1932年 9月 トレントにて
水都ヴェネツィアで"伊太利丸"を下船した千早たちは、共和商事の案内に従い、イタリア国有鉄道サンタルチーア駅で列車に乗って、一路イタリア北部トレントへと向かった。
外国人の身空には、車窓から覗き見ることのできる景色全てが皆物珍しいものばかりに見えてしまう。
ブナの森林に石造りの城塞。
山間に散らばる牧歌的な農村の数々。
遠目には、まるで岩山を削りだしたように見えるルネッサンス様式の教会堂。
そんな古き封建社会の景観をぼうっと眺めていると、千早の胸の内にじわりと痛みが広がっていった。
物理的な痛みではない。
「ん、どうした?」
「いえ、何でもないです」
痛みの原因は何なのか――。釈然としないものを抱えたまま、列車の硬いソファに身を委ねる。
揺れに揺られて半日ほどで、一行はようやく目的地に到着した。
「ほおー、壮観だなっ」
生田が手で庇を作りながら、感嘆の声をあげる。
目的地は、湖に面した小さな街であった。
周囲は岩肌の目立つ崖に囲まれており、湖がサファイアにも似た輝きを放っている。
白亜の壁や黄色い屋根。この街の色彩は広々としたサファイア色と相まって絶妙なコントラストを醸し出していた。
心に響く絶景である。
だというのに、千早にはどうしてもこの絶景を素直に楽しむことができなかった。
「えらい綺麗でっしゃろ。ガルダ湖って言いはるんです」
千早たちを先導しているのは、六岡と名乗る男であった。
恰幅の良い図体と妙に間延びした口調から受ける先入観とは正反対の理知的な目つきが印象に残る。
かなりやり手の商売人のようだ。
「軍人さんなら知ったはりますか? 時の大将軍ナポレオンがここらでどえらい戦起こしよったそうですよ」
扇子をパタパタとやりながら人懐っこく言葉をかける六岡に対して、生田は頬をポリポリと掻きながら、困ったような顔になる。
「あー、ナポレオンかい。アジア史ならまだしも、陸は専門外だからなあ」
「嘘ですやん。同じ軍人でっしゃろ?」
「陸と海は世界が違うのよ」
二人の会話を右から左へと聞き流しながら、千早は渋い顔でガルダ湖を見つめる。
胸に残る鈍痛が一体何によるものなのか。ここに至ってようやく合点が行った。
……何処となく中国、蘇州の景観に似ているのだ。
無論、かたやアジアでこなた欧州なのだから、細かいところは別物である。
だが、風光明媚な湖を臨む歴史的な街並みなどは、間違いなく蘇州のあの戦場を彷彿させるものであった。
どうやら、あの米国人義勇兵ロバート・ショートとの戦いの結末は、気づかぬ内に自分の心を蝕んでいたらしい。
空で高鳴るレシプロ音が、痛みを更に助長する。
「お、空戦やってら。実弾撃ってねえから、模擬空戦かな?」
ガルダ湖の上空で、くるくると2機の航空機がイタチごっこを続けている。
両機とも複葉機で、プロペラの基部のコブ型形状がよく目立つ。
欧州大戦で最も活躍した名機の内の一つ。ソッピース社の駱駝と呼ばれる航空機であった。
「んっ、腕前はまあまあだな。けど、何でイギリスの飛行機がイタリアの空を飛んでんだ?」
「ありゃ、賭け空戦ですわ。何でもドイツかオーストリアのお嬢様が、近代技術をじっくりと見てみとうとか何とか言って開催しとるらしいです」
「お嬢様の道楽って、どんだけ金持ちなんだ……。まあ、目の保養だから良いけどよ」
「ここ、リーヴァ・デル・ガルダで飛行できる場所は一つしかないんで、会うこともあるかもですなあ。こっちです」
六岡の後をついて街中を降りて行き、湖畔へと向かう。
やがて前方に見えてきたのは古城の麓に建てられた白いドーム上の整備ハンガーであった。
「はい、ここですよう。他の利用者にはあまりちょっかいかけんといてくださいね。いえ、軍人さんは血の気が多いでっしゃろ?」
「あー、大丈夫。俺らは元海軍軍人だからな。そりゃあ心も海のように広いさ」
妙な太鼓判を押す生田の言葉を聞き流しながら、一行はハンガー内へと入って行った。
ハンガー内はいくつかの区画に分かれており、その傍らでは陽に焼けた欧州人たちが酒を片手に粗野な笑い声をあげている。
ふと、彼らから視線を感じた。
