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1933年2月 秋田県男鹿半島、護民総隊本部にて(4)

 1933年2月初め。

 護民総隊と共和商事の協同による記念すべき第1機目の航空機製造は、わずか一月で主翼が組み上がるほどに順調な進捗しんちょくを見せていた。


「ハアー、北羽ほくうのー、峰ーのー、おやーかたーのー、組みー立てーのぉー」

 整備ハンガー内に、近代工場にあるまじき仕事歌が響き渡る。

 職人たちの即興歌だ。

 聞くところによれば彼らも不景気のあおりを受けて懐の寂しい日々を送っていたらしく、その表情は皆明るい。


「接合は慎重に! もう少し、もう少し右です!」

 職人が賑やかな喧騒とともに長時間労働を楽々こなしている中、書類を丸めて拡声器代わりにしたユーリが周囲へテキパキと指示を出している。

 頭脳と手先の連携は、わずか数週間で既に阿吽あうんの域へと達していた。

「ドブジェ! 接合部のヤスリがけもお願いです!」

 まるで掘ったて小屋でも建てるかのように、次々と機体の胴体が組み上がっていく。

 彼らの働きを横目で捉えつつも、千早の視線は組立用のウマに置かれた主翼部へと向けられていた。


「……本当に作ったんだよな」

 ベニバナ色に染め上げられた翼面には凹凸と継ぎ目が全く見られない。まるで鏡のような楕円翼を見て、千早の頬は独りでに引きつっていく。

 この翼は既にマッキのものではない。

 ユーリの科学知識と職人の伝統的知恵が次々に化学反応を引き起こしたことにより、違う何かへと変貌を遂げてしまったようであった。

 まず、既存のマッキ製作に用いられていたはずのビス類――。

 これはユーリと職人たち双方の発案で、全面的に撤廃されることになった。

 ならば部品の組み立てはどうするのかというと、主に古木の削り出しによる組み立て部品の削減と、接木つぎきなる伝統的な接着技術によって対応している。

 数少ない接合部からにじみ出ている黒色の染みは、なんとニカワとウルシを混ぜ合わせたものだ。

 よく美術品や工芸品に用いられる、伝統的な接着剤であった。


 千早は先々週の開発会議を思い起こす。

 会議中、これらのアイデアを説明された千早は、設計図を見ながらただただ首を傾げた。

 ニカワもウルシも古来から伝わる伝統的な接着剤の一種だが、木製航空機にまで使用されるものとは知らなかったからだ。

『……航空機というのは、こんなにも古い技術が使われているものなんだな』

 設計図を見ながら千早がそうユーリに語ると、


『ニエット! これはマイスターの素晴らしい知恵です。強度の計算はしましたから、きっと大丈夫ですよ!』

 その場の創意工夫であるという、恐るべき事実を得意げに暴露してくれた。

 更に驚くことに、両接着剤の繋ぎとしては餅にかけるキナコまで用いたと言う。

 近代技術に喧嘩を売るような所業を目の当たりにし、その時の千早は開いた口がふさがらなかった。

 航空機は食器ではない。ニカワとウルシとキナコで満足のいく接着力が維持できるものか。

 このままでは空中分解による悲劇は免れん……、と危機感を抱いた千早と生田の航空士二人組は、何とか思いとどまらせようとユーリに直談判を申し入れた。


 その結果が、今目の前に組み上がった代物である。

 つまり――、二人の努力は水泡に帰した。


『計算上、空気抵抗や接合部の不良さえなければ、空中分解なんて起こりようないです。でも……、航空士の信頼も大事ですね』

 一応、ユーリも鬼ではなかったようで、こちらの要求を無碍にはしなかった。見るからに不承不承の体ではあったが。

 だが、あくまでもビス打ちは認められず、千早たちの発案による組み立て箇所の補強は釘打ちでのみ行われた。

 それも主翼の内側から和釘を打ち込むだけというこだわりようだ。

 相当、ビス打ちを避けたいらしい。


『空気抵抗は航空機の天敵です。速さも、不安定な挙動も無駄な空気抵抗から来ることが多いです』

 ユーリの空気抵抗嫌いは、胴体部の設計にも存分に発揮されていた。


 千早は今現在、順調に組み上がっていく胴体部の上にぽっかりと開いた操縦席を呆れた顔で見上げる。

 航空士にとって、本来なら自室よりも馴染み深いはずのスペースに、見慣れぬガラス質の"覆い"が被せられていた。


 "風防"と呼ばれるガラス窓である。

 露出した操縦席は無駄な空気抵抗を生み出してしまう。それを嫌ったが故の改造であった。

『空気抵抗を減らすには、露出した操縦席なんて駄目に決まってるです』とは設計段階で力説したユーリの言だ。


『風が感じられない』という生田の反論や、『ライセンス生産だから』という共和商事のやんわりとした制止に対しても、『現場の改造に前例があるです。僕がイタリア本社と談判するです』との一点張りで思い付きを通していく。

