契約
困惑するサイに苦笑を漏らしながら、結は、話は中でと言って立ち上がった。ローブを脱いで着せかけるように広げると、翼竜の体はみるみる縮んで人の形をとった。見た目は結と同じくらいの年ごろの少年だ。人懐こい笑みを浮かべて抱き付いてくる少年、基翼竜を、結はローブで包み込むようにして抱き返した。
「それが、翼竜だと?」
「そうです。見た目と中身はあまり一致していませんが」
所変わって王の執政室では、奇妙な光景が広がっていた。しかめつらで机に向かう王と、微笑が崩れかけている僧侶。へらへらと笑う魔術庁長官はいつも通り。長官はさすがに立ち直りが早いなと思いつつ、ソファーにかけた結は隣で一心に食事をむさぼる少年に目を向けた。訓練場で人型になった時は酷い恰好だったが、風呂に入れられきちんとした服を着せられたからか、以前より見違えるようだった。ふとその視線に気づいた翼竜は、にかっと笑ってこれおいしいよ、と結にチキンを見せた。そう、とほほ笑んだ結に嬉しげに体を揺らすと、翼竜は食事に戻った。見ている方が面白くなるくらいの食べっぷりに、王は思わず頭に手をやった。
「絶滅したはずの翼竜が生きていて、しかも異世界に居たなんてな」
「まあ、膨大な魔力を持つ翼竜なら異世界に行くくらいできるけどー」
「それよりも、お二人の出会いについてお聞きしたいですね」
三人の視線が結に向く。それさえも気にせず食べ続ける翼竜を横目に、結は記憶を掘り返していった。
「初めて会ったのは私が7歳のころでした」
その日は雨が降っていた。小学校1年の梅雨のころだった。しとしとと雨が降る中、傘で視界の狭まった結の目の前に、靴を履いていない足が突然現れた。驚いて立ち止まった結だったが、相手は声をかけることも近付いてくることも無い。思い切って傘を傾けた結が見たのは、驚きに目を見開いたぼさぼさ頭だった。少年は一瞬目が合った後ぱっと俯いてしまったが、結はその瞳の色に心を奪われた。ややあって、少年ははっとして結の顔と周囲を交互に見て、くるりと後ろを向いて走り去ってしまった。慌ててそれを追った結だったが、少年が曲がったところで同じく方向転換すると、ばふっと勢いよく生垣に突っ込んでしまった。頬に張り付いた葉っぱをはがしてくまなく観察したが、何の抜け道も見つからずに、その日は仕方なく帰宅したのだった。
「懐かしいね」
大量の料理を平らげた翼竜は、満足げに結にもたれかかった。
「あの日のことはよく覚えてるよ。あの世界では普通、俺のことは見えないからかなり驚いた」
「あの後どうしてももう一度会いたくて、そのあたりをうろついていたらそっちから声をかけてくれたんだったよね」
そうそう、と頷いて翼竜はソファーから降り、床に膝をついて結の手を取った。先程までとは打って変わって真剣な表情になっている。結はそれを怪訝に思う前にすっと立ち上がった。
「あの時は互いに名乗らなかったね」
「そうしてはいけない気がして」
「うん。名を交わせば契約がなされるから」
けいやく、とつぶやく結に、垂れた目尻をさらに下げて翼竜は笑いかけた。彼にとってようやく待ち焦がれていた時が来たのだ。あちらでは彼女の魔力が封印されていたせいで、追ってくるのに時間がかかったし、契約そのものができなかった。きっと彼女は断らない。だが一抹の不安は残っている。歓喜と不安と期待が混じり合って今にも爆発してしまいそうな感情を押し込めて、翼竜はじっと少女を見つめた。
「何の契約なの?」
「色々。契約者は翼竜を呼び出して好きに動かせるし、魔力を供給させることもできる。翼竜側の利益は特にないけれど、強いて言うなら気に入った魔術師とつながっていられるってことぐらいかな」
基本人間大好きだし、波長の合う魔力のそばにいると安心するんだ。難しい表情になった結をなだめるように、翼竜はそっと握った手に力を込めた。翼竜が人間に恋することは無いが、今彼の中を駆け巡っている感情はそれとよく似ていた。契約が嫌ならこちらが偽名を使って名乗ればいいし、傍に置いてくれるだけでいいのだと伝えようとしたところで、結がそっと口を開いた。
「契約、結びましょう」
見つめ返す結は、まだ迷っている風だったが腹を決めたらしい。結局自分がそうさせない限り、翼竜を使役するようなことにはならないだろうと考えた結果だった。それもそうで、契約と銘打ってあるだけで、実際は魔力を繋げるだけである。翼竜が暴走でもしない限り主導権は人間側だが、契約を切れるのは翼竜側からだけなので嫌になったらいつでも逃れることができるのだった。
「じゃ、始めるよ」
途端に二人の魔力が膨れ上がり、絡みつくとやがて混じり合っていった。何やら言葉を交わしているようだったが、外野たちは吹き荒れる魔力の嵐に気を取られたのか全く聞き取ることはできなかった。渦の中心にいた二人は穏やかに微笑みあっていたが、王をはじめ同席した者たちは皆それどころではなかった。
竜使い現れし時、世の太平乱されん――脳裏によぎるのは不吉な碑文の一節だった。