閑話・ベクトルVS赤ん坊
この記述は、イゾウとククリがベクトルの元を発ってからバグが手術可能な域にまで生命を回復させるまでの僅かな間にベクトルが繰り広げた、知られざる死闘の記録である。
ROUND1 VS赤ん坊型ゴーレム『キラージャイアント』
ベクトルは縦長のトンネルを等速直線に降下しながらまず下方に横たわる相手の全長を見渡した。四肢や胴体に対して頭部が大きな体積を占めているのが赤ん坊の身体の特徴であるが、大量殺戮兵器キラージャイアントに至ってはそのアンバランスをかなり強調して作られていることが見て取れる。
ベクトルは館の中庭に掘られた井戸から通ずる地下空間に降り立つと、それに呼応して赤ん坊は目を覚ます。
「あふうぅ、あーぶぶ~」
関節の軋む音すら攻撃になりそうな大音量である。しかし、その機構には一切の故障は無いようで、ベクトルを見下すかのように巨大さを示しながらハイハイの姿勢を取った。恐らく、あまりにも重い機体を支える為にハイハイの運動モデルを参考にしたのだろう。製作者である父、ケミカルの研鑽が伺える。
「ばぶー」
戦闘を起動したキラージャイアントが、丸みを帯びた腕をベクトルの頭上に振り上げた。叩き潰すつもりなのだ。パーに広げられた手はその鈍重そうな外見とは裏腹にさっと速やかに振り下ろされ、地面を強か撃った。
鉄鬼の時と同様に魔王水などで身代わりしても良かったがベクトルは敢えてそれをせず、自らの足を使って駆け足で逃れ、その鉄槌の如き迫撃をすんでのところで躱した。
何故身代わりを使わないかと言えば、あの術は精密な操作を要するためにベクトルは日に二十回程度しか用いることができないためである。キラージャイアントの後に控える残り二体のために残機はなるべく温存していこうという作戦であった。ベクトルは様々な手を尽くして自身の魔力を極限にまで高めているが、それでも強力な魔法を湯水のように使っていればやはり足りないのである。
ベクトルは駆け足のまま薄暗い地下空間に青い髪をなびかせキラージャイアントの死角に回り込むと、呪文を詠唱、二、三秒の合言葉の後にはベクトルが二人に増えていて、そのうちの一人がキラージャイアントの巨体へと向かっていく。
もちろん自身の代わりに分身に行かせたのである。しかし、こちらの術は自らの身体を変質させて身代わりとして使う術とは違い、ただ単に自分の命令に従う人形の召喚なので魔力の消費は少ない。エネルギー換算すればキャラメル一個分にも満たない程度であろう。
ベクトルの分身はキラージャイアントの目前で跳躍し、両の手を合わせて力強く振り上げた。キラージャイアントの拳に比べるべくもない小さな拳が全身の力を乗せて一閃、その背に突き刺さる。キラージャイアントの背中に深い亀裂が走るが、攻撃を加えた分身の方も自身の攻撃のあまりの強烈さに耐え切れず背中を『く』の字に割って臓物を噴出した。当然これはベクトル自身の臓物ではなく、分身の媒体に使われた死体人形の物である。死体への冒涜とも取れるこうした死体改造行為をベクトルは難なくやってのける。魔導師たる者、それぐらいはざらである。
しかし、こうした無慈悲さの一端が無意識の内にイゾウやククリに対しても向けられている可能性が否めない事は問題である。『小を切り大を取る』、ベクトルの考えは合理的でありながらも後にイゾウとパライゾウに反駁されることにも繋がる。だが、ベクトルの強さの側面であることにも疑いはなく、どの世界でも矛盾や衝突は避けられぬものと実感させられるのであった(作者が)。
さて、キラージャイアントの胴に深い亀裂が走るが、本体の機構にはそれ程ダメージはないらしい。滑らかな動きでハイハイの態勢から首を百八十度後方に回転させてその眼が光る。ゴーレムが自動で魔法を行う時の確認光である。
光っただけ。しかし、その瞬間に滞空していた分身の身体は鋭利な斬撃にスパスパと切り裂かれて十数枚の肉塊となって果てた。鎌鼬のようでもあったが、それにしては真空が発生するはずの空気が揺らいですらいなかった。別の術である。痕跡が残らない以上、その術を見極めるのは大変に困難なことである。