 どうやら、ようやく自由に振る舞うことができる環境を得て、必要以上に張り切ってしまっているようであった。


 ……張り切る、ということ自体は別段悪いことではない。努力の方向性さえ間違わなければいいのだ。

 千早は会議中、設計図を睨みつけながら必死に完成予想図を思い描いた。


 例の"テクスト"に掲載されていた零戦やB29といった未来の航空機たち――。

 そのいずれもが視界を風防で覆っていたと記憶している。

 恐らく、今後の航空機に必要な技術なのだ。この"覆い"は。


『……了解した。不慣れな部分は現場の努力で受け入れる。ただ……、現場の意見もなるべく尊重していただけるとありがたい』

 あくまでも撤去を主張する生田に対し、千早は苦渋の顔で、ユーリの案を受け入れることにした。


『ジェンクイエン……っ! やっぱりチハヤさん、開明的です! 理解のある人と仕事ができるの、すごく幸せです!』

 結果として、製造が開始されたものが目の前の"試製マッキ"である。

 用いられた技術の一部はイタリア本社へ供与され、更なる技術交流やライセンス料の減免交渉に使われるとのことだ。

 ユーリはこの一連のマッキ改造計画を、"フォルゴーレ計画"と名付けていた。イタリア語で"稲妻"を意味する言葉らしい。

 大層な名前である。

 いずれは雷のように速い航空機を開発したいと言う、ユーリの意気込みが強く反映された名前であった。


「ハアー、北羽ほくうのー、峰ーのー、おやーかたーのー、組みー立てーのぉー」

 千早が呆れている間にも時間は淡々と過ぎていく。

 機体が8割方組み上がる頃には、既にハンガー外より差し込む西日が海の向こうへと消え行かんとする時分になっていた。




「宮本航空士、お疲れさまです!」

 職人たちの終業を見届け、ハンガーを出た千早にぞろぞろと若々しい声がかけられる。

 水兵の募集に志願してきた候補生たちであった。 

 その数は50人ほど。

 いずれも北陸・東北出身者で占められており、そう遠くない内に各兵科へと割り当てられる予定である。

 中には航空士の枠も存在しており、生田と千早でめぼしいものを見繕っている最中だ。


「訓練中か。御苦労」

 と挙手礼を返すと、綺麗に揃った声が返ってきた。

 にわか仕込みなのによく訓練されている。水兵の教育は新見や渋谷たちに一任されているため、彼らの薫陶の賜物だろう。 

 この若者たちはいずれ護民の柱石となる。大事にしなければならない。

 そう思い、「頑張れよ」と一言付け添えようとした瞬間、


「挨拶が終わったら、さっさと走れ! まだ訓練中だ、馬鹿もんッ」

 と若者たちを追い立てる牧羊犬の群れが駆け寄ってきた。

 肌を突き刺すような寒さの中でも薄手のシャツから湯気を漂わせた青年たちだ。

 大方、脱落者を見張るべく水兵候補生の後方を走っていたのだろう。


「は、はい!」

 慌てて駆け足を始める候補生たちをギロリと睨み、青年たちはすぐさま千早に挙手礼をする。


「お騒がせしました。宮本少尉」

「お疲れ様。随分と水に合っているようで安心したよ。"石岡"少尉」

 千早がそう言って笑うと、彼らは頬を掻きながらきりりとした相好を崩す。


「……後ろ指をさされない立場というのは、居心地が良いものですね」

 彼らは、呉で千早を血盟団に誘おうとした青年士官たちであった。

