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1933年12月 新潟県、新潟市にて

 信濃なる筑摩ちくまの川のさゞれ石も、とは一体誰の歌であったか。

 日本一の大河川――、信濃川の河口に架かる萬代橋ばんだいばしを、中地要は川岸に臨む料亭の窓よりぼうっと眺めていた。

 今や新潟市と対岸の旧沼垂(ぬったり)町を繋ぐ動脈として活躍し始めたあの橋も、以前は権益の争いから架橋を疎まれる存在であったという。


「もう3、40年前の争議になりましょうか。あの橋が架かる前は両者の争いが甚だ過熱いたしまして、住人による爆破事件まで起こるほどでした」

「爆破事件、ですか?」

 傍らで茶を飲んでいた共和商事顧問役――、金子直吉の呟きに驚いて問う。

 すると彼は顎をさすり、往事を思い出すように宙を見上げながら答えた。


「新潟市は新潟港を有している。これは幕末の通商条約によって開港された、多大な富を生む良港です。対する沼垂はというと北越鉄道の終着駅を持っていたのですな。そのため、この二つの町はとにかく仲が悪かった」

「ふむ」

 陸運と舟運しゅううんの違いこそあれ、荷運びで儲けているという点においては双方ともに変わりない。

 つまりは商売敵同士というわけだ。仲が悪くならない道理がなかった。


「随分この辺りの歴史にもお詳しいのですね、金子翁は」

 素直な気持ちで賞賛を述べると、直吉は苦笑いを浮かべる。

「年の功……、と申し上げたいところですが、以前この辺りが米不足に陥った時、支援米をどう届けるかで吟味しましたもので」

「それは」

 何の話かは続けずとも分かった。

 米不足、とはシベリア出兵時の米騒動を指すのだろう。あの時の彼が舵取りを行う鈴木商店は、新聞のねつ造記事により米を買い占める悪徳財閥としてやり玉に挙げられていた。

 つまり、彼の失敗談に属する思い出なのだ。これは。


「すみません」

 折角の善意が悪意によって踏みにじられた一件は、彼にとって忘れられぬ苦い思い出に違いあるまい。

 要がばつが悪そうに頭を下げると、直吉はゆっくりと頭を振った。


「いえ、わしにとっても貴重な経験でしたよ。あれは。社長もしっかりとお心掛けなさいませ。商売敵は、警戒しすぎるくらいが丁度よろしい。特に"お儲け"を本分とする輩は何をしでかすか分かりませんからな」

