1932年 8月 紅海にて
アフリカ大陸とアラビア半島に挟まれた紅海の空には、夏だというのに雲の少ない乾いた青色が広がっていた。
でっぷりとした貨物船の舳先が8ノットの速度で波を押し退けていく度に、潮の飛沫が平甲板の上に立つ千早の顔にかかる。
故郷のそれに比べてやけに透明度が高い。
強い日差しも相まって、その飛沫の一粒一粒が真珠のようにきらきらと輝いており、ここが異境であることを千早に強く認識させてくれる。
千早は顔についた滴を手の甲で拭い、渋い顔で海を見つめた。
「どうした、宮本。船酔いか?」
乾パンをかじりながら気安く話しかけてきたのは、先月海軍を追い出された生田乃木次であった。
「数ヶ月陸に上がったくらいで酔いやしませんよ」
「ん、そか」
薄手のシャツを腕まくりにした生田は乾パンを胃袋に収めると胸ポケットから敷島を取り出し、器用に片手で火をつける。
「お前も一服やる?」
「いえ、"鳳翔"の皆に悪いです」
「そういや、あそこは火気厳禁だったな。俺には耐えられそうにねえや」
ぷかりとやりながら、生田は船べりの手すりに寄り掛かった。
黒岩から聞いたところによると、5月から急に勤務態度が悪くなり、その傲慢さを嫌った周囲との間にひどい衝突が起こったらしい。
千早は確信した。
狙って、やりやがった。この男は。
「おう。職を失ってしまった。雇ってくれい。おう」と悪びれもせず、嘘泣きまでしてやってきたこの男に対して、千早も一度吐いた言葉を呑み込むこともできず、谷口に泣く泣く推薦する羽目になったのだ。
谷口が浮かべた表情は忘れようにも忘れられない。
あれは意図せず海軍の新しい英雄を引き抜いた形になってしまい、どう古巣と折り合いをつけるか悩む、厄介事を見る時の表情であった。
そんな生田も今となっては組織を盛りたてる運命共同体、年上で恩もある気持ち複雑な同僚である。
「んで、何で湿気た面してたわけよ」
「……あまり良い船じゃあないなと思っただけです」
言って、千早は船を見回し喫水を見る。
煙突には国際汽船所属を表す識別記号が描かれており、船体の側面には「伊太利丸」の文字が踊っていた。
貨物船"伊太利丸"は、鈴木商店と友好関係にあった川崎造船所によって造られた第一大福丸型貨物船と呼ばれる量産型の貨物船である。
総トン数5850トン。積み荷を載せれば1万トンにも届かんとする大型船であったが、船体バランスや耐波性に難があり、大阪商船の畿内丸型貨物船と比べると、速力をはじめとする様々な面で劣っていた。
いわば昭和の時勢における一時代遅れた船であると言えよう。
「ああ、それな。俺も客として乗るなら客船が良かったよ。ほら、"太平洋の女王"とかさ」
「"浅間丸"ですか。流石に客船と貨物船を比べるとは酷でしょ。確かに豪華客船ともなれば乗り心地は良いでしょうが……」
苦い顔で返す。
折角、要たちが用意してくれた旅程である。"帰りの荷物"もあるのだから、やれ豪華な旅を用意しろと無茶を言っても仕方がない。
「それより、この船級でも100万円はくだらないんですよね」
一向に改善の目処が立たない護衛組織の財政状況が、あざ笑うように目の前をちらついた。
重篤な金欠病である。
頭をがしがしと掻きながら、千早は未練がましくため息を吐いた。
「予算が少なすぎるんです」
1932年5月の末に発足した大日本共和商事は、巷が"神懸かり"とまで評した的中率で、正確に金鉱山の採掘権を取得し、右肩上がりのスタートを切った。
だというのに、護衛組織に配分された初期予算は100万と少し。
一応、企業名に合わせるようにして"勅令護民総隊"なる看板だけは立ち上げたのだが、士官の数もそろわず、海上護衛を謳っておきながら、未だ船の一隻すら買えないのだ。
千早の愚痴を聞き、生田は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。
「良いじゃないか。この手探りの貧乏感も。俺は一から作る感じが面白いと思うぜ」
「面白がっている時間なんて……」
「今は戦をしていない。満州や上海での国民党との騒動はリットン調査団が来たおかげで一段落だろ? 別に時間がないわけでもないと思うが」
千早の抗弁に生田が首を傾げる。