 あの古賀清志が凶弾に倒れた五一五事件にも巻き込まれていたようで、怪我を理由に海軍を辞め、こちらへと移ってきたらしい。


「古賀さんが仲間に撃たれた時に気づいたんです。我々は手を結んではいけない関係者と手を結んでしまったって。もう、間違いませんよ」

 言うが早いか、石岡たちはぺこりと頭を下げ、候補生たちを追い回しに戻った。

 その背中を見つめながら、最期に見た古賀の晴れやかな顔を思い出す。

 彼らに手を差し伸べたのは千早だ。

 ……自分には彼らを導く責任と義務がある。古賀のような悲劇は繰り返すまい。

 千早はそう、強く心に決めた。





 夕食後、アニーが見せたいものがあるというので総隊本部の近くにあった地主の屋敷へと向かった。

 元は名主だったのだろう。防風用に植えられた屋敷林は背が高く、屋敷門には豪奢な瓦がふんだんに用いられている。

 これには千早も首を傾げた。

 共和商事は日本海側諸地域の改造を目的として、独善的、強行的な手段をもって地主から土地を取り上げてきたのだ。

 当然、旧態然とした地主層は共和商事と敵対しており、千早たちに快い感情を抱いているはずがない。

 だと言うのに、何故自分は地主の屋敷へと呼ばれたのか。

 訳が分からず、門前でしばしぼけっとしていると、脇に取り付けられた勝手戸からアニーが顔を覗かせてきた。


「ボナセーラ! 来たのね、チハヤ! でも、ごめんなさい。もう少し準備があるから、外の閲覧所で待っていてくれる?」

「閲覧所?」

「そこの掘っ立て小屋のこと。この国の新聞がただで読めるのよ。ここの家主さんのご厚意で」

「へえ」

 どうやら新聞縦覧所しんぶんじゅうらんじょのことらしい。

 縦覧所とは明治期に新聞の普及を目的として各地に建てられた施設のことだ。最早消滅した施設と思っていたのだが、思わぬところで生き残っていたようだと少し驚いた。


 アニーに促されるままに閲覧所の戸を開けると、豆電球の灯りの中、野良仕事を終えた百姓たちのくつろぐ姿が目に入ってきた。

 碁を楽しむ者もあれば、白湯を呑みつつ仲間と雑談に興じる者もいる。閲覧所とは言っても、単に読書をするための場所というわけではなさそうだ。

 千早は彼らの様子を眺めながら、棚に差し込まれていた新聞を手に取り、顔を強張らせる。

 新聞の題字には『赤旗せっき』と題打たれていた。


「何で、社会主義者シュギシャの機関紙が……」

 生唾を飲み込み、中身に目を通す。

 第一面には財閥のスキャンダルが取り上げられており、社説では資本の搾取がいかに悪いものかをつらつらと書き連ねている。

 紛うことなき主義者御用達の新聞であった。

 社会主義をはじめとする共産思想は、この国の国体を揺るがす危険思想として弾圧の対象とされている。

 この土地の官憲はどうなっているのだろう。治安維持法は働いていないのか。


「あら、軍人さん。ここの閲覧所を利用するのは初めてですか?」

 戦慄している千早に、百姓とは大分毛色の違った男が声をかけてきた。

 手持ちの万年筆をひらひらさせた、下がり気味の太い眉毛がよく目立つ背の低い男である。


「どういうことですか?」

 千早が眉を顰めがら問うと、男は笑って返してきた。

「ここの地主は随分と開明的でしてね。右から左まで、様々な主義主張の新聞を取り寄せているそうなんですよ。棚に出ているのは、ここの利用者に良く読まれている新聞ですね」

