プリンセス『 』
「四六にアリスだな。そこのバテレンが今なお生きていると言うのならば、ここで首を取る」
道中コントンとの戦いに身を投じ、バテレンのけしかけた鎧武者との一戦を越えて彼はどうにかここに立っていた。既に疲労はピークに達しており、最初の言葉で二人が四六とアリスであるかを確認したのは目が霞んでどうにもはっきりと視認できなかったためである。
四六は何かをネクロに言いかけたが、そこにアリスが割って入った。ここで四六が下手なこと(久闊を序すような事)を言おうものならバテレンのミイラがよみがえって四六を始末してしまいかねなかったからだ。
アリスは愛するバテレンの惨状から出た涙を引っ込め、代わりにネクロを蟲惑する魔の涙を分泌して言葉を返した。
「あなた、死神を倒したのね。凄いわ、想像以上に強くなったのね」
「いや、あの男は対して強くなかったが…… しかし、あの化け物は一体なんだったんだ?」
「秘密。それはそうと、ふふふ、あなたのご主人がバテレンをこう(ミイラ化)しないと生きられない体にしちゃったのよ。責任をお取りなさいよ」
およよよ、と涙を流すアリス。
「どういう事だ?」
「そういう事よ。ふふふ、知らされていなかったのね。魔界に来ても何の進歩も無いわよねぇ。相変わらず武術一辺倒で、利用されてばかりの、可愛らしい、坊や♡」
アリスの挑発にネクロは何も答えず、黒騎士の槍を構えた。
「私を殺すの?」
アリスはネクロとバテレンの距離を2:1に内分する点となって微笑んだ。
「出来ないわよね。バテレンですら殺せない私を、あなたが殺すだなんて。あなた、バテレン以上の人でなしになるおつもり?」
アリスの笑みは妖艶で、揮発する涙から催淫ガスでも発生しているのではないかと思わせる引力が放たれていた。
ネクロは知っていた。今目の前にいるアリスの中には清廉潔白のもう一人のアリス、バテレンの愛娘が眠っている。彼女たちを取り巻く事情にネクロはそこまで詳しくなかったが、バテレン憎しの気持ちだけで到底斬り捨てられる相手ではなかった。
そしてそれだけでなくもちろん、実力においてもアリスはネクロに斬られない算段があった。
「私ね、今封印がだいぶ解けてるからこんなこともできるの」
途端にアリスの身体は金色に発光して地上の星となった。その光は聖なる呪いとなってネクロを照らし、動きを封じる働きを持っていた。まるで時が止まったかのようにネクロの身体はフラッシュに包まれ、構えられた黒騎士の槍は手から零れ落ちた。
「元人間の魔人でも、結構くるモノがあるのではないかしら?」
ネクロは霞んだ眼をかっと見開いて、眩い光の中心を尚にらみ続けた。
「お前が強大な魔物の亡霊だという事は聞いている。だが、この聖なる輝きは……?」
得てして魔物というのは邪悪なものとされてきた。魔物は『魔性の物』であるから原義的には聖でも邪でもないのだが、いつしか人の作りだした聖という概念が魔性を半ば放棄したことによって魔性は邪と強く結びつくこととなった。勇者と魔王の対立という概念もまた同様の変遷を経ており、今やこの二項対立は『魔性と人間の戦い』というより『聖と邪の戦い』と言った方がしっくりくる次第である。その点では今回バテレンが勇者側に加わった影響で勇者側の勢力も大分聖と邪を綯い交ぜに帯びてはいるのだが……
ネクロのこの認識はアリスの機嫌に障ったらしい。アリスからの発光が不気味に霞んでいく。
「魔人のあなたが、聖と邪で魔物を語るなんておこがましいわ」
アリスは冷たく言い放つと霞んだ光はむせ返るような霧に変わってネクロを責め立てた。粘液をそのまま吹き付けられたような感覚とその臭気、そして毒性は魔界の夜特有のじっとりとした閉塞感を数百倍も増幅した不快となってネクロにまとわりつく。奇奇怪怪の無限幻術に勝るとも劣らない嫌がらせのための術、その極致であると言ってもいい。アリスは快楽をコントロールする魔女であるから、そのまた逆も然りなのである。
ネクロは最早眼も鼻もきかないまでに疲労しきっていたが、それでもなおアリスの霧責めはネクロの精神を限界まで追いつめた。
「やめろ、やめてくれ……」
ネクロは耐えかねて口と鼻を押さえて転げ回った。ほとんど毒ガスを吹き付けられたのと同じようなものであるから武人として多少無様でも仕方がない。
アリスは封印が弱まっていることが楽しくて仕方が無いらしく、(横で干からびかけているバテレンの事など忘れたかのように)ネクロの周りをスキップしながらお喋りをした。
「私は魔物だけど、亡霊ではないの。それにね、本当はお姫様なのよ」
アリスはちょこんと立ち止まってスカートの端を摘み上げ、お辞儀をした。
「ふ、ふざけるな」
それだけ言うのにも霧のせいで一苦労である。
「ふざけてなんかないわ。そうねぇ、じゃあ、私の本当の名前教えてあげる」
アリスは平気で不快の霧に分け入ってネクロの耳を一舐りし、短く簡単な発音の単語を何度も口から発した。
「私の名前は『 』よ、『 』。信じられないでしょうけど私はこの世界のお姫様」
アリスは自らの頬を両手で何かを確かめるかのように押さえ、一昔前のうら若き乙女が自分の美しさの盛りに恍惚と自惚れる時によくやるポーズを取った。
アリスのあざとい挙動に打って変って苦しむネクロの呻きは事実の衝撃にハッと止まった。『 』という名前の響きはネクロの知るものであった。
「ふふふ、もういいわね」
ネクロを取り巻く不快な霧は薄らいでいった。単にアリスがネクロいじめに飽きたのである。ネクロはアリスに発言を許されたとも取れる。ネクロは息絶え絶えに言葉を紡いだ。
「ならばお前は、お前は……。どうしてそんな奴がクルセイダーなんかに、バテレンなんかの下に、答えろ『 』!」
最早半死人のネクロが凄んでもアリスは眉一つ動かさない。
「驚いてくれて嬉しいわ。でもね、これくらいの事で驚かれても困るの。バテレンぐらい無反応を貫ける男じゃないと勝負にもならないわ」
言い終わるか否かというタイミングで霧は完全に晴れた。呪縛から解き放たれたネクロはすかさず槍を手に取って『 』に追撃を加えようと身構えるが、しかし、ネクロの視界が正常に戻るときにはすでに『 』も四六も、バテレンすらも姿を完全に消し去っていた。したい放題されてまんまと逃げられた。
「幻術か? アリス、いや、『 』め、一体何を企んでいる?」
呆然と立ち尽くすネクロの耳元で先程の囁きと幼い口に舐られた感触が心地よく、かつ不気味に響いていた。それは幻のようでもありながら、しかし、現実であったのだ。
次回予告
大黒同盟の宴会は夜通し続く。そうそうたる面々の囲む卓の中心ではある男の芸が披露されていた。何とそこに横たわっていたのはククリとイゾウで……
次回『魔王の懐刀』第九十二回、『大黒天の友達』。来週も見てね!