魔力と魔術
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
リビングでまだ眠そうにしている男を横目に、結はコーヒーを淹れるためにお湯を沸かし始めた。異世界と思しき森で遭難中、いきなり現れたこの男に半ば強制的にこの家まで連れてこられてはや二週間が過ぎようとしていた。
あの晩、疑問と不信感でいっぱいになっていた結は男と一緒に行くことを拒んだのだが、腕を強く掴まれたと思ったら、次の瞬間には奇妙な浮遊感を伴って見知らぬ家の中に着地していた。腕を離されたと同時に床に座り込んだ結には目もくれず、男は何やら紙に書きつけていたが、その紙は文字を書き終えた途端に消えてなくなっていた。
その後、シャワーを浴び、男のベットを借りて結が眠りについた時にはもう、夜が明けようとしていた。
***
「今日のご用は?」
「特にない。勉強するならつきあってやる」
「じゃあ、お願いします」
しっかり睡眠をとった結が目覚めたのは昼過ぎだったが、妙な倦怠感が抜けきらずにしばらく横になったまま、街の喧騒を聞いていた。様子を見に来た男に調子を尋ねてられ、薬と軽い食事を運んできてくれたので礼を言って遅い朝食兼昼食をとった。
結が食べ終わるのを黙って待っていた男は、結から食器の乗った盆を受け取ると無言で部屋を出ていった。何か一言くらい言えばいいのに、と思いつつ、ベットを占領している身としては何の文句も言えないためこちらも黙っていることにした。
その後、二人分のコーヒーを持って戻ってきた男に、結はこの世界についての説明を受けたのだった。
***
「とりあえず書き取りからだな」
「…面倒ですね」
「とっととやれ」
男の説明により、ここが自分のいた世界でないことははっきりとわかった。そして、驚くことに、この世界には魔術や魔獣など、ファンタジー好きには垂涎ものの存在があるということだった。ここまでについては結の記憶や推測とも一致していた。受け入れがたい内容ではあるものの、そうせざるを得なかった。
「どうした?」
「いえ、やっぱり似ているなと思って」
この世界では右も左もわからない結のために、この男、ジェラルドはできる範囲で協力してくれるということだったので、結はそれに甘えることにした。何せ、世界が違う上にどう見てもヨーロッパ風の文化様式で、ろうそくやかまどを使っているのだから。現代っ子の結は最初の数日は不便に感じることが多かった。
しかし、その数日間でジェラルドの料理下手が発覚してからは結が毎日台所に立ったため、今では何の不自由もなく家事全般をこなせるようになっていた。
文化が違えば当然文字も違ったのだが、幸運なことに英語によく似ていたため、文系の結にとっては書き取りはやや面倒に感じられていた。
そして、事ここに至って、結はやっと大きな疑問を抱くことになった。
「そういえば、なんで言葉は通じてるんでしょうね」
見上げたジェラルドはあきれ返った表情だった。
今まで気付かなかったのか、と問われ、正直に頷けば、目の前の男は額を押さえてため息をついた。その仕草に若干の苛立ちを覚えた結だが、気付いていなかったのに変わりはないので黙っていた。
「それはお前に魔力があるからだ」
「……は?」
たっぷり間を置いたのち、間抜けな声を出してしまった結を誰が咎められようか。
元居た世界では自他ともに認める現実主義者で、夢のない性格だと言われていた結である。それが異世界に迷い込んだと思ったら次は魔力があるとはっきり宣告されたのだから、とうとう戸惑いを隠せなくなったのも無理はなかった。
一方、きっぱりと結に告げたジェラルドは真面目な顔を崩さず、己をじっと見つめる少女にどこまで話してやろうかと思案していた。
「この世界に魔術があることは話したな。それを扱うのが魔術師、つまり魔力の持ち主だ」
まあそれくらいは解るか、と小さく笑ってジェラルドは椅子に腰かけた。
「この世界では魔力は二種類ある。自身の持つ魔力と世界を作る自然魔力で、魔術は自身の魔力に大気中の自然魔力を混ぜ合わせ練りこんで行使される。魔術にはいくつか属性があって、人によって向き不向きがある。が、上位の魔術師なら特に問題なくどんな属性の術でも使いこなせる」
「相性が関係ないくらいの魔力があるから、ということですか」
結の問いに是と答えてジェラルドの説明は続いた。
「魔術は大体三階級に分けられる。属性が関わるのは中級以上で、それ以下は自分の魔力だけで行使できる」
言葉を切って、結をまっすぐ見据え、ジェラルドはただ事実を述べる。
「お前が今無意識に行使しているのもそのうちの一つ。大まかには翻訳術と呼ばれるものだ」
「え……」
到底受け入れがたい言葉に自分が変な顔をしているのは解っていたが、表情を取り繕うことも、顔を隠すこともできずに、結はただただ困惑していた。原因は自分にそのような力が備わっているというところだけでなく、その言葉になぜか納得している自分が居ることにもあった。
まるで、ちょっとした悩み事を友人に相談して、開き直ってそれもそうかとアドバイスを受け入れるような、言い表しにくいが、要は胸にすとんと落ちるような感覚を結は感じていた。
頭では疑問が渦巻いているのに、気分は嫌にすっきりしていて、これ以上考えるのが馬鹿らしいくらいだった。
そんな結の内心を知ってか知らずか、しばらく黙っていたジェラルドはふと手を伸ばして結の頭を軽く叩いた。
弾かれたように顔をあげた結の頭を何度かやさしく叩きながら、ジェラルドは胸の奥から何やら暖かい感情が湧き出るのを感じていた。
「考えても仕方ないこともある。今は一旦考えるのをやめて、さっさと書き取りの続きをやれ」
きょとんとした表情から一変、不満そうな、憮然とした表情になった結の頭を最後に一度、軽く小突いてジェラルドは立ち上がった。
「それが終わったら茶にでもしよう」
頷いて机に向かった結の口元は、心なしか緩んでいた。