「……何で主義者の機関紙が人気になるんです?」

「いや、当たり前でしょう」

 千早の疑問に、男が目を丸くする。


「共和商事に雇われた農民のほとんどが、小作農だったんですよ。自分たちの立場を改善してくれる主張なら、そりゃあ大抵のものは好意的に読みます」

「ですが、過度の社会主義思想は治安の維持に差しさわりが……」

「そこは彼らも弁えているようですな。何せ、共和商事の出資者は天皇陛下でしょう。つまり、彼らは陛下に救われた身の上です。以前は無政府主義アナーキズムを前面に出した新聞も棚に出されたようなんですが、そちらはすぐさま燃やされたらしいですよ」

 つまり、彼らはかなり過激な愛国的社会主義思想に目覚めつつあるということらしい。

 天皇を崇敬し、天皇の名のもとで臣民が平等に暮らせる世の中を理想とする――。

 単体ではあまり問題とならない思想だが、そこに他の主張を認めない排他性が加わると危険だ。

 それは昨今のイタリアで蔓延している、ファシズムにも似た考え方へと繋がるからである。

 千早の背筋に寒いものが走る中、男の説明は更に続けられた。


「共和商事の社策も彼らの社会主義思想を助長しているところがあるんですな。彼らの賃金は非常に安く抑えられている。その代わりに、医療や老後の福祉を受けられる"株式積み立て保険"なるものが導入されています。これは経済的に言うなら"富の再分配"って奴でして。彼らは自分たちが恵まれていると考えており、もっと再分配の範囲が広がって欲しいと思っているようですよ。いずれは彼らの支持を受けた、愛国社会主義的な政治家が生まれてしまうやもしれませんな」

「……まるで他人事のような口ぶりじゃないですか。この国の未来を左右しかねない大事ですよ、これは」

 嗜めるようにそう言うと、男はきょとんとした表情を浮かべて、すぐさま吹き出した。


「あ、いや申し訳ない。職業柄、客観性をもった口ぶりが板についてしまいまして。私、こういう者です」

 といって折り目正しく手渡された名刺には、『フリージャーナリスト 高橋経済研究所所長 高橋亀吉』と記されていた。

「ジャーナリストの方でしたか」

「ええ、今の日本海側諸地域はとても面白いことになっていますからね。上手くいけば、困民の悲劇を無くすことができ、上手くいきすぎれば、"国が割れ"ますから」

 千早は耳を疑った。


「何故、国が割れるのですか?」

 高橋は待ってましたとばかりに、万年筆で自らの額を叩く。


「それには近代経済の大前提を知らなければなりません。近代経済とは自由競争――、つまり"より安い商品"が他の商品を駆逐する社会なんですよ。そして、商品を安くするためにはいくつかの方法が挙げられます」

 高橋はメモ帳を取り出し、万年筆でなにやら図解を示し始めた。


「商品の値段は、人件費、製造費、輸送費などによって決まってまいります。そこで問題になるのが海外経営なんです。現在の日本は台湾や朝鮮といった旧植民地に加え、南洋や満州などの保護監督地域を保有しているんですが、これらの地域で何を作っているのかというと……、大部分は農産物なんですよ。海外産の農産物と内地で作った農産物、日本で消費するならどっちの方が値が張ると思います?」

「それは……、当然海外産の農産物でしょうね」

 何せ、日本へ輸入するとなれば船で輸送してこなければならないのだ。

 当然燃料費用もばかにならない。

 高橋は大きく頷き、目を輝かせた。


「その通り! 今の日本という国は、原料は海外から輸入をし、工作機械は西欧から購入し、製造した軽工業製品を後進地域へ高く売りつける産業構造ができあがっているのです。そして、後進地域からは農産物を買うことでなけなしの釣り合いをとっている、と」