「……肝に銘じましょう」

 丁度仲居による来客の到来が告げられ、直吉と目を合わせ頷き合う。

 そう――、警戒しすぎるくらいが丁度いい。

 何せ、今から話し合う相手はまさに鈴木商店を陥れた張本人なのだから。

 要は気持ちを引き締め、来客の到来を待ちうけた。



「三井物産の営業部長、向井忠晴むかいただはると申します。この度はお招きいただき誠にありがとうございました」

 インバネスコートの下にぴしりと整ったベージュのスーツを着込んだ男が頭を下げてくる。


「ああ、いや。謝らなければいけないのはこちらの方です。本来ならば我が社が貴社のお招きに応じることができれば良かったのですが」

 向井と名乗ったその男は、要の言葉を聞くと理性的な顔立ちを綻ばせ、二人に握手を求めてきた。


「今を時めくお二方と同席させていただけるとは、誠に幸運なことですよ。社の連中にも自慢できます。料理の方も、期待させていただきますね」

「その点はご心配なく。金子翁のお墨付きですよ。この店は」

「それは素晴らしい!」

 10月の初め頃、共和商事は三井物産から今後の業務方針に関わる会談の申し込みを受けていた。

 しかし、会談の予定地とされた帝都は折悪く「満州利権絶対死守」のデモが過熱しており、治安に心配があることから断りの一報を入れてあったのだ。

 共和商事の影響力が強い新潟における会談はその代案として提示されたもので、三井財閥の是が非にでも交渉したい内容があるという思惑が透けて見えていた。


「まあ、帝都で我々は"売国奴"扱いをされておるようですからな。流石に命は惜しいゆえ、多少の不義理はご寛恕かんじょくだされ」

 相手の様子を見ようと柔らかく返した要と比べ、にっこりと笑う直吉の言葉はまさに苛烈極まるものであった。 

 何せ共和商事を"売国奴"と叩いている元凶は、三井財閥の傘下にある新聞社なのだ。

 要とて、今更どの面を下げて会談を申し込んできたのかと困惑せざるを得ない。流石に顔にまで出さなかったが、内心では直吉と同じ考えを抱いていた。


 直吉の皮肉を受けた向井は困ったように頬を掻く。

「……ああ、あのねつ造記事ですかあ。あれには我々もほとほと困り果てているのですよ」

 まるで他人事のような口振りだ。

 腹を見せない向井の顔を、要はじいっと見つめた。

 子分に自分たちがやらせたことなのに、何故こうも素知らぬ顔を通せるのだろうか。

 まず断言できることだが、彼が財閥傘下の新聞社による情報操作を知らないということはあり得ない。

 三井物産の営業部長という役職は単なる1企業の番頭ではないからだ。


 そも、三井物産とは日本に数ある企業の中でも、とりわけ海外進出に力を入れている企業であった。

 これには明治から続く日本の海外戦略が影響しており、まず三井物産や日本郵船、横浜正金銀行といった財閥の傘下企業が海外に経済拠点を構築し、政府がそれを援助する。そして地元に反日感情が生まれる……、ないしは独自の販路を構築しようという動きを見せた場合は、彼らの利益を守るために軍部が師団を送りこみ、力でもって解決を試みるまでがお決まりの手段として出来上がっていた。

 言うなれば帝国主義という経済システムの尖兵こそが彼らであり、その最前線で指揮を取る人物をただの歯車と軽んじて良いはずがない。

 彼の一言で、政財軍界の全てが動く可能性すらあるのだ。


「門外漢ではありますが、新聞が事実無根のデマを流すなど、全く許しがたいことだと思いますよ。あそこの編集長は近い内に首を切られ、社会的に抹殺されることでしょうな。それが言論の正義というものです」

