1932年5月 京都の料亭にて
そよそよと庭園の小さな小川が涼しげな音を奏でる中、中地要は膳に盛られた料理に箸をつけることもせず、自身が呼び出した京都帝国大学の学生たちをじっと見つめていた。
要の機嫌はすこぶる悪い。学生たちの顔色はもっと悪い。彼らはこぞって所在なさげに畳の上で正座の足を組み直していた。
まるで、寺子屋の和尚に怒られた小僧のような仕草である。
鹿おどしの音が小気味良く鳴り、学生たちはビクリと肩を震わせた。
――予想外の展開だ。要は深く嘆息した。
そも、料亭は会食を楽しむ場であり、ホストとゲストが存在する。
今日この場において、ホストは中地要であり、ゲストは彼ら、学生であった。
だが、この場には要が意図したホストとゲスト以外の人物が居合わせていたのだ。
和服をゆったりと着こなした、狒狒を思わせる垂れ目がちの老人が――。
「新聞でお顔を拝見したことがあります。金子直吉さんに相違ありませんか?」
「はい。太陽曹達の取締役、金子直吉にございます。この度は折角の会食に水を差すような真似をして大変申し訳なく思います」
「……中地要です。"あの"鈴木商店の大番頭がいらっしゃるとは、いささか思ってもみませんでしたよ」
要は露骨に顔をしかめる。
鈴木商店――。元は神戸の洋砂糖店に端を発し、欧州大戦に伴う物価高騰を上手く立ち回ることにより、大正期には国内総生産の1割を単独で担うほどの急成長を遂げた"元"財閥である。
相次ぐ恐慌や銀行取り付け騒ぎなどによって本社は破産・事業停止にまで追い込まれ、今やかつての栄華は見る影もないが、それでも幾つかの子会社が再起の道を模索していると聞く。
そんな一世を風靡した大財閥の舵取りを行い、再出発の先導をしているのが目の前にいる金子直吉であった。
一時は財界のナポレオンとまで謳われた人間が、要に対して深く頭を垂れているのだ。
警戒しないわけがなかった。
「お顔を上げてください」
「礼を失したこと、深くお詫び申し上げます」
尚も頭を下げ続ける直吉からは、何か鬼気迫るものが感じられた。
……この老人は、一体何を狙っているのか?
要の中の警戒心が、背筋に冷たいものを走らせる。
もはやここは会食の場ではない。
言葉を介し、智謀を巡らす戦の場である。
何故、この老人を連れてきたんだ、と要は恨めしげに学生たちを睨みつけた。
「……水を差した、という自覚はお有りなのですな。この場は不景気のあおりを受けて就職のおぼつかない学生たちを慰めるべく設けられたのです。その学生たちから招きを受けたとはいえ、金子翁のような"元"財閥の長がお顔を見せるのは、いささか筋違いに思うのですがね」
初対面に向ける言葉としては明らかに辛辣な物言いに、直吉以外の出席者が皆ぎょっとした表情を浮かべた。
要にとって、鈴木商店とは"成金の親玉"のような存在である。
欧州大戦の折に富山で起きた米価高騰に伴う暴動事件では、鈴木商店が米を買い占めたとして民衆の打ちこわしを受けたと新聞で報道された。
米価高騰の原因には、利に敏い成り上がり商人たちの投機的な買いつけがあったとされ、華族でありながらも民の側に立っていると自負する要にとって、鈴木商店は好意的な感情を向ける対象には成り得なかったのだ。
要と直吉、そして二人の間で板挟みになる学生たち。
張り詰めた空気が続く中、鹿おどしが再び鳴った。
「……ぶしつけながら、事実の訂正と経緯を説明させていただきます」
静かに頭を上げた直吉が口を開く。
「初めに、私は財閥の長などではありません。ただの番頭にございます。我欲に目がくらみ、主人を差し置いて、長を表明する輩はただの盗人と変わりなく。そんな輩と一緒にされては困ります」
「我欲? 商人の言葉とは思えませんが」
「商人の在り方は二通りあるのです。一つに、"お儲け"を本分とする在り方。もう一つに、有るものを無い所へ融通する在り方。"お儲け"が好きな方々と一緒にされては困ります」
直吉はきっぱりと言い放つ。
長年の信念に裏付けされたであろうその言葉は、安易な反論を許さぬ迫力を伴っていた。
やや気圧された要から目をそらすことなく、直吉はさらに続ける。
「次に、鈴木商店は財閥ではありません。鈴木商店とはいわば寺の総本山のようなものです。その宗旨は先ほど申し上げた通り、有るものを無い所へ融通することこそが商人の在り方であるという考え方です。私どもは宗旨を広める本山の和尚であり、末寺に経のあげ方を教えている内にその身代が拡大したに過ぎません」
徹底して利益の追求を否定するという直吉の主張は、要の中にある商人像を揺らがせるに十分なものであった。
果たして本心からの言葉か、その場しのぎの方便か。
方便ならば、利潤の否定を口にする意図は何処にあるのか?