実にぽややんとした楽観視であったが、千早はそれに納得のいく答えを返すことができなかった。
生田の愚鈍ともいえる物の見方は、海に出る者特有の視点とも言える。
四方に紺碧以外の何もない大海原に出てしまうと、政治も外交も、陸で起きる何もかもが何と言うこともない些事に思えてきてしまうのだ。
皇族軍人――。伏見宮が今上天皇陛下よりも人気を博している理由もこの点にあった。
些事を気にしない気風の良さは、"潮気がある"と喩えられ、海軍軍人たちに親近感を抱かせるのだ。
この問題は近来、海軍でも顕著になっていたことで、大抵現場の船乗りは陸の潮気が抜けた軍政屋と折り合いが悪い傾向にあった。
千早は兵学校卒業以来、現場以外を経験したことがない。
故に以前の千早ならば、生田と同じ考えを抱いたであろう。
だが、残念ながら千早は例の"テクスト"によりこれから起きることを知ってしまった。
どうしても、潮気の抜けた危機感が頭をよぎってしまうのである。
――だが、だからといって何ができるのか。
一体、「直に満州国の承認を巡って日本が国際連盟を脱退。欧米との関係が悪化する」などというヨタ話を誰が信じるというのだろう。
今後増加するであろう周辺国の圧力を考えると、気が急いて仕方がなかった。
「それにしても企業部門は神懸かってるよなあ。何であんなに資源産地を特定できるんだか」
「運が良かっただけですよ。それに、問題も増えましたからね」
「へえ、どんな」
他人事のような生田の態度に千早は嘆息すると、暇つぶしにと持ちこんだ内地の新聞を広げて見せた。
「九州の菱刈、北海道の恵庭、相次ぐ金鉱山の発見・再開発を天佑ととらえた海軍が、海軍主導での護民総隊との合併を提案しています」
いわゆる吸収合併というものであった。
当案によれば共和商事は住友財閥の支援を受ける形で、鉱山の共同経営をすることになる。
総隊についても一応、追い出し人事などはやらない、護衛艦艇も融通するとの条件が挙げられたようだが、この提案を耳にした谷口、中地の表情は険しかった。
「俺としちゃあ、せっかく海軍辞めたのにそれは困るな。でも、元々一つだったもんだ。護民の仕事さえきっちりやるなら、問題はないんじゃないか?」
「いや、それが提案の前提には新八八艦隊という構想があるんです」
眉をひそめて千早は言う。
八八艦隊とは欧州大戦中に計画された、戦艦8隻と巡洋戦艦8隻からなる艦隊の整備計画のことである。
年間6億円という莫大な維持費と、世界で沸き起こった軍縮のあおりを受けてとん挫した計画だが、今でも支持者は多い。
「八八……。って、長門型でも増やすのか? ロンドン軍縮条約はどうした」
「軍縮に関しては、軍令部の谷口大将と永野提督が抜けましたからね。"条約派"の影響力が弱まった以上、軍拡に向けた準備ができると考えてるんでしょう。建造予定の艦は確か……。十三号型巡洋戦艦だったと思います。何でも、最新の技術で新造するとか。それで型遅れになった巡洋艦を通商護衛に当てるのだそうですよ」
「あー……。あれか。確か47500トン級、30ノット超えの高速戦艦とかいう馬鹿げた代物だったよな。あれいくらするの?」
「安く見積もって1隻3700万円です」
あまりの額に、ぎょっとした生田の口から敷島がポロリと落ちた。
「金鉱山で賄えるの? それ」
「賄えるわけありませんよ。多分、皇室予算も当てにしているんだと思います。うちらが前例を作ってしまいましたから」
「……まあ、そりゃあ受け入れられんな」
呆れたような居心地の悪そうな、何とも言えない表情を浮かべて生田は呟いた。
恐らく、古巣なだけに大上段から批判するというのも憚られるのだろう。千早も同じ気持であった。
今の時世に八八艦隊計画が必要かといえば、これには断じて否と言える。
造船や軍需製品の増産など、一時的に軍拡による雇用の確保ができるかもしれないが、それはあくまでも造船所や工場地の集中する太平洋側の臨海部の範囲のみに留まるだろう。
つまりは局所的な好景気であり、千早たちが救民の対象としている日本海側における貧困の解決には何ら寄与しない。
さらに軍需品というものは一度造ってしまえばそれで終わりだ。
