1932年2月 蘇州にて
気の遠くなるような――、千日手の空戦に終わりが訪れようとしていた。
被弾した味方機を助ける。その一心で急降下を試みた宮本千早の思考は、乗機を揺るがす強烈な衝撃によって白く塗りつぶされた。
どうやら、敵機と空中で接触したらしい。
臓腑を内から押し上げるかのような圧迫感に目が回り、程なくして千早は自身の駆る戦闘機が墜落していることを悟った。
乱れる血流に薄れ行く意識の中、千早は必死にあたりを見回す。
コックピットから見る外の景色は、悪性の水平きりもみ墜落。いわゆるフラット・スピンによって走馬灯を思わせる様相を示している。
フラット・スピンからの生還率は0に等しい。
今の千早はまさしく死の淵に瀕していた。
昔日の思い出なんてロマンチックなものは決して現れてくれない。
目の前にあるのは、何処までも現実的な"今"だけだ。
死人のように蒼い空。
底なし沼のように暗い太湖の水面。
血煙立ち上る蘇州のきな臭い町並み。
三半規管がかき乱され、口の中に不快な酸味と臭気を感じる。
忌々しく左へくるくると流れる景色に目を回しながら、千早は思う――。まるで空で溺れているみたいだ。俺はこんなところで溺れ死ぬのか、と。
土浦で学んだ飛行技術のことごとくが、残酷な運命を前にして意味の無いものと化していた。
溺れる者がすることはたった一つだ。つまり、最期の時まで意地汚くあがくことのみ。
助かる可能性など万が一に無いとしても、人は生にすがりつくものなのである。
千早は藁をつかむように操縦桿を強く握り込む。
地に足を着けるように、フットペダルをしっかりと踏む。
肌に当たる、わずかな気流の変化をも知覚すべく、全神経を集中させる。
果たして天の采配か全くの偶然かは杳として知れないが、千早の運命をすくい上げたのは溺れる視界に入った"敵"の姿であった。
千早と同様、接触によってフラット・スピンに陥った"敵"が事態を打開しようともがいている。
英国人、いや米国人かもしれない。
ここ数日間の空戦で、何時も鎬を削ってきた相手であった。
既に味方を何機も落としている憎むべき相手であったが、焦げた金髪の、大柄の男が必死の形相で操縦している様子はいかにも滑稽であり、千早の心にほんの少しの落ちつきと、あってはならない"仲間意識"とを芽生えさせた。
何とかして昇降舵や方向舵を操作しようとしているようだが、失速が影響しているためか一向に効く様子がない。
苦し紛れにスロットルレバーをWEP(緊急出力)にまで上げたらしく、彼の乗る機体から白い排気ガスが大量に噴き出す。
だがその思いつきは逆効果であったようで、プロペラ回転によるトルクが増大し、かえって回転を強めるだけの結果に終わった。
しかし……、彼の失敗を見て、千早の脳裏に閃くことがあった。
昇降舵や方向舵が失速により役立たずになっている今、何が機体をスピンへと陥らせているのか――。それはプロペラのトルクである。
トルクを消すにはどうしたら良いか。発動機を止めれば良いのである。
千早は大きく息を吐いた。
実行には覚悟がいる。一度切ったエンジンは、外部から手動慣性起動器を回さなければ再起動できないからだ。
もし、エンジンを切ってもスピンが止まらなかったら……。
そんな弱気を腹の内に押し込んで、ぽっと出の思い付きに命をかけられるか否か。
ここで千早は博打をうつことを選び、意を決して乗機のエンジンを停止させた。
早鐘を思わせるエンジン音が聞こえなくなり、プロペラがトルクを失う。
徐々に徐々にとスピン速度が弱まっていく。
昇降舵が効く。方向舵が効く!
「よしっ」
喝采をあげたい気分であった。
地上へ向けて緩降下しながら、ふと罪悪感が湧き出してくる。
誰しもが親にねだったおもちゃを、抜け駆けで買ってもらったかのような稚気じみた罪悪感だ。
千早は敵機に目を向ける。
卵型の複葉機を駆る西洋人は、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
一寸遅れて、彼もエンジンを停止させ、スピンからの回復を試みる。
ゴーグルの下にそばかすの目立つ彼の顔が、覚悟を決めたように引き締まった。
――墜落してくれ。
――回復してくれ。
帝国軍人としての自分と、一人の飛行機乗りとしての自分が矛盾した願いを繰り返す。
スピンが弱まった。
彼が駆る戦闘機も降下体勢に移り、よろよろとした動きで千早と並び空を滑る。
まるで水面を泳ぐ鴨の群れのようだ。
敵と味方だというのに、これはおかしい。
千早は空を滑る仮初めの"仲間"と共に、明代の伝統建築が立ち並ぶ水の都を遊覧する。
透き通るような空の青も、太湖の輝く湖面も一生忘れることはできないだろう。
薄い雲が二つに割れる。
まるで、空の道が開けていくようだ。
あの先にあるものは何だろうか。
共に死線をくぐり抜けたあの好敵手とならば、この空の頂きにだって辿りつけるかもしれない。
そんな万能感を共有したいと思い、後ろを振り返る。
彼は――。名前も知らない西洋人は千早の味方機に撃ち落とされ、真っ逆さまに墜落しているところであった。