閑話・怪樹海イエス
バアキから遥か北東、呪いの雨と死の瘴気、そして魔獣の遠吠えが立ち込める『怪樹海・イエス』はかの初代魔王縁の地として知られている。彼は死の床からおぞましい執念で立ち上がっては何度か腹心たちと密かにここを訪れ、後世の魔界に何か(恐らくは彼の用いた大魔法の数々)を残さんとしていた、と、伝説されている。
しかし、その謎を追い求めた者は数知れない中、怪樹海の全容を解き明かしたとされる者は一人としていない。例え宇宙服を着こんで突入していったとしても防護服を透過する呪いと幻が行く手を阻む、堅牢で毒々しい魔の砦だったからである。
その怪樹海から南に向かっていちばん近い町『アオキ』を立ち寄った旅人たちが、酒場でこんな話をしていた。バアキでの事件の日から、一週間ほど後の事である。
「鼠の大群が怪樹海、あの魔境にどっと雪崩れ込んでいくのを見たのよ。やよねぇ、初代(魔王)様の呪いだったりとかしたら嫌だわぁ」
そう言っておおげさに身をよじらせている魔物は、鱗で埋め尽くされた腕を艶めかしく自らの体中を這わせて怖がる素振りをした。その滑らかな動きは彼女の常人ならざる蛇染みた間接機構によって成り立つ見事なものであったが、魔界ではそれくらいの事は大したことではない。皆魔物だからである。
「へえ、あんなところに見物に行くなんで言い出すからどうなるかと思ったけど、なかなか面白そうなものが見れたじゃん。私も行けばよかったなあ」
対するはナメクジのように半透明の身体を粘液で包んだ男性の魔物である。その口から発せられる標準魔界語の流暢さとは裏腹に、彼の体の表面から分泌される粘液は淀んで温い匂いがこちらまで届いてきそうである。
さて、今の魔界には万を超える種族の魔物が氏族として存在している。十人十色の彼らに加えてさらに例の『一種族一妖怪』の様な突然変異種が関わりを持つことで彼らの遺伝子は変幻自在に姿を変えることができる。雑種と言ってしまえばそこまでだが、そこには地球にない無限の進化の可能性があると言っても過言ではない。三怪人の一人であるゲンナイも、この摩訶不思議な『魔物』という生物の在り方をだいぶ研究したとされる。
つまりは下世話な話だが、見た目は全く異なる生物種に思われる二人の旅人も『魔物』である以上は原則として有性生殖が可能であるという事をついでに言いたかったのだ。女性の魔物の初めての登場だったための余談である。
怪樹海の話で盛り上がる旅人達に近づく者があった。
「お二方、たくさんの鼠を、見たんですって?」
男が話しかけてきた。羽毛でできた長袖の白衣に鉄仮面という奇怪な出で立ちをしている彼は、何か訳知りの様な素振りで二人の旅人に詰め寄った。
「しかも、怪樹海・イエスに、向かって?」
少々興奮気味で、息が続かないのか言葉が切れ切れと呟かれる。
「なによ、あんた」
女の方がぶすっとして返した。
「アイヤ、失礼。わたくしの、同志に、鼠を、やっている者が、居まして、彼の子供かなあ、なんて、思いまして。でもいいです、きっと私の、思った通り、ですので……」
鉄仮面はそれだけ言うと旅人達の返答を待つまでもなくふらりと立ち去ってしまった。失礼な奴であったが、二人の旅人は彼が居なくなって正直ほっとしていた。ああいう唐突でへんちくりんな態度で接してくる輩に限って強力で残虐な魔物だったりするものである。適当に相槌を打ってその場をやり過ごすのが一番に違いない。
「あいつ、一体なんだったのかな?」
彼らの会話は再び怪樹海の話に戻り、やがて、彼らの今後の旅先の話題へとシフトしていくにしたがって鼠と鉄仮面は記憶の砂漠に埋もれ、再び語られることは無かった。
さて、今回の主役の一人はこの鉄仮面である。この鉄仮面もその足で噂の怪樹海・イエスに訪れていた。しかし、先程の二人は外からの見物であったのに対して、どうやら彼はその中へと入っていくらしい。自殺に等しい無謀であるのに饕餮模様の鉄仮面から笑みが漏れる。
怪樹海イエスは巨大な窪地、円形にくり抜かれたクレーターが魔女の鍋のような生態系と地形的堅牢さを演出していた。そのため、先程の旅人達のようにその窪地の淵から見下ろせば大したリスクを払わないでも怪樹海全体を俯瞰することができるのである。
しかし、長年の探究によれば、どうやら外から見渡すことのできる怪樹海というものはそのあまりの深さを覆い隠す表象に過ぎず、その本質は何者かによって穿たれたとてつもなく深い大穴なのだという。古い文献にいくつか『魔王の谷』という正体不明の地名の記述があるのだが、怪樹海とは、その『魔王の谷』を樹海でカモフラージュしたものなのではないかとまで言われている。ただ、その目的や攻略方法、何が隠されているかを探る確実な方法は実際に中へと分け入ってみる他はなく、誰もそれを成功させられないのでいるのである。
鉄仮面の男はイエスへの淵に立つと自ら仮面を外し、何やら呪文を唱えた。すると仮面はその饕餮模様を残したまま変形し、ポリバケツなどよりは一回りは小さいであろう小振りの鉢となった。
「ほら、そうれ」
最早鉄仮面の男ではなくなった鉄仮面の男は鉢をポーンと樹海の中へと放り投げると、絶技!、恐るべき速度で自らも淵から飛び出し、鉢の口へと飛び込んだ。そして不思議なことに、容積をはるかに超える男の身体の全てが鉢へと吸い込まれ、鉢だけが奇しくも怪樹海の中へと飛び込んでいった。
しばらくは様々な時間、場所での出来事を気ままに書いていきます。気ままに書くので予告なんてできません。というわけで、次回予告はしばらくお休みです。