何か、見定めるようなまなざしだ。
大方、千早たち――。新たな闖入者が航空士なのか? できる奴か、そうでないのか? そんなことを考えているのだろう。
隣で猛獣の眼になっている生田の背中を拳で小突き、先を急かす。
彼らの横を通り過ぎる際、奥に瀟洒な日傘が立てかけられているのが見えた。
その下で身なりの整った複数人が涼んでいるので、もしかすると彼らこそが賭け空戦の参加者。くだんのお嬢様とその一行なのかもしれない。
千早たちは彼らに頭だけの会釈をして、六岡に黙ってついていく。
六岡に導かれた区画は、どんちゃん騒ぎを続ける集団がたむろする箇所から丁度反対側にあった。
「ユーリさん、マリオさん。雇い主を連れてきはりましたよって」
区画にはやけに中性的な顔つきをした猫毛の銀髪が目立つ西洋人と、整備服に身を包んだ赤毛の男女がイスに座って待っていた。
六岡が声をかけると、銀髪の方が嬉しそうに目を細め、男女の方は物珍しそうに不躾なまなざしを向けてくる。
「ジェン・ドブリィ。こんにちは、ヤポンスキの皆さん。ユーリです。ユーリ・ロマノフスキ。セルデニチェ。アナタたちを歓迎します。ええっと……。日本語、合っていますか?」
声変わりをしていないのだろうか。銀髪の声色は一般的な成人男性と比べると少々高い。その体型もほっそりとしていて、まだ若さの色濃く残る青年だった。
それにしても、まっとうな西洋人のみてくれに、流ちょうな外国語と日本語まじりの口調である。
見た目とのギャップに面食らった生田が、目を丸くして答えた。
「お、おう……。生田乃木次だ。よろしくな。アンタ日本語うまいなあ」
生田の賞賛にユーリは歯を見せた微笑を浮かべると、
「ジェンクイェン。僕、ポーランド人のロシア残留孤児だったんです。シベリアに出兵した日本軍に拾われてから、しばらく日本に滞在しました。ケンダマできますよ。モシモシ亀よ、好きです」
言って、「もしもし亀よ」とやや外れた調子で歌ってみせる。
あまり上手くはなかった。教えた日本人が音痴だったのかもしれない。
「ユーリさんは、ワルシャワ大学卒業後にポーランドのPZL社で設計技術者として働いとったんですわ。天下のプワフスキ氏の助手ですよって、技術顧問として引き抜くのにどえらい難儀しましたわ」
プワフスキを知っているか? と得意顔の六岡。
無論、航空に携わる者ならばズィグムント・プワフスキの名は一度くらいは耳にしたことがある。
数年前に世界で初めて全金属の軍用単葉機を設計・開発した技術者の名前だ。知らないはずがない。
「PZL? てことは……」
生田が眉根を寄せて、恐る恐るハンガーの奥へと目をやる。
千早も釣られてそちらを見ると、まるで翼を広げたカモメのような形状をした鉛色の航空機が鎮座していた。
「P.11。全金属、高ガル翼の単葉機です。エンジンはブリストル・マーキュリーのライセンス製品。ヤポンスキの皆さん、単座が欲しいのか。複座が欲しいのか。曲がる機体が欲しいのか。速い機体が欲しいのか。よく分からなかったので、1機目の候補はこれにしました。とても良い飛行機です」
「金属の単葉機かあ……」
生田の渋い反応は、複葉機に慣れているがゆえの反応であった。
熟練した航空士ほど、慣れた感覚が一新されることを嫌がるものだ。
日進月歩で技術を革新させていきたい技術者と、ある意味保守的な航空士。
両者を隔てる意識の差は大きい。
「……お気に召しませんか? 一応、まだ購入決まったわけじゃないですけど……。もう一つはあちらです」
言って、指さす方向には胴体を真っ赤に着色された流線形の水上機があった。
胴体下部に取り付けられた曲線を帯びた翼に、二つの下駄が良く目立つ。
先ほどと同じく単葉機であったが、
「おっ」
こちらには生田も色好い反応を示す。
「もしかして、マッキか?」
「はい。アレーニア・アエルマッキの研究用試作機です。木製モノコックの単葉水上機。レーシング仕様ではないので完成後は使い道もなく、譲ってもらうことができました。マッキ、好きですか?」
「おう、好きだな。良いね、良いフォルムだ。流石はシュナイダー・トロフィー・レースの覇者」