一体この男は何を考えている?
要は動揺を顔に出さぬよう、平静を努めて言葉を返した。
「……成る程、事実が異なるというのは理解しました。それで? "利益"の追求を否定する貴方が、いかなる"利"を求めてこの場にいらしたのか」
あくまでも皮肉げな要の物言いに、直吉は曖昧な笑みを浮かべた。
その余裕すら感じる態度に、要はむっとした表情を浮かべる。
かたや大学を卒業したばかりの若造で、こなた長年に渡って政財界を動かしてきた長老だ。いかんともしがたい年季の差を感じるが、それでも突っ張ることを諦めては呑み込まれてしまう恐れがあった。
「職のない学生に職を紹介するも商いの道。かねてより、失業学生の支援を続けていたのですが、同じ志を持つ士が現れたと学生たちから伺いまして、こうしてご挨拶に参った次第です。それが第一の理由」
「第一と。して、第二の理由は?」
「警告です。中地さん」
直吉から発せられる威圧感のような物が一層増したように感じられた。
喉がひりつく心地がする。
酒ではなく、水が欲しい。
「陛下の勅せられた救民・護民の半官半民組織については、私も子細を聞き及んでおります。貴方がたの一挙一動に昨今の政財界は関心を寄せておりますが……。その上で、申し上げる。貴方がたは孤立しますよ」
「孤立、ですか」
頷く直吉の言葉を吟味しつつ、要は深く思考する。
そも、軍政財界の影響力を排除した組織を作り上げようと言うのだから、各界の反発は予想し得る事態ではあった。反発をはねのけるのは容易なことではないだろう。
だが、要たちには"テクスト"があるのだ。
あの絶対的な運命を覆すことのできる予言書が。
現在の要には、大量の資金を荒稼ぎする青写真があった。
資金さえ手に入れれば、腰の軽い政治家を抱き込むことが可能だろう。
海上護衛戦力については未来知識の恩恵が薄く、一抹の不安があるのも確かであったが、それでも民間人護衛が軌道に乗れば、利益保護を第一に考える財界も無碍にはできなくなるはずだ。
そう考えたからこそ、要は答えた。
「孤立も覚悟の上です」
「……やはり、分かっていらっしゃらないようだ」
こちらの無知を詰るような物言いが癪に障った。
若造の手札などたかが知れている、と思われているのかも知れない。
「御言葉ですが、我々が持つ青写真の何を分かってらっしゃるというのでしょう」
「ならば、当てて差し上げましょう」
息巻く要の敵意など、何処吹く風と直吉は続ける。
「恐らく、自信の源は勝算にあります。よほどこれから手を着ける商売の確度が高いと信じておられるのでしょう。貴方がたが特に強く声をかけている学生は、地下資源の採掘技術に関して勉強した者が多い。海外か、北海道地において埋蔵資源を掘り当てようというのでは? 今品薄の資源といったら……。金ですな。金と見ました」
「それは……」
直吉の立てた推測のほとんどが、口惜しいことに図に当たっていた。
今の日本でもっとも単価の高い、利潤の見込める埋蔵資源は金である。
これには、日本政府の時勢が読めぬ失策が影響していた。
金は、古来より交換貨幣として機能してきた歴史がある。
だが、経済の規模が拡大するにつれて金の絶対量が足りなくなってしまい、自然に少量の金と交換できる貨幣が出現した。
兌換貨幣の誕生である。
兌換貨幣というのは金と必ず交換ができる貨幣であるから、他国の兌換貨幣とも交換がしやすい。信用性のある貨幣だ。
これは国際貿易において、信用の面で有利に働く。
故に日本政府はかねてからの悲願であった、円を兌換貨幣にするという金解禁を1930年に行った。
これが裏目に出たのだ。
1929年よりアメリカを中心に始まった世界恐慌の波は、各国に流通する不換貨幣の価値を軒並み下落させてしまい、代わりに金と交換可能な円の価値が高騰する。
価値が高騰するということは、余所より乞われるということであり、つまるところは金が海外へ流出する事態に陥ったのだ。
だから、現在の日本国内では金の値段が高騰していた。
恐慌前は1グラムあたり1円50銭であったところを、今は3円にまで上がっている。これを狙わぬ手はない。
日本という国は資源のない国と思われがちだが、こと金に関しては戦国の時代より豊富に産出するのだから。
「我々に当てがあるとして、だからどうだというのですか?」
「トンビに油揚げをかっさらわれますな」
「仰る意味が分かりかねます」
憮然とする要に、直吉は滔々《とうとう》と説明し始める。
「貴方がたと真っ向から対立しているのは海軍と利益を共有している住友財閥です。陸軍と三菱とは表だって対立してはいませんが、友好関係は望めないでしょう。三井は先だっての血盟団事件が後を引き、他の財閥に協調する路線にあります。問題は、彼らがこの国の海運を一手に担っているということです」