 ここで高橋は目を細める。

 声の調子を落とす様は、まるで密談でも始めるかのように思えた。


「……ですが、ここで日本海側諸地域という新たな生産地が出現します。この地域は内地に当たりますので、当然輸送費は安く済む。して、生産量はどうか? これは今年の秋まで分からない。……もし、国内に多く供給できるほどの生産量があったとしたら? はっきり言って、海外展開をしたいくつかの企業、財閥が首をくくる事態になりましょうな。今年の国会では財界の要請で、国内に関税をかけることすら大真面目に検討しているそうですよ。これから、帝国の支配地域と日本海側諸地域の過酷な生存競争が始まるはずです」

「それは……」

 言葉を失った。

 貧民を救うための列島改造が、海外にまで大きな影響を及ばすとは考えたこともなかったのだ。

 だからこそ、「それは、一大事ですね……」と月並みな感想しか述べることができなかったが、高橋は気に留めることなく講釈を続けた。


「ええ、そうですとも。だからこそ、この土地は取材のし甲斐がある。国内生産量や内需が育てば、いずれ植民地の経営は割に合わなくなってしまうでしょう。となれば、海外の支配地域を緩衝国として手放すことになるかもしれない。そうなった未来の日本が辿る道は――」

「小日本主義、でしたっけ」

 "テクスト"に載っていた言葉であった。

 確か、太平洋戦争後に首相に就いた石橋湛山いしばしたんざんが唱えていた主張であったはずだ。 

 千早の呟きに高橋は目を見張り、得意げな語り口までピタリと止めてしまった。


「どうしましたか?」

「……いや、意外だと思いまして。こりゃあ、石橋さんも喜びそうだ」

 高橋は照れ臭そうに額を叩いた後、千早に握手を求めてきた。


「護民総隊の方ですよね。貴方がたにも興味があったんです。いずれ、取材に伺わせていただいてもよろしいでしょうか」

 からからと笑っていた先ほどまでの表情とは違う、何処か真剣さを漂わせた所作であった。

「あっ。それは勿論。いえ、本部に問い合わせる必要はあるでしょうが。とにかく、宜しく」

 と、慌てて千早も手を差し伸べようとしたところで、閲覧所の外、屋敷の方からポンポンポンと軽いエンジン音らしきものが聞こえてきた。


「チハヤ、準備オッケーよ!」

 がらりと閲覧所の戸を開けたアニーに遮られ、両者の挨拶は単に会釈をするのみに留まった。






 満を持してアニーに披露されたのは、いわゆる足踏みの縄ない機であった。

 ただし、動力部として小型の黒いエンジンが付けられており、人力を要さなくてもくるくると器械部分が回るように改造されている。

「これは?」

「焼き玉エンジンって言うのよ。ここの家主のミスター・アサリが貸してくれたわ!」

 顔を煤だらけにしつつも満面の笑みで言うアニーの一歩後ろに、鼻を垂らした幼子を連れた初老の男性が控えていた。


「浅利と申します。共和商事さんにはお世話になりまして……」

「あ、いえ」

 深く頭を垂れる浅利に面食らってしまい、いささか礼を失した挨拶を返してしまう。

 千早は言い訳も兼ねて、浅利に言った。


「共和商事と地主層は仲が悪いと思っていたんですが……」

 その言葉に浅利が苦笑いして答える。


「ああ、はい。はい。中にはそうした土地持ちもいるでしょうが……、郷土の現状を知っている者からすれば、ありえないことですよ。集落の悲しみは自分の悲しみですから」

「成程……」

 言われてみれば、そうかもしれない。

 人間、皆赤い血が通っているのだ。

 近所の悲哀をそよ風の如く受け流せるかと言えば、そんなことは中々できるものではない。少なくとも、千早にはできそうになかった。

 浅利はにこりと笑うと、ポンポンと高鳴るエンジン動力付き縄ない機へと目をやり、語った。


「共和商事さんのことは本当にありがたいと思っています。集落の食い扶持を確保してくださったばかりか、こうしてアニーさんを通じて新しい農具まで作って下さるんですから」

