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1932年 9月 トレントにて(3)

 ジョンとヴィトルトが所用で宴席を抜けた後も、千早たちはしばし湖上の空戦を観ながら、ロッテとグラスを傾けていた。

 上等なワインであるようだったが、切った唇がしくしくと染みて味わうどころではない。

 エドワードは順調に勝利を重ねているようだ。

 彼の駆る試製カーチスは空を縦横無尽に飛び回り、各国の名機を難なく下し続けている。


「そうだ。私、日本の航空機について知りたいわ」

 ふと、ロッテが思いついたように疑問を口にした。

「日本の、ですか?」

 空へ向けていたまなざしを千早の隣にまで下ろす。

 彼女の猫のような瞳は、好奇心に輝いていた。


「貴方、先程ポーランドの航空機に乗っていたのでしょう? ならば、比較もできるはずです。アジアの近代技術は一体何処まで欧州に近づいているのかしら」

「それは面白そうな話題ですね」

 見れば、ユーリも興味深そうに耳を傾けている。

 彼は英語も堪能なようで、賭け空戦について技術的なコメントを逐一挟んではロッテを楽しませていた。


「生田さん、話しても構わないですか?」

 組織上の立場は既に生田と同格であったが、やはり今までの上下関係が影響してか、何をするにも判断を仰いでしまう。

 水を向けられた生田は、肩をすくめて軽く返した。


「良いんじゃないか? 俺たちは技術屋じゃないし、外国人さんに話してまずいレベルの情報なんて持ってないだろ。それに、ユーリさんはこれから身内みたいなもんになるんだ」

 確かに、と思い直す。

 彼には今後日本の航空機技術の発展に役立ってもらわなければならない。

 折角、各国の航空機が勢ぞろいしているような催しを観る機会に恵まれたのだから、ここで意見を交わしておくのも悪くないだろう。


「ええっと、自分が乗っていたのは練習機を除けば、三式艦上戦闘機という複葉機のみです。英語では……。シー・ファイター・マーク3とでも訳せばいいのかな? いわゆる、航空母艦からの発着艦を可能にした機体ですね」

 頭の中でかつての愛機を思い浮かべ、P.11と重ねてみる。


「形は今飛んでいる英国のグロスターに似ています。P.11との違いは何よりも……、大きさですね。P.11よりも全長が1メートルは小さい。翼幅も大分違う。多分、重さもずっと軽いんでしょう。エンジン馬力もひ弱です」

「それは日本の航空機技術がまだまだということかしら」

「ロッテ嬢。それは違いますよ」

 ユーリがうきうきとしながら口を挟んできた。


「艦上運用する航空機にはいくつかの厳しい制限が課せられるです。まず、離陸距離は短くなければなりません。無限に続く陸とは違って、艦の甲板は狭く短いですから。速度を犠牲に、より低速で早く発艦できる機体が望ましいです」