いいですか? と直吉は指を立て、問題点を挙げていく。
「海運を担っている財閥と敵対するということは、石炭や石油が、機械を動かすエネルギイが得られないということです。船も鉄鋼も手に入りません。海外産の工作機械も手に入りません。つまりは、何か起業しようにも計画段階で頓挫するということです」
直吉が問題点を列挙するたび、要の危機感があおられる。
財閥とは、そんなこの国の深い部分にまで影響力を与えているものなのか。
そこまで直接的に敵対者を排除しようとする存在なのか。
「そんな直接的な妨害をしては、世間の風聞が……。まがりなりにも陛下勅令の組織に対する妨害ですよ」
「いいえ、やります。先ほど気にかかったのですが、鈴木商店の名を挙げた時に、貴方は渋い顔をなさいましたね? つまり、米騒動の一件を真に受けておられるということだ。あれは三井の意を受けた朝日新聞のねつ造記事ですよ。ねつ造によって、世論を鈴木商店憎しに仕立てあげたんです」
「あれは、ねつ造だったんですか」
言われてみれば、思い当たる節は多々あった。
米価高騰に伴う暴動があった時、鈴木商店は経営不振に陥っていた。
投機的な米買いで荒稼ぎしていたのなら、そうはならない。
「更に血盟団事件を始めとするテロ事件です。あれは一見右翼団体が自由主義志向の政治家や財閥を無差別に狙っているよう見えますが、実のところそうではない。彼らのスポンサーは財閥です。財閥が、敵対派閥の影響力を弱めるために裏で糸を引いているのです」
「そんな、まさか」
「事実です。だからこそ、私には今後貴方がたが辿る未来が手に取るように分かる。まず、新聞を利用した風評被害を受けます。標語はさしづめ"私腹を肥やすため、陛下を騙して金をゆすり取った国賊"といったところでしょう。そして国民の膨れ上がった悪感情に乗るようにして、右翼団体……、ないしは左翼団体のテロ妨害を受けることになります。経営難に陥った貴方がたに財閥が手を差し伸べる。彼らにとって有利な条件を突き付ける形で、です」
要は唸ることしかできなかった。
直吉が言っていることが確かならば、半官半民組織の未来は暗礁に乗り上げているも同然である。
だが、膨れ上がる不安とは別に、要の中に少なからぬ疑念もまた湧き上がっていた。
つまり、目の前の彼は何故このようなことを自分たちに伝えているのか、である。
「我々の見通しが甘いというのは、口惜しい話ですが良く分かりました。して、貴方は何故その話を僕に知らせてくれたのですか」
「貴方がたに成功して欲しいからです。そのための支援はいくらでも差し上げましょう」
「それは話が旨すぎる。理由をお聞かせ願いたい」
要が問うと、直吉は苦虫を噛み潰したような顔で言葉を絞り出した。
「一つには、貴方がたの目指す救民が鈴木商店の掲げる商いの道と合致していることもあります……。だが、それよりも私は彼らに……。一矢報いてやりたい」
直吉の節くれだった拳がぎりぎりと握り固められる。
「私は洋砂糖店の丁稚として商いの道を志し、今までに酸いも甘いも体験してきましたが……。商売とは本来楽しいものなのです。良い商品を作る。彼らがあれを欲しがっている。売れた。嬉しい。そんな生活的で、冒険的な行いこそが商売の王道なのです。"お儲け"を本分とする輩には、これが分からない。だから、我々を潰しにかかってきた。私の命より大事な鈴木商店を、"家"を彼らは謀略によって貶めたのです」
歯ぎしりの音まで聞こえてきそうな悔しがりようであった。
「私は彼らの力を、悪辣さを見くびっていました。だから、負けた。次は負けません。貴方がたと一緒ならば、それができる。商売の覇道に、王道で対抗したい。これは宗教戦争なんです。そして……」
――わしの大事なものを虚仮にした奴らを一族郎党叩き潰してやる。
目の前にある、老いた狒々の絞り出した言葉は要を心胆寒からしめるものであった。
彼の主張を鵜呑みにしてはいけない。
人間というのは正負の二面性が必ずあり、彼も正しいことだけをしてきたわけではないはずだ。
故に財閥に潰される理由も理不尽なものばかりではないだろう。
だが、使えると思った。
彼の私怨と妄執は、新たな組織の強い力になるはずだ。
彼には商売のノウハウがある。政財界の知識がある。要たちにない物を持っている。
だから、彼の手を取った。
「……分かりました。経験の浅い我々を、貴方の知識で導いていただければと思います」
1932年5月の下旬。
"大日本共和商事株式会社"と名付けられた半官半民企業が正式に発足する。
発足当初の構成員は失業した学生と、旧鈴木商店の残党で占められていた。