「……燃料は大丈夫なんですか? 整備の手間も馬鹿にならんと思うのですが」

「それは大丈夫よ! だからこその焼き玉エンジンなんだからっ」

 "やっとこ"を片手にアニーが赤毛を揺らしながら自慢げに言う。


「焼き玉エンジンはとても原始的プリミティブなの。燃料なんて質の良くない軽油でも動くし、整備だって覚えることは多くないわ。本当はもっと簡素なエンジンだって良いんだけどね。これ、小型漁船の使い回しだから」

 それより見てて、とアニーが縄ない機の前に置かれた椅子にすわり、ペダルを踏んだ。

 がらがらがらと器械部の車輪が回り始め、予め取り付けられていた稲藁が編み込まれていく。

 瞬く間に縄ができていく様子を見つめて満足げに頷くと、


「どう? 凄いでしょ」

 こちらを見上げながらアニーは笑った。

 以前にも感じたことであったが、やはりイタリアの女性に機嫌の悪い時など存在しないようだ。

 いつ何時も前向きに生きる。

 ともすれば湿気った感情に傾いてしまう、今の千早とは対照的であった。


「ああ、凄いな」

 そう千早が呟くと、アニーは「イエーィ!」と喝采を上げた。

 あまりの喜びようにこちらまで照れ臭くなってしまう。

 千早は咳払いをして、話題を変えた。


「それにしても、航空機エンジニアは農具のエンジンまで整備できるんだな」

 専門家とは「深く、狭く」が信条であると思っていただけに、千早の驚きは大きかった。


「んっ? それは当り前よ。エンジンの構造自体は、大抵のものが同じなんだもの。それに私、こういった造りの簡単なエンジン好きだしね」

「そいつは何でだ?」

「だって、皆が使えるじゃない」

 珍しく真顔になったかと思うと、アニーは小気味よく動き続けるエンジンを見つめながら、更に続ける。


「今の航空機エンジンって……、星型なんかがそうなんだけど、整備がとても大変なの。すぐに壊れるのもあまり好きじゃないわ。そんなんじゃ、皆がエンジンを嫌いになっちゃうじゃない。エンジンって言うのは、皆の仕事を代わりにやってくれる物なのに、仕事が増えてどうするんだー! って思う」