「技術発展の方向性が違う、という解釈でよろしくて?」

「タク。その通りです」

 満足げにユーリが頷く。

 千早は「へえ」と声を漏らす。

 彼のP.11に対する思い入れから、愛国心のそれなりに強い青年だろうと思っていたのだが、どうやらかなり公平にモノを見る目があるらしい。


「でも、困りました……。もしかして、ヤポンスキの皆さんが求めている航空機は、艦上運用を念頭に置いていますか?」

「そりゃあ、そうだ……。って、あー」

 生田が「しまった」とばかりに頭を掻く。

 ユーリの紹介してくれたP.11は時代の最先端を行く航空機であったが、艦上運用を念頭に設計されていない。

 あの低速域での不安定性を考えれば、狭い甲板からの発着艦は極めて難しいと言わざるを得ないだろう。


「護民総隊本部は、どんな航空機を見繕ってくれと言ったんだ?」

「とにかく、最新の技術が使われているものを、と……。後はヤポンより派遣された航空士が吟味すると言っていました」

「随分ふわっとした発注だな……。上は俺たちに丸投げかよ」

 海軍ふるすでは考えられない不手際に、生田が呆れてしまう。

 海軍において、航空機の開発や取捨選択に携わる分野は全て艦政本部と名付けられた開発部門に委ねられている。

 艦政本部は各部門にその道のエキスパートが揃っており、発注する兵器についても基本設計の隅々まで吟味することが求められていた。


「宮本、こいつはどうなってんだ」

 生田は先月に護民総隊に着任したばかりで、隊の実務や航空機の選定といった陸上任務に関わっていない。

 隊の現状をまだ、その身で実感しきれていないのだ。

 千早を日本語で問い詰める生田の口調は、自然と厳しいものになっていた。

 対する、千早はばつが悪そうに弁明を始める。


「士官不足が原因ですよ。何せ新設の部隊ですから。生田さんが来るまでは、自分が航空部門の総責任者兼隊長でした」

「へ、宮本が?」

「だって、谷口大将も永野提督も、航空こっち方面には疎いじゃないですか」

「そりゃあ、そうだが……」

 仕方のないことではあった。

 新設の護民総隊には士官不足や諸々の事情から、海軍のような開発部門が置かれていないのだ。

 そのため、現在は艦政の全てをたった3人の所属隊員のみで回しているという、実にお寒い現状になっている。

 人材の確保に、兵器の選択、予算の策定……。尋常な仕事量ではない。

 そんな中で、こと最新技術の塊たる航空機運用については、谷口も永野も一切ノウハウを持っていないため、千早にお鉢が回ってきたというわけだ。

 ――餅は餅屋に任せた方が良い。

 つまるところ、そういうことである。


「今後の目的に沿った航空機を探るためにも、現地にて実物を見た方が吟味もしやすい。なるべく、欧州の最新技術が使われている機体を見てみたい――。総隊本部と共和商事にはそのように起案書を送ったんですが、伝達に不備があったみたいです。本当に申し訳ない」

「まあ、事情が事情なら仕方ないな……」

 鉄火場の現状を察したらしく、生田がうんざりとした風に肩を落とす。

 生田からの追及は止んだが、ユーリの表情は相変わらず浮かなかった。

 総隊の事情がどうあれ、手塩にかけたP.11が艦上運用に適していないことに変わりはないからだろう。

 千早は咳払いをして、続けた。


「でも、P.11を用意してもらったこと自体は、間違いじゃないですよ」

「そりゃあ、何でだ」

「全金属の単葉機ですから。理由は先だってユーリさんが言った通り、これからの時代を考えてのことです。先端技術の成熟には時間が必要ですから、その導入は早ければ早いほど良い。滑走路の短さはこの際、下駄フロートでも履かせて水上機にでもしてしまえば解決できます。設計上の不備は……、現場の慣熟でどうにでもできるでしょう」