 向井の物言いに、直吉の笑みが深くなった。だが、その眼は全く笑っていない。

 ……喉がしきりに渇く。

 既に1年以上も社長職を務めてきたが、要は未だにこの腹黒どもが膝を突き合わせる財界の闇に慣れることができずにいた。


 酒食がきょうされ、三者が車座になった静かな会談が開始される。

 最初は互いの業績に対する賞賛を交わし合い、今後の業務方針の大枠など、当たり障りのない情報を交換していく。

 腹に憎しみを抱えた直吉も財界人としての常識はよくわきまえたもので、向井に当たり散らすことはなく要に的確な助言をするだけに終始した。


「正義と言えば、いやはや護民総隊はまさしく愛国者の鑑ですね」

 しばし経ってから、杯を傾け上機嫌な面持ちで向井が話題を切り替えた。

「護民総隊……、ということはソビエトとの一戦のことですか?」

 新聞沙汰にはなっていないが、先週ソビエトの艦隊と護民総隊との間に戦闘が勃発し、護民総隊が辛くも勝利を得たという情報は要も司令部より知らされていた。

 三井も軍部にコネがある以上、別ルートで情報を得たのだろう。


「はい。戦力で劣る艦隊が錬度と采配で敵を蹴散らしたと聞きましたよ。まさに日本海海戦の再来! 彼らの凱旋には多くの国民が駆け付けるでしょう」

 と向井は鼻息荒く語りながら、佐藤中将については東郷にも劣らぬ名将として、新見や渋谷の両艦長は部下を慮る有能な士官として褒め称える。

 現地の戦闘詳報まで掴んでいるらしく、彼の語り口はまるで現場にいたかのように臨場感に溢れるものであった。

 驚くべきは、千早や生田といった航空士官の活躍までしっかりと耳にしていたことである。

 どうやら、輸送船にいた陸軍が彼らの活躍を目の当たりにしたらしく、陸軍内では急速に護民総隊の評価が上がっているようだ。

 それに引き換え、と向井はあからさまに嘆息する。


「海軍さんには少々失望させられました。彼らにも思惑があるんでしょうが、いざとなった時真っ先に我々の商売を守ってくれないようでは困ります」

 要はこの言葉に賛同しようか、少しためらった。

 彼の言葉はまさしく共和商事の、護民総隊の在り方に沿ったものであったからだ。

 要の立場からすれば当然賛同しなければならない。

 しかし、彼のあからさまな歩み寄りには幾ばくかの胡散臭さを感じる。

 果たして即答していいものか――。

 ちらりと直吉に目配せすると、この百戦錬磨の翁は破顔して二人の会話に差し出口を挟んだ。


「確かに此度の海軍さんは少々下手を踏みましたなあ。通商の護衛は総隊任せ。不始末をしでかせば、そこを叩こう。大方、そんなお考えがあったのやもしれませんが、艦の一隻も寄こさないのはいかにもまずい」

「はい。はい。そうですとも。更にソビエトの艦隊は領海内にまで侵入してきたそうじゃありませんか。海軍さんの本業まで放棄するようじゃ、信用だって失いましょう」

「これから総隊の担う役割は増えるやもしれませんか」

「少なくとも身内に海運を抱えている我々は、総隊さんの飛躍を望みますよ。他の海運業者さんだって、そうじゃあないですかね」

 傍目には意気投合しているようにも見えるが、腹に抱えているものが分からない要にとって、彼らの会話はまるで伏魔殿で行われるやりとりのように思えた。


「北洋は共和商事さんと我々が共同で管理する"宝の山"なんです。ソビエトがそれを掠め取ろうというのならば、断固として戦うまで。どうでしょう? これからは手を取り合って、苦難の道を乗り越えようじゃありませんか。我々はいくらでも手をお貸しいたしますよ」

「それはありがたい。将来のことも踏まえて、今後も会談を重ねていく必要がありましょうな」

 直吉と向井は席を立ち、要にも起立を求めてきた。


「ほら、社長も。貴方が彼の手を取れば、我が国の未来は明るい兆しが差し込むのです」

「……分かりました」

 恐らく手のひらに冷や汗が滲んでいることもばれてしまったことだろう。

 向井は微笑んで語らなかったが、今回の会談で彼らと自分との格付けがされてしまったことは間違いない。

 その後の会話は要の記憶に残るものは多くなかった。


 宴もたけなわとなり、張り付いた笑顔で向井を見送った後、

「塩を撒きたいもんですな」

 飲み直さんとばかりに席に戻った直吉が不快げに毒づいた。


「……先ほどは申し訳ない。僕の力が足りないばかりにお手を煩わせてしまいました」

「いや、社長は何も悪くはありませんぞ。こればかりは経験が物を言う世界なのですから。奴らの腹の内が読めなければどうしようもない」

「腹の内、ですか」

 直吉は頷いて、言葉を続ける。


「奴らは満州の代わりになる地域を、探しているのです」

「えっ、満州ですか?」

 予想外の言葉に思わずおうむ返しに口を挟んでしまう。

 満州に台湾、南方に北洋、数多ある日本の支配地域に三井の根は深く張り巡らされているわけだが、今回問題となったのは北洋だけだ。何故満州が関係してくるのか、全く理解が追いつかなかった。