「PZLのPシリーズだって、国際レースで優勝しましたけど……」
生田の食いつきように、ユーリは若干不満げな表情を浮かべながらも丁寧に説明する。
PZLに働いていたというのだから、P.11に思い入れがあるのは当然だ。
そんなユーリの心の機微にも気づかないほどに生田が興奮している原因は、日本の航空関係者が愛読している雑誌にあった。
海軍軍人は兵学校時代より続くインテリ気質から、卒業後も読書を趣味に持つ者が多い。
そうして愛読する雑誌の中に『航空時代』などの科学雑誌があるのだが、中でも紙面で良く取り上げられる国際レースがシュナイダー・トロフィー・レースなのだ。
高性能機と言えば、イギリスのスーパーマリン。
水上機と言えば、イタリアのマッキ。
良い航空機の特徴は波を切り裂く流線形と、丸い翼。
この認識は、ほとんどすりこみのようなものだと思って良い。
そして、雑誌でしか見たことのない航空機の"本物"が目の前にある。
生田が興奮するのも無理からぬことであった。
「試乗できるのか?」
「それは……。タク。はい、できます。そのためにヤポンスキの航空士に来てもらったので」
「良いね。おい、宮本。お前どっちに乗る?」
生田の問いかけに一寸間を置いてから、ユーリに問う。
「ユーリさん。複葉機でなく単葉機を選んだ理由は?」
「えっと、それはこれからの時代が単葉機の時代になるからです。元々複葉機、飛行するのに十分な揚力が確保できないから仕方なくそうしてました。今の発展した技術なら、複葉にする必要ないです」
ユーリの答えに千早は納得する。
脳裏に浮かぶのは、テクストに掲載されていた日本の"零戦"と、アメリカの"B29"と名付けられた航空機であった。
両者ともに単葉機である。
これからの時代、単葉機が優勢になるのは間違いない。
「成程、単葉機だからこの2機を選んだわけか」
「タク。後、ヤポンスキの皆さんが求めるもの分からなかったから、もあります。P.11は安定した高速飛行できます。マッキは離着水が難しいですが、一度離水すれば失速に強いです。この2機はとても対称的」
一通り納得のいく答えをもらった後、千早はしばし考えを巡らせる。
海上護衛戦力に航空機を組み込むとして、恐らく第一に必要とされる能力は長大な航行距離と偵察能力であるはずだ。
それに加え、次点で脅威を発見した際に対応可能な戦闘力といったところだろうか。
現状、護民総隊に海上護衛のノウハウがない以上、護衛行動に有効とされる戦闘教則を策定することが難しい。
……となれば、ここは視野を狭めぬ方が良い。
ひとえに偵察能力を求めると言っても、これだと一つに決めることはせず、速度重視や機動力重視、様々なタイプの新型航空機を見つくろっておいたほうが良いだろう。
結論が出た。
千早は宮本に自分がP.11に試乗することを伝える。
「マッキじゃなくていいのか?」
と目を丸くする生田に対し、
「どっちも良い飛行機みたいですから」
と軽く返す。
ユーリは自国の航空機が褒められたことで、はにかんだ笑顔を見せていた。
「すぐに機体運び出します。飛行服はあちらにあるの使ってください。それじゃ、マリーオ! アドリアーナ!」
ユーリに呼ばれ、イスに座ってくつろいでいた赤毛の男女が立ちあがった。
二人は手早く人足に指示を出すと、がっしりとした体格のマリオと呼ばれた男性は生田の方へ向かい、アドリアーナと呼ばれた女性は後ろで一本に縛った赤毛を左右に揺らしながら、千早の方へと駆け寄ってきた。
「ピアチェーレ、ソーノ。アドリアーナよ。イタリア、エミリアの生まれ。貴方、英語はできる?」
「一応、兵学校で習ったな。宮本だ。宮本千早。通じているか? ミス・アドリアーナ」
「上出来! 私、日本語なんて分からないからどうしようか心配だったのよね。アニーで良いわよ。堅苦しいのも禁止」
飛行服に着替えながら拙い英語で返すと、アドリアーナは花が咲いたような笑顔を見せる。
日本の女性を月とすると、太陽みたいな笑顔だった。
ふと、千早は例のテクストをもたらした二人組を思い出す。彼らの性分は、目の前の彼女に良く似ていた。