 淡々と理由を述べていくと、何故か周りはぽかんと口を開けていた。

 何か間違ったことを言ったのかと、怪訝な顔で見回す。

 すると、三者三様の反応が返ってきた。


「設計上の不備はいかんだろう。お前、何時からそんな軍政屋みたいな考え方するようになったんだ?」

 とは生田の言だ。

「あ……、えっと」

 彼の問いかけによって、千早は自分の考え方が以前と比べて大分変質してしまっていることに気がついた。

 変質のきっかけは、例の"テクスト"と古賀の一件であろう。

 どうやら、常に救民・護民を考えている内に意識が現場から離れてしまったらしい。

 本来現場の人間とは、先だって生田がP.11を一見して敬遠したように保守的なものなのだ。

 対するユーリはというと、


「ジェンクイェン! すごく先進的な考え方で感動しました! 僕もチハヤさんが満足のいくような航空機を選定、開発して見せます!」

 目に見えて機嫌が回復したようであった。

 まるで犬のようなはしゃぎようだ。ややもすれば、揺れる尻尾まで幻視しかねない。

 残るロッテはというと特に口を開くようなことはなかったが、何やら目を細めてこちらをじっと見つめていた。

 千早は察する。あれは――、面白そうな玩具を見つけた時の目であると。

 嫌な予感が頭をよぎるのとほぼ同時に、にんまりとした表情でロッテがピンと筋の通った細い指先を合わせる。


「技術の成熟には時間が必要……。金言ですわね。私、その機会をプレゼントして差し上げることが可能でしてよ」

 得意顔で持ちかけてきた提案は、要するに賭け試合に出てみないか、ということであった。




「P.11の再点検終了っ。何時でも飛べるわよ」

「ああ、ありがとうな」

 アニーによる整備完了の連絡に、大きく伸びをしていた千早は労いの言葉をかけた。

 傍から彼女の作業を見学していたが、その手際は"鳳翔"所属の整備士と比べても遜色のないレベルに至っている。

 女性ながらの細やかさとでもいうべきか、それがイタリア人の職人気質と良い具合にかみ合っているようだ。

 安心して命を任せるに足る腕前であった。


「良いわよ。仕事だもの」

 一体、地中海生まれの彼女に機嫌の悪い時などあるのだろうか。

 晴天の笑顔に何処か居心地の悪さを感じつつ、千早は観客に向けて演説を行うロッテに目を向けた。


「これから行うエキシビジョン・マッチには各国のエース・パイロットも参加してもらいます。大英帝国、合衆国、ワイマールにイタリア、フランス、そして……、アジアからは大日本帝国。まさに洋の東西を超えた夢の空戦となることでしょう!」

 試合は10機による乱戦の生き残り形式で行われるらしい。

 判定は、敵機に機体の背後を取られて15秒の継続で撃墜とされ、地上に控えるベテラン航空士複数人の多数決によって下される。

 武道における審判のようなものだと、千早は理解した。


「妙ちくりんな顔してるのね。乗り気じゃないの?」

 前のめりに覗きこむようにして、アニーが問いかけてくる。

 それに対し、千早は眉根を寄せて答えた。

「空戦自体に否やはない。空を飛ぶのも好いている。ただ、誰かの手のひらの上で転がされるのが、あまり好きじゃないんだ」

 生田に「是非飛んでこい」と言われなければ、恐らく謝辞していたはずである。

 そそのかした当人が見物に回るというのも解せなかった。今は、目下のところジョンと談笑中である。

 あの戦闘狂が、どういう腹積もりだろう。

 納得のいかぬ風に呟いた千早の言葉にアニーは頷く。


「確かに。言われたとおりに動くだけなんて、あまり気持ちのいいものじゃないわね……。でも、実入りもあるんでしょう?」

「まあな」

 言って、千早は滑走路に並べられた各国の名機へ目をやる。

 ここで海外の航空機と空戦をしておくというのは、日本の航空機技術の発展に大いに寄与するはずだ。

 良いものは採り入れ、改善すべき部分を洗い出そう。

 そんなことを考えていると、人足によって水路の際へ運び出された濃紺の機体が目に付いた。

 試製カーチス――。

 まさか自分にとって2度目に当たる空戦を、エドワード――。ロバート・ショートの弟とやる羽目になるとは思うだにしなかった。


 エドワード当人にとって、このエキシビジョン・マッチは願ってもないことであったのだろう。

 先刻、千早の参加が通知された瞬間、彼の眼の色が変わったのが良く見て取れた。

 ともすれば、実弾でやろうとでも言いかねない目つきを思い出し、千早は苦笑いを浮かべる。


「……まあ、俺の播いた種だな」

 未練に身を任せなければ、今頃こんなことにはなっていなかったはずだ。

 自業自得の面は否めない。


「何の話?」

「こちらの話」

 飛行帽を結び、P.11へと向き直る。

 いざ、乗りこまんとしたところで、赤茶けた肌の西洋人に声をかけられた。


「よう、日本人」

 二の腕の逞しい、野卑やひた印象の男であった。

 酒焼けをしたしゃがれ声に、地中海訛りの目立つ特徴的な英語が耳にさわる。

 その後ろでは、幾人かの航空士が事の成り行きを興味深げに観察していた。


「あら、"大口叩き"のアッソじゃない」

「知り合いか?」

 千早の問いにアニーが頭を振る。

「元イタリア軍所属、精鋭航空部隊スクアドロネ・ディ・アッソの自称一番手。口ばかり達者だから、皆からは"大口叩き"のアッソって呼ばれているの。本名は知らないわ」

 アニーの辛辣な紹介に、アッソと呼ばれた男は若干苛立たしげな表情を浮かべる。

 だが、すぐににやけた笑い顔へと戻した。


「アンタ、さっきガルの単葉機で飛んでいた航空士だろう。金持ちの玩具に乗った感想はどうだったんだ?」

 何を言っているんだ、こいつは……?

