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ガラスと君とマザー・テレサ

作者: 凛音

私が10歳になった頃に引っ越してきた、このまち。

もうすぐ住み始めて8年になるのに、まだ好きにも嫌いにもなれない。

まだ2年間ちょっとしか通っていない私の高校のある街のほうが、ずっと好きだ。

この前行ったっきりの隣町の方が、ずっと嫌いだ。訪れてすぐに嫌いになった。


誰かが言っていたような気がする。ナイチンゲールだったかな。違うか。

「愛の対極は憎しみではなく、無関心だ」と。

ならば私は、このまちを全く愛していないのだろうか。


だって、好きになれるはずがない。

どこもかしこも工事中で、空はいつでもくすんだ青。

歩いている人は常に俯いて地面を睨み、背筋を丸めている。

夕方には黒い塊と化したムクドリが飛んで、ぎゃいぎゃいと不快な鳴き声を立てながら頭上を旋回する。


そんな様子を横目で眺めながら、私はいつも家に帰るのだ。

何の変哲もない、私のまち。私の日常。


それなのに、まるで筆洗いのバケツに絵の具を一滴垂らしたかのように、その小さな出来事が私の日常にふんわりした染みを作ったのは、いつのことだっただろうか。



------------------------------



5月の終わり。中間テストが終わった頃。

駅に、パン屋さんができた。

結構おしゃれだし、パンもまあまあ美味しいので人気が出たようで、お昼時や夕方にはそこは多くの人で賑わうようになっていた。

帰り道、私は何とはなしに、その中をガラス越しにそっと覗くようになった。

お店の中には6人ぐらいが座れるイートインスペースがあって、いろんな人がそこでパンを食べたりコーヒーを飲んだりしている。それは駅の通路に面していて、食べている様子がはっきりと他人に見えてしまう。私は変なところで小心者というか恥ずかしがりやというかなので、そこで食べる勇気はない。


その6席全部が埋まっていることは、あまりない。

いつもどこかしらに、ぽつんと一つ空席がある。端が空いていることはほとんどないけれど。

他人同士隣の席に座るのを何となく嫌がるあの心情が、そこにありありと表れていて、私はそれを見るとなぜかいつも寂しくなった。


一週間ぐらい経ってから、ようやく気づいた。

いつもいつも、必ずそこに座っている男子高生がいるのだ。

必ず、こっちから見て一番左端の席に座って、コーヒーか何かが入ったすごく小さな紙コップをトレイに載せて、静かにベーグルを食べている。

ベーグルはこげ茶色だった。普通のベーグルよりも濃い色。何のベーグルだろう。こんがりと焼けていて美味しそうだったが、それを毎日毎日食べていたら誰だって飽きてしまうだろう。

私は何気なく観察しつつ帰っていったが、彼がベーグル以外のものを食べていることは決してなかった。


男子高生はどうやら野球部らしい。一年坊主には見えないし、活躍中の二年生にしてはちょっと髪が伸びすぎているから、引退した三年生なのではないか。と私は勝手に妄想する。

制服はどこにでもありそうな学ランで、あまりにも普遍的なのでどこの学校なのか私には解らなかった。

顔立ちについては特筆すべきことはない。

でも、地味な学ラン姿と坊主頭で、黙々と黒いベーグルを食べている彼は、ものすごく微笑ましかった。



------------------------------



二週間ぐらい経ってから、やっと気づいた。

男子高生は、いつもベーグル一個しか食べていない。そして必ず傍らには極小サイズの紙コップだ。更に最近気づいたのだが、あの中身はコーヒーではない。あんなに小さなサイズの飲み物が売っているはずがない。ともすれば、多分水だ。お店の傍らに無料で置いてある、あれ。