70年の歳月が、日本人の気質を西洋人に良く似たそれへと変えたのかもしれない。
「貴方航空士なんでしょ? 基礎的な説明は省くわよ。エンジンは離陸時のみ1950回転まで回して。離陸したら、1500まで落とすこと。馴らしなんだから、WEPは絶対駄目。後、降下時は背面姿勢をキープすること。通常姿勢で降下すると、エンジンが駄目になっちゃうのよ」
ぺらぺらとまくし立てるアニーの勢いに若干気圧されながらも千早は驚きの声をあげた。
「もしかして、君はエンジニアなのか?」
「馬鹿、それ以外の何に見えるのよ」
パタパタと油にまみれた薄手のシャツを煽ぎながら、アニーが頬を膨らませる。
女っ気の全くない技術者染みた機械油の臭いがムンと漂ってきた。
「兄さんも……。ああ、あっちのマリオのことね……。も同じよ。ボローニャのエンジン工場で働いていたわ。世界恐慌からこちら不景気で仕事もなかったんで、ホント助かっちゃった。ご飯がおいしくて、エンジンさえ弄れれば外国だって着いていってあげるわよ」
悲壮感漂う事実をあっけらかんと流してしまうアニー。
この前向きさは見習いたいものだと、千早は内心感嘆を覚えた。
「他に留意すべき点は?」
「後はフラップとトリムタブかな。ちゃんと操作しないと、せっかくの良い飛行機が泣いちゃうんだから」
「フラップ? トリム?」
聞いたことのない言葉だった。
アニーは千早の反応に思い出したかのように声をあげると、「ちょっと来て」と手を引きながら、千早を滑走路に運び出されたP.11の操縦席まで連れていく。
P.11の操縦席は、"鳳翔"に搭載された三式艦上戦闘機と比べると大分広く感じられた。
計器類に関しては大差ない。
アニーはその中でも千早が見たことのないレバーやクランクを指し示して説明を続ける。
「これよ。これがフラップ。それで、これが方向舵トリムと昇降舵トリム。フラップは速度を犠牲に、揚力を上げてくれる装置よ。発進時にはフラップを下ろして、離陸後は上げること。トリムは舵を一定方向に固定してくれるの。離陸時のエンジントルクによる当て舵が要らなくなるわ」
「それは何というか……。便利だな。でも、覚えることがいっぱいだ」
新技術の数々に、千早は目の回るような心地がした。
航空機が戦場を飛び交うようになって、まだ20年と経っていない。
それなのに人が機械に慣れるよりも早く、機械が革新を続けていっているのだ。
千早は目の前にあるP.11の評価を上げた。
恐らく、実際に乗れば更に評価を上方修正することになるだろう。
「他に何かあるか?」
「特になし。貴方の飛び方を見て、気になったところがあったらまた言うわ。じゃあ、頑張ってね。エンジン壊さないでね。変な離着陸しないこと。それじゃあ、手動慣性起動器回すわよ!」
機関銃のようにまくし立てた後、アニーは操縦席から飛び降りていった。
人足がエナーシャを回し始める。
「前離れっ」
独特の振動を感じながら、千早はエンジン起動スイッチに指をかけた。
「コンタクト!」
一度目では起動しない。
更に人足がエナーシャを回し、三度目でようやくエンジンが起動した。
不具合がないことにホッとしつつも、低負荷で暖気運転を開始。
現場でエンジントラブルに悩まされた身からすると、驚くほどに順調な滑り出しに思える。
そのまま油温の調子を注意深く観察していると、不整音を立てていたポーランド仕様のブリストル・マーキュリーエンジンが、やがて断続的で軽快な音へと変わっていった。
頃合いである。
「チョーク外せ!」
P.11のランディングギアから馬留めが外される。
後は発進するだけであった。
ぐん、と身体に加速を感じる。
機体が前に進み始めたのだ。
千早はアニーに言われたとおり、フラップを下ろしてトリムの調整を行う。
三式艦上戦闘機に比べて、舵が右に流れやすい。エンジントルクがかなり強いのだ。
同じブリストル社製のエンジンだが、三式艦戦はジュピターエンジン。恐らく馬力が違うのだろう。
トリムを操作し当て舵をしてやると、機体は驚くほどスムーズに前へと進むようになった。