 千早は彼の言っていることが良く分からず、胡乱なまなざしを向ける。


「あちらで見物している日本人は新聞で見たぜ。アジアでアメリカ野郎とやった奴だろう? てっきりあいつが出てくるかと思っていたんだが、流石に御国のヒーローの経歴に傷が付いちゃまずいってか」

 アッソは嫌味たらしい物言いで一方的にまくし立ててくる。

 こちらの反論を許さぬ勢いだ。


「大方、足りない腕を良い飛行機でカヴァーしようってんだろうが……、最後に物を言うのはテクニックだぜ」

 図太い二の腕を誇らしげに叩いてみせる。

 余程、自分の腕に自信があるようだ。


 千早は疲れたようにため息をついた。

 この手の輩と揉めたところで何の益ももたらさない。

 それに彼の言っていることもあながち間違いではなかった。

 空の世界においては、強いものこそが正義なのだ。

 そう思ったため、千早は「そうだな」と一言だけ返して、P.11へと向かおうとした。


「分かってんなら、金で空を飛ぶような真似は止めな。空が汚れちまう」

 だが、アッソは更に食い下がってくる。

 ここに来て、彼の目的がおぼろげながら分かってきた。

 要するにこれはけん制なのだ。

 全力こそ出していなかったが、P.11とマッキは先ほどその実力の一端を周囲に見せつけてしまった。

 その機体性能は、この場にある各機と比べても頭一つ抜けており、このままでは彼らの勝ち目が薄い。

 最新機と真っ向からやりあいたくないための挑発なのだ、これは。


「そうは言ってもここにはP.11(こいつ)以外に俺の乗る機体はない」

「適当にそこらの飛行機と交換すりゃ良い。それとも、新型じゃなきゃ自信が持てないのか? ええ?」

 黄色い歯をむき出しにして、アッソがこれ見よがしに笑う。

 それに釣られて、周囲から笑い声が漏れ出た。

 察するに、彼らは仲間ぐるみで挑発を仕掛けてきているらしい。


「まあ、そうだよな。"下手くそ"のアメリカ野郎を寄ってたかってリンチにした程度の腕じゃあ、高が知れているってもんだ」

 一瞬、目の前の男が何を言ったのか、理解できなかった。


「おいッ! 兄さんは下手くそなんかじゃねえ。訂正しろ!」

 周りの航空士を押し退けて、顔を真っ赤にして割り込んできたのは、エドワードであった。

 ここに至って、千早も理解する。

 ロバート・ショートを、蘇州での戦いを貶められたのだ。

 自分の家族をこけにされたのだから、エドワードの怒りは良く分かる。


 ――だが、この場を譲るつもりはなかった。

「……良いよ。機体を交換すれば良いのか?」

「は?」

 一瞬何を言われたのか分からないと言った具合に、アッソが呆けた表情を浮かべた。

 千早は長く息を吐いた後、声をささくれ立たせて更に続ける。


「聞こえなかったのか? 機体を交換してやる。どれと交換すりゃ良いんだ」

 周囲の輩が顔を見合わせる。

 まさか、本当に受け入れるとは思っていなかったようだ。

 千早は内心、はらわたが煮えくりかえっていた。


「私のF4Bが余っているね。是非使っておくれよ、ジャパニーズの航空士」

 しんと静まり返った中、軽い調子の声があがる。

 いつの間にやら人の輪に混ざっていたジョンであった。

 F4Bボーイングと言えば、蘇州でロバートが乗っていた機体だ。

 何度となく戦った相手で、機体特性も痛いほど良く分かっている。

 慣熟飛行の必要すらないだろう。

 千早は「助かる」と一言だけ残して、F4Bのもとへときびすを返す……、がまたしても男のしゃがれ声に引き留められた。


 ――いい加減に鬱陶しい!