膨大な維持費、一度拡大してしまうと士官の反対により規模の縮小に難儀することを考えれば、一利あって百害あり、といったところだろう。
そのため軍拡に頼らない形で、日本海側の救済を行わなければならないのだ。
生田もその点に気がついたのか、さらに問うてきた。
「じゃあ、海軍の要求は当然突っぱねるとして、稼いだ金は何に使ってるんだ?」
だが、この質問に千早は答えづらかった。
あまり褒められた使用法ではなかったからだ。
「ええと、主に山陰・北陸・東北地方への投資ですね。ただ投資というか、買い上げというか……」
「ん、やけに言葉を濁すじゃないか」
さらに追求する生田に対し、千早は渋々ながらも続ける。
「現状は土地を地主から買い上げているだけなんですよ。これが結構強硬で、拒む地主からは小作人を職員として引き抜いて、土地を売らざるを得ないよう仕向けています」
「……それ、良いのか?」
千早はばつが悪そうにかぶりを振る。
「当然良くありません。出航前の朝日新聞じゃ、『我が国の金を掘り尽くし罪なき民から土地を奪う売国奴』としてでかでかと特集が組まれていましたよ」
新聞の一面に載っていた、要の仏頂面が目に浮かぶ。
千早の自嘲めいた言葉を聞き、生田があちゃあと手を額に当てた。
「帰国した時、働く場所が焼き討ちにあってなきゃ良いが……」
それは千早も心配するところであった。
「一応……。企業や護民組織の本部は秋田の八郎潟に移すそうですし、元小作人には買い上げた土地を平等配分して、計画的な耕作を指導するそうです。給料も人並みに払っているそうなんで、大事はないと思いたいです」
……自分に言い聞かせるよう返してみるも、千早には拭えない不安があった。
海軍中尉、古賀清志――。
新聞の情報を真に受けて、正義感を胸にテロ活動を計画していた古賀のような者が要たちを襲撃しないと絶対に言いきれるだろうか。
……恐らく可能性がゼロになることはないだろう。
『どうか、御維新の仲間に入れてください』
古賀の青白い顔を思い出し、千早の気分は再び沈んだ。
あの時、何故共に行ってやらなかったのか。
大の男の頼みだなんだと理由をつけて、楽観視した結果が史実と異なる五一五事件である。
維新の手本を見せてやると息巻いたところで、手本を見せるべき相手が死んでしまっては意味がないではないか。
あれは、回避できた未来だった。
間違いなく責任は自分にある。
そう自責の念に駆られていると、
「おう、宮本」
突如生田に頭をはたかれた。
「何ですか」
うざったそうに睨みつけてやると、ひまわりのような笑顔が返ってくる。
「お前、深刻に考えすぎだ。昔の偉い人も言ってたろうが。人は考える葦だとかなんだとか。葦ってのは刈るのがクソ面倒なしぶとい雑草だろ。これは人間、そう簡単にくたばったりするもんじゃないというありがたい格言だな。それに、心配せずとも独りで勝手に伸びるのが葦だろう。お前一人でよその気を揉んで何になるってんだ。まあ、気楽に行け」
全くもって呆れるばかりの能天気さである。
「……それ絶対、使い方間違っていますよ」
だが、その明るさに千早の心が幾分か救われたのも事実であった。
小さく笑って礼を言うのとほぼ同時に、"伊太利丸"から汽笛合図があがる。
「ようやく地中海入りか」
舳先の向こう側へと目を向けると、砂と砂に挟まれた運河が見えてきた。
スエズ運河。アジア世界と地中海世界を繋ぐ、世界経済の大動脈である。
「楽しみだな。最新の航空機が見られるなんて、役得にも程があらあ」
生田の弾んだ声に、千早もこくりと頷いた。
千早と生田、二人の元航空士官に課せられた任務は生産ライセンスを取得する航空機を見定めることだ。
既に共和商事の職員が現地にて工場誘致や技術者の招へいについて交渉を行っているという。
谷口を首脳とする勅令護民総隊本部が数少ない予算の中、すぐに取りかかれるものを吟味した結果、まずは使用航空機の選定が先決であるとの結論が出た。
船に比べて航空機は1機が10万から20万と比較的安い。
それに、昨今の航空機の進化を考えれば、これからの時代は通商護衛においても航空機が重要な役割を担ってくるだろう。
選定でしくじるような失敗は、未来のためにも絶対に許されない。
千早は、両手で頬をぱんと叩いた。