速度計が時速180kmを超えたあたりで、機体がふわりと持ちあがっていく。
「うおっ」
離陸した瞬間、機体が左右にひどく揺れた。
慌ててフットペダルを押し込み、機体の姿勢を安定させる。
ユーリはこの機体を「高速飛行時の安定性に優れる」と評していた。それは言い換えれば、「ただし、低速時はその限りでない」ということである。
千早は冷や汗を掻き、P.11の安定性について「低速時に難」と評価をつけた。
フラップを上げて、加速させる。
190km。200km。210km。220km……。
速度が250kmを超えたあたりで機体の挙動に安定感が生まれる。
ガルダ湖の上空をぐるりと回りながら地上を見下ろすと、ユーリやアニー、共和商事の面々が身体いっぱいに手を振っていた。
皆、晴れやかな笑顔だ。
国内での航空サーカスでもそうだが、戦争の絡まない航空機の飛行は、見るものを明るい気持ちにさせてくれる。
彼らの笑顔を見ていると、こちらに来てからこびり付いていた沈んだ気持ちが嘘のように楽になった。
お礼とばかりに宙返りの曲芸飛行をプレゼントする。
わあ、と彼らから巻き起こる歓声が聞こえるようだった。
エンジン、計器類に異常なし。
風も順風。飛行にうってつけだ。
燦々《さんさん》と輝く陽を浴びながら、輝く湖上を遊覧する。
そうしてしばらく飛行を続けていると、
「宮本ーっ」
飛行場横の水路から上ってきた赤い航空機が、P.11の真横に並んできた。
「生田さん、どうですかーっ!」
声を張り上げて、生田に返す。
「じゃじゃ馬だが良い機体だーっ、こいつはーっ!」
エンジン音や気流の関係で、航空士が互いに会話するためには機体を接触しかねないほど近づけ、声を張り上げる必要があった。
故に通常の意思疎通には光信号や手旗信号を用いる。
生田はその場で独楽のように横回転をした後、
『鬼ごっこしようぜ』
と手旗信号を送ってきた。
海の男らしく、競いたがりな所があるのだ。この男には。
千早は苦笑しつつ、それに是と答える。
答えを受け取った生田はくるりと機体を背面姿勢にした。
――角度の深い降下機動。
ついてこい、ということらしい。
『了解』
千早もそれに追随していく。
下駄をはいて余計な空気抵抗があるせいか、P.11よりも生田の駆るマッキの方が速度の乗りが悪い。
だが、機動性に関してはあちらに分があるようで、縦旋回、横旋回のいずれにおいてもマッキに追いつくことはできなかった。
このまま巴戦をしても埒が明かないと考えた千早は、真正面からの追いかけっこを諦めることにする。
操縦桿を倒し、P.11の機首を持ちあげた。
減速に伴う不安定な挙動をペダルで抑え、真っ直ぐ高度を取っていく。
ある程度高度を稼いだ後、姿勢を反転。降下を開始し、高度を速度へ変換する。
時速180kmから一気に300kmへと加速して、マッキの背中目がけ見る見るうちに距離を詰めていった。
そうして高速域の機動へと移った瞬間、
「おっ」
機体が驚くほど安定したことに気がついた。
まるで空を切り裂くように、一直線にと降下ができる。
すさまじく速い。
こいつはカモメなんかじゃない。ワシかタカの類だな、と内心舌をまいた。
猛禽類の急降下を思わせるP.11の機動に対し、マッキは円熟した旋回機動で迎え撃つことにしたようだ。
こちらの進行方向とは逆へもぐりこむような急旋回。
機動力で負けた機体で敵にこれをされると、降下側は追随することができない。
ちぇっ、と舌打ちをして千早は操縦桿を引き起こす。
生田は国内で五本の指に入るほどの凄腕だ。
一度や二度の降下機動で真後ろを取らせてくれるほど甘い相手ではない。
変換した速度を再び高度へと変換し、上昇――。上昇――。上昇――。
上昇力も驚くほど高い。
あっという間に高度1500mまで辿りついた後、再び降下を開始する。
勝敗の両天秤が少しも左右に傾かない、まるで獲物を狙う猛禽類と小回りで翻弄しながら大逆転を試みるツバメがやり合うかの如き空戦は、たっぷり10分はかけて行われた。
『これくらいで仕舞いにしよう』
やがて生田から発せられた信号に従い、千早はP.11の高度を下げていく。
