視できる範囲内に敵艦隊が展開している場合は対潜兵装なぞ使う暇がない。はっきり言って、あの雷撃は防げなかった。これは断言できるだろう」

「それじゃあ……、どうすれば」

「そこいらはうちの大井メニーが対策を考えていることだろう。あいつの頭の出来は並じゃないぞ」

 背の低い草原がひんやりとした砂浜に変わるあたりで、夕飯の匂いが鼻をつくようになった。

 野営地へと着いたのだ。

 まるで山脈のように連なる天幕の合間で、陸軍と護民総隊が共同で設営と夕飯の準備に勤しんでいた。

 良く見てみれば、"竜宮"の主計兵が陸軍に囲まれ、肩身の狭い思いをしながら釜の火を見ている。


「シロー艦長、ミヤ隊長。お帰りなさい」

 二人を出迎える護民艦隊の水兵たちは、何処かほっとしたような顔をしていた。

 2000人近い陸軍の中にたったの100人が放り込まれていたのだから、彼らの弱気も無理はない。

 ましてや、現在最高責任者である佐藤中将と新見大佐が重傷を負って指揮のできない状態にあるのだ。

 唯一無事に動ける指揮官は渋谷ただ1人で、恐らくは彼らの目には渋谷が救いの神のように見えているに違いあるまい。

「おう、今戻ったぞ。美味そうな匂いさせてるじゃねえか」

 渋谷が犬のように辺りの匂いを嗅ぎながら笑うと、水兵たちの表情が綻んだ。


「陸さんと食材の融通をし合うことになったんです。今日は野菜と缶詰肉が食べられますよ」

「大和煮か!」

「醤油エキスもついてますよ」

 わあっと場が盛り上がったところに、藤田が横から声をかけてきた。


「隊長、陸さんが隊長とお会いしたいと」

「ん、分かった」

 藤田の後をついていくと、そこには酒気を帯びた生田に、やはり見知った陸軍士官たちが車座になって座っていた。

「宮本少尉」

「お久しぶりです、寺尾大尉」

 寺尾明陸軍大尉は蘇州における恩人の一人であった。

 歩兵第25連隊の隊長を務める彼は、不時着した三式艦戦に近づかんとする国民党軍へ突撃を仕掛けた指揮官なのだ。


「北洋の魚を頂いたが、こんな美味いもんを普段から食らってるのか。総隊さんは。羨ましくてかなわんぞ。うちの新米士官が叫んでおった」

 口髭を撫でながらそんな風に茶化してくる。

 蘇州における第一声で、『抜け駆け、夜討ちは武士の誉れ。何処ぞの藩のお侍か』とからかわれたのを思い出した。


「というか、酒を飲んでいるんですか。生田さん」

「いや、陸さんに礼だと言われてな。つい……」

 呆れ声に赤ら顔で返されてはどうしようもない。

 ため息をついて寺尾に謝ると、彼は大笑いで着座を勧めてきた。

「元々あんたらに礼を言いたくて呼んだんだ。酒の1升や2升許してやってくれ」

 そう言うや否や、新米らしき士官を呼び止め、酒焼け声で怒鳴りつける。


「栗原ァッ! 宮本少尉に酒をお出ししろっ」

「はいっ!」

 びしりと挙手礼してきびきびと酒食の用意を始める士官を見ながら、寺尾は目を細めていた。


「旗手の栗原だ。元は広島の11連隊にいたんだが、何か中央のごたごたに巻き込まれて、こんな辺境方面軍にまで飛ばされてきたらしい。やります。やりますと威勢も良いし、将来は連隊長だって務まるやも知れんな」

 どうやら寺尾は相当な期待を栗原という士官にかけているらしい。

 それにしても、中央のごたごたとは何のことだろうか。満州事変に関わることか、それとも……。


「あいつや、他の連中の命を総隊さんの飛行機が救ってくれた。礼を言いたい」

「えっ」

 思考を明後日の方向へ飛ばしてる所への不意打ちで、千早は思わずうろたえてしまった。

「あ、頭を上げてください。大尉」

「そうはいかん。生憎"富山丸"はあのざまだが、"対馬丸"はあんたたちの奮闘で助かったんだ。1人でも多くの兵が助かったのなら、それはそれはめでたいことなんだよ。筋は通さなきゃいかんだろう」

 あくまでも頑なに義理を通す寺尾の言葉に、少しばかりほっとさせられた。

 自分は無力ではなく、確かに誰かの命を守るという一点において貢献できたのだという安心感が胸の内に湧き上がってくる。

 千早も居住まいを正し、寺尾に膝を向けた。


「……自分とて、25連隊さんには多大な恩があります。同じ臣民の盾として、互いに助け合う。それで良いのだと思います」

「そうか、ありがとう」

 寺尾が髭に隠れた口の端を持ち上げたところで、栗原が酒を持ってきた。


「宮本少尉、どうぞ」

「ああ、ええと。ありがとうございます。栗原、さん」

「栗原安秀中尉であります。この度は誠にありがとうございました」

「中尉殿でしたか。これは失礼を」

 挙手礼をしようとしたところを笑って制される。


「命の恩人です。そういう上下関係は無しにしましょう。それよりも自分としましては、"国家改造"の最前線に立っている総隊の皆さんに興味がありまして……」

「はあ……」

 前のめりに詰め寄ってくる栗原に、千早は思わず退いてしまう。

 その夜、千早たちが総隊の野営地に戻ることはなかった。

 気がついた時には一升瓶を片手に陸軍に混ざって川の字を作ったまま、朝になっていたのだ。


 1933年11月に勃発したこの不正規戦闘は、後に新知・択捉の海戦と呼ばれ、帝国の国威高揚に利用されることとなる。

 帝国陸軍はこの戦いを機に護民総隊に対し好意的立場を取るようになり、「我々の海軍」とまではばかりもなく言うようになるのであった。


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