まさか、あれが夕食なのか。食べ盛りなのに。


ムクドリの大群がユザワヤの上に止まっているのを眺めながら信号を待つ私の目に、不意にじんわりと涙が滲んだ。



さすがに三週間も経つと、男子高生と目が合いそうになるような気がしてくる。

それが怖いので、私はいつも0.05秒ぐらいでお店の中に男子高生がいるのを確認し、0.05秒ぐらいで彼が食べているものがベーグルであることを確認する。

そして、妙な安心感に包まれて家に帰る。

彼と今日も目が合わなかったからなのか、彼が今日もベーグルを食べていたからなのか、彼が今日もお店にいたからなのか。どれかは解らない。



------------------------------



そして一ヶ月が経とうとしたある日、私は偶然帰りに駅でトイレへ行った。

用を足し、のんびりと手を洗って、水滴を機械で吹き飛ばしていた時、ふと気づいた。


――あの人、ベーグル食べ終わって出て行っちゃうじゃん。


脱兎の如くトイレから駆け出す私の行く手に幼児がいたが、構わず走り抜けた。鞄がコンと幼児の頭にぶつかったのがわかった。

火がついたように泣き出す幼児を尻目に、私は改札の外へ走った。


大慌てで駆けつけてみると、彼はちょうどお店から出てこようとしていた。私は咄嗟に物陰に隠れ、彼が去っていくのを見送った。

私は思わずがっくりきてため息をついた。ベーグルじゃないものを食べたかもしれないのに、それが解らなかった。

ストーカーのように、いや最早ストーカーになっている自分自身に、私は気づいていなかった。




その日を境に、どういうわけか彼はぱたりと姿を見せなくなった。



------------------------------



私はそれからも欠かさずお店の前を通り過ぎたが、彼はいなかった。6月という中途半端な季節に、どうして彼がいなくなったのか。それは解らなかった。

さすがにベーグルに飽きたのかもしれない。

引っ越したのかも。受験生(多分)なのに大変だ。

それか、利用する駅を変えたのだろうか。


自分が男子高生をしつこく観察していることに彼が気づいたのかもしれないという可能性は、一番可能性がありそうだったので排除した。


7月の初め。期末テストが終わった頃。

テストの出来に我ながら絶望していた私は、ふと思い立ち、パン屋さんができて初めて、パン屋さんに入ってみた。


「いらっしゃいませー」という高い声。中は相変わらずの繁盛振りだった。

私はトレイと銀色の挟むやつ(名前が解らない)を手に取ると、迷わずにあの黒いベーグルを探した。


……あった。


私は屈むと、こんがり日焼けしたベーグルを大切につまんで、トレイに載せた。

ベーグルの前の名札には、「黒糖ベーグル」と書いてあった。


へえ。

ココアじゃなくて、黒糖か。


私は妙な納得と満足感を覚えて立ち上がると、レジに向かい、「お持ち帰りでよろしいでしょうか」という店員さんの声を遮って小さなトレイに載せかえてもらった。



------------------------------



彼が座っていた一番右側の席に陣取ると、私は水の入った紙コップをトレイに置いて、ふうっと息をついた。

目を上げると、ガラスの向こうを人々が忙しそうに歩いている。それはもう、すごい速さで。

私は手を拭くと、ベーグルを両手で持ってしばしじっと見つめ、そしてそれにかぶりついた。

少し硬めの生地を噛み切り、咀嚼すると、懐かしい柔らかい甘さが口の中に広がった。


「……美味しい」


気がつくと、そう呟いていた。甘さが全然しつこくなくて、風味がいい。なかなか飽きなさそうだ。

ふと隣を見ると、やはり私の隣に一つ席を開けて、女の人が座ろうとしていた。トレイの上にはサンドイッチとアイスティーらしきもの。少なくとも水ではない。

私はやはり若干の寂しさを覚えながら、もう一度ベーグルをかじった。


彼はどうして、来なくなったのだろう。

もう何度も何度も考えて、そのたびに頭の中で堂々巡りになっていた疑問を、私はまた思い出してしまった。


目の前の駅前広場で、キャバクラ店員が懸命にティッシュを配っている。誰もティッシュを受け取らない。

「ただいま、A型とO型の血液が大変不足しております」という切実な女の人の声が、ぼんやりと聞こえてくる。そのスピーカーの方を見る人は誰もいない。

開いたからっぽのギターケースを前に、一人で弾き語りをしている若い茶髪の男の人がいる。その側にいて聴いている人は誰もいない。

みんなみんな彼らを無視してその前を通り過ぎていく。彼らが見えているのは私だけなのではないかと、訝ってしまうほどに。