 困惑する要に、直吉はまるで教師が出来の悪い生徒を育てるようにして言葉を選び、解説を始める。


「まず満州という地域は世界的な大豆の生産地であることはご存知ですかな」

「それは流石に。シナ大陸は広いですから、その分農産物に関しても我が国の生産量とは比較になりません」

 日本は国内で消費する穀物の内、小麦と大豆を中国に依存していた。

 その額の程は把握していないが、恐らく相当な額に及ぶはずだ。


「三井物産はこの大豆を独占的に買い占めているのです。大豆はマアガリンなどの植物油に加工できますので、海外受けが大変よろしい。恐らくその利益は年間数十億ではきかないはずです」

「そんなに……」

 要は利益の膨大さに驚くとともに、三井物産の先見性にも舌を巻いた。

 海外で確実に売れる商品を選択し、安定供給の可能な体制を作り上げることは並大抵の努力では不可能だ。それは缶詰を作って海外展開を考えている要にも良く分かる。

 どうやら三井物産は、要の歩む道の相当先を進んでいるらしい。


「ですが、彼らの独占を快く思わない者たちがいた。シナ軍閥の連中ですな。彼らとの経済的な諍いが満州事変の遠因となるのですが、ここにきて都合の悪い状況に陥ってしまった」

「それは?」

「政府が満州から梯子を外してしまったことですよ。リットン調査団の発表を政府は粛々と受け入れてしまった。国連は満州の日本権益について一応認めてはいますが、その一方で"門戸開放"も訴えている。今後は独占的な商売が難しい立場になりましょう」

 半年前の新聞記事が要の脳裏に浮かびあがってきた。

 政府が国連の忠告を受け入れ満州国の建国がとん挫したあの事件を、要は単純に「日本が国際社会から孤立せずに済んだ」と喜ぶだけであったのだが、見方を変えればそこまで経済的損失があったのかと驚かざるを得ない。


「今までの流れならば、犬養首相辺りが暴徒に襲われ政府決定が覆るのではないかとわしも予想していたのですがね。意外なことにそうはなりませんでした。となれば、改めて満州の損失分を何処かで補填する必要がある」

「……それが北洋権益だと?」

 直吉は静かに頷いた。


「奴らは総隊にソビエトをけん制してもらいたい。そこで話を通しやすい我々に会談を申し込んできたわけです。我々としても三井が管理する八幡製鉄所産の鋼材を入手できるようになり、日本郵船の大海運力を期待できるわけですからそこまで悪い話でもありません。呉越同舟。利用できるところは利用してしまいましょう」

「そこまで見通しておられるのなら、予め教えていただきたかった」

 要がこめかみを押さえながら文句を言うと、直吉は狒々のような顔を殊更皺くちゃにして笑った。


「申し訳ないが、そこも計算の内です。ご容赦くだされ」

「計算、ね」

 1年以上の付き合いで分かったことだが、この老人は面白いか否かで判断を決めることがある。シャルロッテの大牧場建設が代表的な例であった。

 今回もその例に当たるのではないかと睨みつけると、


「……これで奴らは共和商事をわしの傀儡政権だと考えることでしょう。丁度悪名も高いことであるし、もし奴らと利害が衝突して悪漢に襲われることがあったとしても、その狙いはわし一人に絞られます。囮は、老いぼれの方がよろしい」

 思ってもみなかった返しに面食らってしまった。

「金子翁――」

「矢面にくらい立たせて下され。折角の好機を与えられたのです。後ろでくすぶってなぞいられません」

 手酌で日本酒を呷る姿が、要にはとても大きく見えた。

 果たしてこの老人が生きている内に、自分はその背中に追いつくことができるのだろうか。

 

 かぶりを振って、気を引き締め直す。

 追いつけるのか、ではない。追いつくのだ。

 ひょんなことから未来を知り、こうして自らの才を財界に投じたのだから、誰かの背中を追いかけるだけのつまらぬ男で終わってはしようがない。

 自分には、エリート中のエリートであるというプライドがあるのだ。


「深酒は体に障りますよ。これからたくさんの仕事が待っているんですから」

 生意気な口ぶりに、直吉が再び笑い声をあげた。


今週中には、戦闘後の総隊についても投稿できそうです。頑張ります。

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