本当はもう少し飛んでいたかったが、今回の飛行はあくまでも購入するか否かを判断するための試乗である。
後ろ髪惹かれる思いで、千早は飛行場へゆっくりと降りていった。
「すごいじゃない、チハヤ! 何、貴方エースパイロットなの?」
低速時の不安定性から、ひやひやしながらも無事に着陸することのできた千早を出迎えたのは、アニーの黄色い声であった。
「いや、"鳳翔"にも"加賀"にも俺より上手い先輩は沢山いたよ。マッキに乗ってた生田さんだって、尋常じゃない飛び方してたろ」
飛行帽を脱ぎながら、呆れたように答える。
加賀搭乗員の黒岩や、土浦で教官をやっている伊藤勇など、千早の上には化け物じみたパイロットがごまんといる。
当然、生田もその一人である。
「確かに、途中すごい気持ち悪い機動してたわね。ぐるりというか、ぬるりというか。何であんな飛び方できるのかしら」
「ぬるり、はないだろ。ぬるりは」
と首を傾げるアニーに反論してきたのは、マッキを下りた生田であった。
「悪気はないのよ?」
「なら良いけどさ。それより、宮本。お前、腕上げた?」
「えっ」
生田の意外な言葉に、千早は目を丸くする。
「いや、そのP.11が良い機体だってのは認めるよ。ユーリさんには謝っておかなきゃな。だが、それよりお前の飛び方が飛行学生時代より、こう……。何というか、空を魚が泳いでるみたいな感じになってるんだよな」
「自分では自覚ないんですが……」
言われてみても、思い当たる節はない。
千早からしてみれば、今も以前も機体が墜落しないよう必死に操縦しているだけなのだ。
しばらくは二人の会話を聞いていたアニーが思い出したように口を開いた。
「もしかして、チハヤは墜落の経験があるんじゃない? 以前イタリア空軍のベテランが言ってたわ。一度墜落を経験した奴は二度と飛べなくなるか、急に飛行がうまくなるかするんだって」
「ああ、それだ。こいつ、上海での戦いでフラットスピンから機体を持ち直してるんだよ」
ぱんと手を叩く生田の言葉に、
「フラットスピンからっ? ありえないわっ!」
アニーが手を口元に当てて仰天する。
「本当だって。あの時はもう駄目だと思ったんだが、ほんと良く生き残ってくれたよ。なあ、宮本?」
人懐っこく肩に手を回す生田の言葉に、千早は苦笑いを浮かべた。
空を飛んでいた時に忘れることのできた痛みが、じわりと再び滲み出してくる。
千早の要領を得ない反応に二人は怪訝そうな顔になるも、幸運なことにそれ以上の追及はやってこなかった。
ユーリが三人を呼びに来たからだ。
「皆さん、お疲れ様です! P.11とマッキ、どうでした?」
「良い機体だった。多分、2機とも購入することになると思うぜ」
生田がそう答えると、ユーリはあからさまにほっとしたようであった。
自分の見つくろった航空機が日本人に受け入れられるか、心配だったのだろう。
「ジェンクイエン! 良かったです。他に購入を検討する機体があったら、一緒に考えていきましょう。ああ、それと……なんですけど」
少し言いづらそうに口ごもり、ユーリは更に言葉を続ける。
「皆さんに会いたいって方が、いるです。賭け空戦の元締め、やってる方で、知人に紹介してくれと頼まれました。他国のパイロットもいるので、会いに行きませんか?」
ユーリの誘いに三人は顔を見合わせた。
賭け空戦の元締めということは、恐らく六岡が言っていたドイツかオーストリアだかの令嬢であろう。
この地にはライセンス生産を行う外国機の品定めに来たのであって、彼女たちとは縁もゆかりもあるわけではないから、わざわざこちらから出向いてやる義理はない。
ただ、他国のパイロットとやらには興味をひかれるものがあった。
「俺は会いに行っても良いと思うが、宮本はどうよ」
「そうですね……」
このまま上海での戦いを掘り下げられても気持ちが沈むだけである。
故に千早は二つ返事でそれに応じた。
結果として――。千早はこの異境の地で思わぬ出会いを経験することになる。
令嬢の傍らに控えていた大柄な西洋人の顔立ちは、蘇州の空で出会ったあのロバート・ショートと瓜二つであった。
彼には……。兄弟がいたのだ。