私はやっぱり、このまちを好きになれない。


喉の奥にこみ上げてきたものを押し込むように、私はベーグルをもう一口頬張った。ろくに噛まずに飲み込んで、喉にひっかかりそうになった。

小さな紙コップの中の水を全部喉に流し込んで、無理やり飲み込むと、涙が出た。

私は、何もかも全部ベーグルのせいにした。



------------------------------



「いらっしゃいませー」


呑気な店員さんの声が響く。

「新商品のアップル・シュトリューデルはいかがでしょうかー」という声も聞こえた。ちょっと興味が湧いた。


その時、隣の椅子が軋む音がした。混んできたな、と思いながら、私は片手に持ったベーグルを見た。まだ輪っかは辛うじて繋がっていた。思わずため息をつくと、私はもう片方の手に持った空の紙コップを睨みつけた。


「美味しくない?」

「別に……」


別にそんなことはないけど。私はそう答えそうになって、初めて我に返った。

驚いて左を見ると、まさかのベーグル男子高生だった。真顔で私を見ていた。

私は言葉を失った。何を言えばいいのかさっぱり解らなかった。隣のトレイの上には、黒糖ベーグルと紙コップがちょこんと載っていた。

とりあえず右手に持った紙コップを握りつぶして床に捨てると、私は必死に平静を取り戻そうとした。


「そんなことないです。割と美味しい」

「あ、そ」


男子高生はそう言ってにこっと笑った。笑うと柴犬みたいだった。ちょっとU字工事の益子に似ていた。

それからは、何も話さなかった。私は驚きのあまりベーグルが喉を通らなかったが、また心配されると困るので死ぬ気で食べた。時々ちらりと横を見ると、彼はまっすぐに前を向いて食べていた。



------------------------------



彼は私に気づいていたのか、気づいていなかったのか。それよりも、どうして来なくなっていて、そしてどうして今日来たのか。それがどうしても気になってしまった私は、柴犬の笑顔を思い出し、思い切って声を掛けた。


「あの……どうして、」

「黒糖ベーグル、あの時なくってさ」


彼は淡々と言った。まだほとんど私が何も聞いてないのに。


「がっかりしたの。わざわざ遠回りしてここに来てたのに。でも今日見てみたら、あったから。……あ、それに君もいたし」


いやにストレートな言葉に、いきなり鼓動が早まった。私は最後のベーグルを飲み込むと、まじまじと益子くんを見つめた。


「……やっぱり、私が見てるの知ってた……」

「もちろん。でも俺も見てたから、まあおあいこだよね」


益子くんは1cmぐらいに髪が伸びた頭をちょっと掻いた。私が呆気にとられていると、益子くんはまた柴犬の笑顔になった。


「毎日、必ずここを通るから、何となく習慣みたいになってた。それに、君が俺の方ちらっと見て、その後すごい速さで視線戻すの面白くてさ」


恥ずかしさのあまり真っ赤になった。ベーグルが胃の中で跳ね回っていた。

益子くんはからからと笑うと、美味しそうにベーグルを噛み千切った。野球部員とベーグルなんて、この上なくミスマッチなはずなのに、益子くんには他の何よりもその黒糖ベーグルがよく似合っていた。



------------------------------



「どこの高校?」

「知らないと思うけど……池袋にある○○女子高校。知ってる?」

「知らないなあ。俺は××高」

「え、そこ野球部あったっけ?」

「野球部? 何で?」


そんな何気ない会話をしながら、私はもう塾が始まっていることに気づいた。でも急ぐ気にはなれなかった。やっとベーグル男子高生と話せたんだ。塾なんてどうでもいいや。テストも散々だったし、勉強のことは考えたくない。


結果として、益子くんは野球部員じゃなくテニス部員だった。それに益子くんじゃなくて藤沢くんだった。それに、ベーグルは夕食ではなく間食だった。


帰り、益子改め藤沢くんは、また会おうなと明るく無邪気に言ってくれた。私は頷いた。

私は彼みたいにパン屋さんに毎日行って、毎日おやつにベーグルを食べることは出来ないけれど、ガラス越しにならまた嫌というほど会える。

それに、今までとは違って、ちょっと目を合わせることも出来るだろう。


ムクドリが狂喜乱舞する赤い空の下を、私は晴れやかな気持ちで帰っていった。






――このまちが、少しだけでも好きになれそうな気がした。










                     Fin.


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