 千早は苛立つ心を抑えられそうになかった。


「待てよ、そんなこと言って慣れない機体に乗ったことを言い訳にするんじゃねえだろうな――」

「うるさい」

 何時までも止まない男の文句を、千早は一瞥して遮った。

 さぁっと、周囲の輪が一歩分広がっていく。

 すう、と千早は大きく息を吸い込むと、アッソと仲間を睨みつけた。


「……ロバート・ショートの腕前は確かだった。1対6の劣勢下で俺たちと互角に戦ったんだ。俺が同じことをお前等にやってやる。全員で、かかってこい」

 千早の啖呵を耳にした周囲の輩は、一瞬息を呑んだ後、火が付いたように怒り狂った。


「舐めやがって、ジャップが!」

「すぐに叩き落としてやる!」

「負けたら分かってんだろうなッ? 今から、地面に這い蹲る練習しときやがれ!」

 烈火の怒りを微風の如く受け流しつつ、千早は無言でその場を後にする。

 F4Bのもとへと向かう最中、エドワードとすれ違った。


「……兄さんの不名誉を雪ぐのは俺だ」

 きっ、とこちらを睨みつつ、エドワードは試製カーチスの浮かぶ水路へと足を向ける。


「だから、俺も奴らを叩き落とす。邪魔者がいなくなったところで……、決闘しよう」

「了解した」

 相手を見ずに千早は答える。

 ここに至っては言葉を交わす段階にはない。全ては空で語るべし、であった。


 オレンジ色のたまご型複葉機――、F4Bボーイングの操縦席に乗り込み、シートベルトを装着する。

 操縦系統は既存の複葉機とそう変わらないものであった。

 計器の表示が英語であることに面食らってしまうが、それ以外は三式艦戦の操作感が流用できる。特に問題は起こらないだろう。


「ほんと、私の整備を台無しにしてくれちゃって」

 操縦席の外側から、機体の最終点検に臨席していたアニーが膨れ面を覗かせてきた。

 確かに後々考えてみれば、感情に任せた浅慮であったと言わざるを得ない。


「悪かった」

 素直に頭を下げると、あははと明るい笑い声が返ってくる。

「あそこまで大口叩いたんなら、ちゃんと勝ってきなさいよ。じゃないと、"大口叩き"の二代目を襲名しちゃうじゃない」

「それは勘弁願いたいなあ」

 苦笑いを浮かべると、ごわごわとした作業手袋ごしに人差し指で鼻を小突かれた。

 機械油の臭いが鼻をつく。


「頑張ってね」

「相手にイタリア人もいるんだぞ」

「エミリアの人間はいないからノー・プロブレムよ。南部の海賊もどきなんて知らないわ」

 そんなものかと、故郷に当てはめて考えなおす。

 確かに地方が違えば、他国民と変わらない。

 大事なのは、つながりなのだ。

 千早はゴーグルを下ろし、エンジン起動スイッチに指をかけた。


「"大口叩き"にはならないさ。んじゃ、行ってくる」

「戦果、期待しているわ!」

 アニーが横づけにした台車から飛び降り、人足によってエナーシャが回される。

 ――コンタクト。

 再び、千早は空へと上がった。






 エキシビジョン・マッチの開始は打ち上げ花火によってもたらされる。

 同高度に待機していた6国10機の航空機は、色鮮やかな花火を合図に四方八方へと散らばっていった。


 千早は高度を取りながら、周囲のライバルを窺っていく。

「……こいつはちょっとした万国博覧会だな」

 下方にはイギリスのソッピース・キャメルと、フランスのニューポール・ベベがいた。

 これらは共にロータリー・エンジンが採用されており、独特の甲高いエンジン音がここまで聞こえてきている。

 