 恐らくは彼女の心からの本音なのだろう。

 昨今のエンジンは千早が見てもげんなりとするほど、複雑に、精密に作られている。

 既に素人の生兵法で太刀打ちできるものではない。だからこそ、彼女たちのようなエンジニアが必要になるのだ。


「そこで、君たちが必要になるんじゃないのか?」

「まあ、そうなんだけどね」

 アニーが苦笑して、言う。


「それでも私は、困った時は叩いて治るような丈夫で信頼性のあるエンジンを作ってみたいな。良いものを作って、それを皆が長く使ってくれるの。素敵だと思うんだけど」

 千早は彼女の考え方をまるで宗教家、求道者のようだと感じた。

 機械化が人類の発展に寄与するのだと、素朴に信じ布教しようとする姿はまさしく宣教師の振る舞いそのものだろう。


「何ていうか、君は聖人セイントみたいなんだな」

 だからこそ、こんな言葉が自然と出てきたわけなのだが、アニーは千早の言葉を聞いた瞬間、


「はっ、えっ?」

 とあからさまに顔を赤くし始めた。

「んん……?」

 どういうことだろう。何か互いの認識に重大な齟齬が発生したよう見受けられる。

 しばし、意思疎通に難儀した千早とアニーであったが、ようやく食い違った部分に気がついた。


「……あのね、私の国で聖人って言ったらマリア様なの。女の人にマリア様みたいだなんて言ったら……、それって愛の告白と一緒だから」

「平に謝る」

 信じがたいほどに気障な台詞を吐いてしまったようであった。


「ああ、もう。口説くつもりのない口説き文句って、こうなるのね。顔、赤くなってない?」

「本当に申し訳ない」

 ただただ切に謝り続ける。

 英語を解さずとも雰囲気で何が起こったのか察した浅利が、「席をはずしましょうか」と茶々を入れてくるのが至極憎たらしく感じられた。








「……そうですね」

 高橋に促され、ここ半年を振り返ってみる。

 まさに目の回るような日々であった。


 総隊内の不和に、全く未知数の航空機製造、外国人技術者の取り扱い――。正直、不安しか感じられない。

「前途は多難です。でも何とかしなければならない。懸命に頑張るしかない、とは思います」

 とは言え、弱音を口にしてもしょうのない話であった。


「頑張る、ですか」

 拍子抜けしたような高橋の表情を見るに、どうやら至極つまらないコメントをしてしまったようだ。

 何か気のきいた一言でも付け足そうか。そんなことを考えているところに、


「では昨今の国際情勢について、コメントをお聞かせ願えませんか」

「国際情勢、ですか?」

「はい、通商護衛に関わってくるでしょうから」

 予想外の方向へ話題を突き付けられる。


 国際情勢において、今日本が深入りしていることといえば満州を巡る問題であった。

 昨年の9月に千早の関わった満州・上海事変に関する調査報告書が国際連盟へ提出されたのだ。

 その中で「満州事変は大日本帝国・中華民国の間に起きた不幸な紛争であり、両国の親善回復が不可欠」と結論が出されており、"テクスト"に記された記述と同様に関東軍の画策した満州国の樹立が明確に否定されてしまう。

 これに対して、時の犬養毅内閣は「国連の決議を粛々と受け入れる」として認め、独断で行動した関東軍の策略を白紙に戻した。

 帝都をはじめとする大都市周辺では連日、「帝国の利権を守るべし」として政府を批判するデモやテロが発生しているという。


 そうした一連の動きの中で、何よりも意外に思ったことは陸軍内の動きであった。

「荒木貞夫陸軍大臣が、政府の決定を認めたことが意外でした」

 満州事変とは、海外展開をした財閥の独占的利益を守るために陸軍が画策した軍事行動の一環なのだ。

 日本びいきの傀儡政権が作れなければ、財閥の要請に応えられたとは言えず、陸軍の失態になってしまう。

 当然ながら、荒木も大臣職を辞するなどして満州国を守るべく内閣を攻撃するものだと思っていたのだが、ふたを開けてみれば政府の決定に粛々と従うのみ。

 陸軍内では盛大な内輪揉めが起きていると言うから、まさに驚くべき事態であった。


「ああ、それは確かに。何ででしょうな。それどころでない、重大な事件が起きたとか?」

「それは……、ありえるかもしれません」

 千早の脳裏にまず思い浮かんだのが、専ら総隊内で懸案事項に挙がっている日ソの経済摩擦であった。

 要から日ソ間の漁業水域で摩擦が生じていると聞き、総隊に情報を持ち込み調べてみたところ、両国の関係はかなりの度合いで悪化していることが判明した。

 どうやらソ連は日本の漁船を警戒してか、ウラジオストクにて小型の軍用艦を製造し始めているようなのだ。

 海がきな臭くなれば、陸だってきな臭くなる。

 もしかしたら、陸軍はそうした日ソ関係の悪化を鋭敏に感じ取り、いたずらに国内政治を混乱させないよう自粛しているのかもしれない。


 忍び寄る、戦の足音を聞いたような心地がした。

「多分、総隊も無関係ではいられないと思います。やはり、頑張るしかないでしょう」

「頑張る、ですか」

「はい」

 成程と高橋は苦笑いを浮かべ、万年筆の尻で額を掻いた。


やっと、海戦に移れます……。

あと、ブックマーク100到達しました。今まで書いた作品では新記録だったりします。読者の皆さん本当にありがとうございました。

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