しかし、ベクトルはこの術を知っていた。父、ケミカルの術である。境界面と垂直な方向へ微弱な抗力を生じる特異な極薄結界を高速で射出し、分子のレベルで通過した対象を切断する『境界剣』理論の応用である。今回の場合は結界を複数の方向に分散させて数に対する殺傷力を高めた仕様であり、『結界手裏剣』とでも名付けようか。どちらにしろ、結界の出現座標をほんの一つ間違えただけで自分も真っ二つになるという敵にも味方にも危険極まりない術である。
(成程、暴発のリスクの極めて高いこの術もゴーレムに搭載すれば正確かつ害が少ない。いやらしい発想だ)
感心しているベクトルをよそに、キラージャイアントは即座に本体に向かって標的を変え目を光らせた。ベクトルに向かって抽象的な斬撃が放たれる。
それとほぼ同時にベクトルも術の開発者である父への懐かしみの念を込めてパチンとフィンガースナップめいた動きで指を鳴らす。すると、ベクトルの鳴らした親指と中指の境界面からキラージャイアントの物と同じ結界が無数に生成し射出された。当然ベクトルは既にこの秘術は体得済みである。
そしてさらに次の瞬間、ベクトルとキラージャイアントの光る目玉との間の空中で、非物質的な境界たちが直線で交わる。この非物質的なパラドクス衝突によって双方の不安定な結界は定義を乱され消滅、相殺された。
今の一瞬の抽象的な衝突を敢えて説明するならば『ドラえもん』の『通り抜けフープ(空間を捻じ曲げて壁に穴を開ける超科学の輪)』を二つ、鎖のようにそれぞれを交わらせて起動した時にどうなるかを考えてみてほしい(恐らく『ドラえもん』の世界では企業が製品にこうした状況で不都合や矛盾が生じないように様々な場面に対応した定義プログラムを組み込んでいるだろうとは思うが、今は問題ではない)。
作者の至った答えは単純で、「どうなるか全く見当がつかないから消える」である。コンピュータの演算式と同じで、結界が不安定なものでしかありえないならもうバグって相消滅してもらう他はない。結界の強度を生成のために使用された魔力の量や定義媒体から議論するのも魔術好き(似非理系)にとっては楽しいものだが、そんなことにさして意味があるとも思えない。ありえない(考えつかない)から消滅という事で、まあいいじゃないか。
さて、下らない議論とは打って変わって真剣に目を光らせたりフィンガースナップを打ち鳴らしたりして結界を投げつけあう両者であったが、先にベクトルの方が疲労の色が見せ始めた(指をとにかく連続で速くたくさん鳴らしてみると良い。物凄く疲れるから)。その上、ベクトルの方向を凝視する頭部だけを残してキラージャイアントの首から下が滑らかに新たな態勢を取り、ハイハイによって一気にベクトルとの間合いを詰めた。キラージャイアントの巨大な腕からしてみれば優に必殺の間合いである。
ベクトルは指を必死に鳴らしながら死の範囲から逃れようとするが、キラージャイアントの両の掌がベクトルを囲って退路を塞ぎ、その直上に移動した巨大な口がガポっと開く。キラージャイアントはそこから異臭を放つ溶解液をベクトルに垂らしこむ。赤ん坊の涎をイメージしているのだろうが、悪趣味の一言に尽きる(余談だが、妙に存在や空間を操る高等魔術を濫用してみたり劇薬を相手にぶっかけたりしたがる所が親子っぽい)。
しかし、黙ってやられるようなベクトルではない。ここで例の身代わり術を一回使い、キラージャイアントの背後に音無く自らの身体を置換した。溶解液は身代わりの魔王水と混合して発煙し、キラージャイアントの視界を煙に巻くが、まだ索敵には生体探査センサーが残っている。グルンと態勢を後ろ向きに変えてベクトルを捕捉するが、その一瞬の隙が明暗を分けた。
『結界手裏剣』の一閃。一瞬の隙を突いて放たれた最大級の結界がキラージャイアントの首を切断、フィンガースナップの乾いた破裂音にだいぶ遅れて地面と首の重たい激突音が響く。
決着。ベクトルの父、ケミカル=モリアの遺した『三体の護衛体』の1頭、『赤ん坊のキラージャイアント』を倒し、ベクトルはこの瞬間キラージャイアントの正式な保有者として魔法的に認定された。そう、この死闘はケミカル=モリアがベクトルのために仕掛けた新兵器を得るための試練なのである。
倒して手中に収めるべき護衛体はあと二つ。ベクトルは、父の残した最終兵器を見事手中に収めることができるのか。といったところである。本当はこんなことをしている場合ではないのだが、ベクトルはとことん回り道である。