 千早の後方にてドイツのフォッカーと並走しているのはフランスのスパッドⅦか。

 これはどちらも一次大戦が全盛期の、既に2世代は型落ちしている機体であった。

 恐らくは軍の払い下げ品だ。特にドイツは欧州大戦の敗戦を受けて、軍用航空機の保有を禁じられている。

 至る所に銃弾の修繕箇所見受けられるのは、修理費用をケチったためであろう。

 どうやら、今の欧州には戦時中に大量生産された複葉機が溢れて流通しているらしい。


 続くイタリアからはカプローニ社のCa.113、フィアット社のCRを始めとする多様な航空機が参戦していた。

 中には飛行艇のサヴォイアといった、この空戦の趣旨を全く理解していないのではないかと危ぶまれるような大型機まで上がっており、ガルダ湖の空を大小多数で彩っている。


 そして、最後にひと際重たいエンジン音を響かせているのは、エドワードの駆る試製カーチスだ。

 濃紺の流線形がオレンジ色の卵型とすれ違い、離れていく。


『首を洗って待っていろ』

 手旗信号の内容に思わず声を出して笑ってしまった。

 潮気がきいている。向けられた感情は好意的なものではなかったが、少なくとも捻くれたものではない。

 地べたで小細工を弄する連中と比べれば、ずっとマシな態度である。


『楽しみにしている』

 彼との一騎打ちは宣言通りに最後となるだろう。

 低空で"くるくる"とやっているような輩が、彼を落とせるとは思えなかった。


 8割ほどの出力でF4Bを高度1500メートルまで持っていく。

 風は先刻と変わらず順風そのものだが、少し肌寒く感じられる。

 もう日没が近いのだ。傾いた西日に目を細める。


 ぐるりと周囲を見下ろして、千早は高度の高い順に敵機を見定め、降下突撃を繰り返すことにした。

 すぐ傍にまで上がってきていたのは先ほどのアッソである。乗機はCR。

 その背中にイタリアの同型機が2機続いていることから察するに、徒党を組んでこちらを仕留める腹積もりらしかった。

 上昇力はF4Bボーイングに軍配が上がる分、数で対抗しようと言うのだろう。

 至極常識的な判断である。


 千早は薄く笑った。


「お誂え向きだ」

 機首を返して、彼らと正面から相対する。

 ヘッド・オンの体勢であった。

 見る見るうちに両者の距離が近づいていく。

 本来ならば、ここで機銃の挨拶を交わしたいところであったが、残念なことにこの場は正式な戦場ではない。

 千早は機首を左右に振って、敵の機首を散らばらせる。

 機首と機首を向け合うヘッド・オンは高度差が如実に表れる体勢だ。

 上方の機体は高度を速度に変換することができるが、下方の機体は速度を高度に変換しなければならない。

 そこに不用意な方向舵ラダーの操作が加われば、どうなるか――。

 答えは明白、失速するのみである。


 失速によって自由な舵を失った機体をぐるりと巻き込むようにして、千早は後ろを取った。

「カッツォ!」

 イタリア人の罵声が聞こえるが、千早はイタリア語を解さない。

 黙々と後ろを取り続け、空戦開始より最初となる撃墜判定を勝ち取った。

 色つきの花火が一つ上がる。


「次っ!」

 失った速度を取り戻すために機首を反転させ、急降下を開始する。

 追随するイタリアの2機。

 千早の後ろを取らせないために取った大きな螺旋軌道に2機はついていけず、見る間に距離が開いていく。

 高度が500を切ったところで機首を上げて、上昇を開始。

 緩やかな旋回を続けながらの上昇によって、翼端が雲を引き始めた。

 これ以上は失速するという予兆である。

 再び、機首を切り返して残党へ突撃を行う。

 前後不覚に陥っていた2機の後ろを取ることは容易く、千早は続いて2機目、3機目の撃墜判定をもぎ取った。

 他愛もない相手である。


「――ハハッ」

 ロバート・ショートの見ていた景色が、自分にも見える気がする。

 彼も同様の一撃離脱戦法を繰り返し、帝国海軍を翻弄していた。

 まるで空を泳いでいるようで、ひどく心地の良い飛び方だ。

 ぐるぐると、ぐるぐると、ぐるぐると、複葉機の機動性に頼りきっていた自分の以前の飛び方が余程馬鹿らしいものに思えてくる。


 ふと我に返って見ると、すでに敵は2機だけとなっていた。

 千早と同高度にいたソッピース・キャメルが何故か降下によって距離を取ろうとする。

 致命的な隙であった。

 当然その隙をエドワードが見逃すはずもなく、彼の駆る試製カーチスが急降下によって仕留める。

 "背面姿勢を保ったまま"であった。 

 並の腕前でできる飛び方ではない。千早の心が躍った。


 彼は十把一絡げの航空士とは隔絶した、エース・パイロットの一人である。

 彼とこのまま争えば、あのロバート・ショートと見るはずだった、空の頂きだって見えるかもしれない。

 気がつけば、胸に残っていたしこりなど消え失せてしまっていた。


 フットペダルを乱暴に蹴飛ばし、操縦桿を思いきり倒す。

 スロットルは当然のごとくWEPにまで押し込み、背面姿勢へ。身体を押しつぶさんとする圧力を受けながら、残る1機となった試製カーチスへと突撃する。

 カーチスが上方へと逃げた。

 エンジンから立ち上る白煙を引き離し、一瞬の内にF4Bと距離が離れる。


 ――逃がすかよ。

 再び姿勢を正常に戻し、稼いだ速度で急上昇する。

 いたちごっこの始まりだ。

 千早が上昇すればエドワードは降下し、千早が降下すればエドワードが上昇する。中々後ろを取らせてもらえない。

 全く終わりの見えない交互つづら折り機動ヴァーチカル・ローリング・シザーズが続けられる中で、千早は心の底から喜びを感じていた。


 まだ、いける。

 もっと、いける。

 この機動はどうだ。

 まだ、ついてこい。

 こんなところで終わるんじゃない。

 何故、そこで……、失速する!


 がくんと速度が落ち、試製カーチスの機首が持ち上がった。

 宙を漂う、醜悪な下腹だ。

 まるで陸に揚がった魚のように無様な姿に嫌悪を抱く。

「……何だよ!」

 失望を覚えた千早は舌打ちを叩いて、カーチスの腹目がけて降下する。

 折角の楽しい一時が台無しであった。

 背後を取るようなことはせず、上下から突き上げを繰り返し、エドワードを煽る。


「あいつなら、そこで無様は晒さんだろうがッ!」

 エドワードの復帰は遅々として進まない。

 彼には千早と、ロバートが蘇州で見ていた空の向こう側が見えていないのだ。

 失望がさらに膨らんでいった。


 何故彼には見えないのか?

 苛立ちの中にふと沸いて出てきた思い付きが、千早の溜飲をひとまず下げる。


 ――彼はまだ、空で溺れる経験をしたことがないのだ。

 アニーが言っていた。一度墜落の窮地を経験した航空士の中には、途端に上手くなる奴がいると。


 ならば、蘇州で千早たちが経験した――、フラット・スピンを味わわせてやればいい。

 口元がひとりでに緩んでいく。

 千早は思いつきを実行すべく、F4Bの主翼を大地に向かって垂直に立てた。

 無様に浮かんだカーチスの主翼を、翼端でちょっと小突いてやればフラット・スピンが開始されるはずだ。


 あのロバートの弟ならば、必ず窮地を脱するはずに違いあるまい。

 そして、仕切り直して再戦しよう。

 焦げた金髪の、大柄の男が必死の形相でこちらを見上げている。

 千早はにこりと笑って、エドワードに返した。

「また、やろう」

 そして軟降下。


 ギロチンを思わせる主翼がカーチスへと迫り――。

 ――その寸前で、真紅の水上機が両者の間へ割り込んできた。


「いい加減にしろ、馬鹿野郎!」

 生田の怒鳴り声と共に、自分の身体からふっと力が抜けていくような心地がした。

 ……今、自分は一体何を仕出かそうとしていたのだ?

 自分の身体がまるで自分の物でなくなってしまったかのような、ぞわぞわとした恐怖が全身を這いあがってくる。

 千早は震える唇を噛みしめ、すがるように操縦桿を握り直した。


 慌ただしく色つきの花火が打ち上がる。

 この瞬間、各国の名機を揃えたエキシビジョン・マッチは、千早の駆るF4Bの圧勝で終わることと相成った。





 地面に戻るや否や、千早は生田の鉄拳によって出迎えられる。

「……誰を見て飛んでやがったんだ、手前」

 頬に感じる強い痛みを甘んじて受け入れる。千早は俯くことしかできなかった。

 二発目の鉄拳が千早の頬を強かに打つ。


 地面に突っ伏したところでようやく、頭が冷えてきた。

 先ほどまで自分と共に空を飛んでいた航空士たちの目の色が違うのだ。


「ディアボロ……」

 まるで化け物でも見るような眼をしている。

 向けられる感情はまさしく恐怖のそれであった。

 一方で、地面から見上げていただけの素人は、何故千早が殴られているのか分からずに目を丸くしている。

 そんな中で、ただ一人だけ"人間"を見る目でこちらを見ていた生田が、しゃがみこんで言う。


「なあ、前言ったろ。"鳳翔"の所さんにお前のことを頼まれたって」

 優しさを含んだ声に千早は無言で頷く。

「所さんはな。お前の立場が心配だっただけじゃなくて、お前の精神状態も心配していたんだよ。お前、蘇州から帰ってきてからこちら、何かおかしくなってたからな」

 千早は目を見張って、生田を見上げた。

 まさか自分の精神的な不調が、周りにまで悟られているとは思ってもみなかったからだ。


「人づての話だけどよ、お前みたいに戦場へ未練を残しちまった奴ってのは大抵死に急ぐらしいんだ。だが、所さんも俺もお前には死んで欲しくない。分かるか?」

 こんこんと教え諭すように、生田は語りかけてきた。

 千早は自省する。

 蘇州におけるロバートとの戦いは、自分にとって消えることのない忌まわしい未練を残していったらしい。

 千早は未練を断ち切るために空を飛んでいた。

 この世で生きる誰のためでもなく、ただ死人のために……、である。

 これでは"鳳翔"の航空士をはじめとする仲間たちに心配をかけて当たり前だ。


「どうせ空を飛ぶなら、今を見て飛べよ。その方がカラッとしてて心地よいだろ」

「生田さん」

 白い歯を見せて笑う生田は、まさに頼れる先輩そのものといった風であり、恐らく一生この人には敵わないだろうと思わせる何かを持っていた。


「……心配かけて、すいません」

 千早がぺこりと頭を下げると、生田は照れくさそうに鼻を掻いた。

「よせやい。俺は別にいいさ。それより、最低でもアメリカの二人には声をかけておけよ。ミスター・サッチなんて途中からすげえ怖い顔になっていたぞ」

「その必要はないよ、ミスター・イクタ。今のやりとりで何となく事情は察せられたからね」

 頷こうとしたその瞬間、横合いからジョン・サッチが言葉を挟んできた。

 その後ろには俯いたままのエドワードがいる。


 ……何とも具合の悪い顔合わせだ。

 千早はたまらず会釈して、すぐさま目を背けた。


「ミスター・サッチ。そりゃあないぜ。筋は通すのが軍人ってもんだ」

「筋を通す前に、エディからミスター・ミヤモトに話があるんだよ。是非聞いてもらえないかね」

 一体何の話なのかと再び目を向けると、エドワードは悔しげに下唇を噛んで、言葉を絞り出した。


「……悪かった」

「――へ?」

 まさかの謝罪に、生田と同様呆気にとられる。


「……アンタが俺を通して兄さんを見ているのは、途中から何となく分かったんだ。そして、俺がまだ兄さんの足元にも及ばないことも……」

 握り拳を震わせながら、エドワードは更に続ける。

「だから、謝る。無様な飛び方を見せて、悪かった。でも……」

 きっと、こちらを睨みつけてエドワードは言い放った。


「俺はもっと腕を磨く。何時かアンタに追いついてやる。だから、その時こそ正真正銘の勝負をしてくれ」

 それは空を駆ける航空士に相応しい、からっとした物言いであった。

 すっと、千早の心にこびりついた未練が薄れていくような心地がする。


「分かった」

 無意識に右手を差し出していた。

 それに驚いたエドワードは一旦ためらった後に、握り返す。


「良し、良し。1000年は続くかに思われた怨恨も、良い形でまとまりそうじゃないか! それで良いんだよ、エディ」

 満足げに笑顔で頷きながら千早とエドワードの肩を叩くジョン。

 困ったように眉を歪めるエドワード。

 二人の顔を見ながら、千早は考える。


 彼らとは、いずれ戦場で出会うことがあるかもしれない……、と。

 頭に思い浮かんだのは、テクストに載っていた"太平洋戦争"の文字列である。

 今後大きな歴史の変革が起きなければ、近い将来に日本とアメリカはアジア利権をめぐって必ず戦争状態へと移行するだろう。

 無論、千早たちも戦争回避の努力はするつもりだ。

 しかし、国内世論や軍政財界など千早たちの前に立ちふさがる壁はあまりにも大きい。


 彼らとこうして知り合ってしまった以上、できれば……、憎しみを抱えた状態で相対したくはなかった。

 だからこそ、千早は意を決して彼らに提案をする。


「帰国してからも、手紙のやり取りをしないか?」

 無理解こそが、憎しみの温床だと考えたからである。


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