アリス・アナザー
時は遡ることおおよそ一日。イゾウ達がコントン射手部隊の矢に倒れてから半日、ネクロがバテレンと遭遇してから半日だけ後の事である(つまり、ククリは半日ではなく一日半もの間気を失っていたのだ)。
バテレンの一行はネクロとの遭遇を経てバアキへの道を進んでいた。しかし、その中に例の鎧武者は居ない。ネクロと彼らとの間にそのあと何が起こったのかは定かではないが、ただ、バテレンの顔に張り付いた自信たっぷりの表情だけは揺るがないでいた。
そんな彼らは何をしに魔界に来たのか。大師匠殺しの一件の余波の冷めやらぬ昨日今日でまた潜入を繰り返すのである。余程の用向きであることは察せられるが……
数回の潜入の経験から比較的魔界の地理に明るい四六が口を開いた。
「旦那、そろそろバアキが近いです。この辺りからはちょくちょく魔物にも出くわします。どうか、そろそろ、『擬態』の方を……」
人魔ともに、互いの世界を探り合う時には当然相手の姿を模したスパイを用意するものである。そのための技術のうちの一つが『擬態』という概念に総称される。一口に『擬態』と言ってもアナログなものからマジカルなものまで多種多様である(現代地球ではデジタルとアナログが対極にあるが、こちらの世界ではアナログとマジカルが対義語にあたる)。それこそ現代地球にもあるような遁甲術から、カメレオンのように皮膚の色を変えるものまである。
そして、バテレン一行が用いたのはその中でも比較的インスタントに魔物に化ける方法、『人工魔導皮膚』の技術である。これは科学的(錬金術的な色合い濃し)に生成した合成樹脂を皮膚のように体に纏い、魔法で加工することによって人間らしい特徴を隠す(この世界においては魔物は多様過ぎて、こういうのが魔物らしいと言える容貌の定義とは「人間らしくない」という事である)技術である。この方法ならば魔法単体よりも魔力の消費が抑えられ、尚且つただ合成の皮をかぶるよりも高い偽装能力が実現できる。そういった意味ではアナログとマジカル両方の良さを選り抜いた技術とも言える。
しかし、バテレンはもしかしたら人間の姿のままバアキに突っ込んでいくのも面白い、などと心の中では思っているかもしれない。危険を訴える小心者の四六の言う事など基本的には聞こえていないのだろう。しかし、バテレンのこの余裕も、それ以上の死地を幾度も闊歩した揺るぎない経験値がそうさせるのである。
「この前と違って今回は『人間』として予約してある。先方もこの姿の方が見つけやすいのではないか?」
バテレンは四六をからかうようにそう言って懐から何やら書類を取り出した。そこには赤いインクで紋章の様なものが描かれていたが、割符なのだろう、途中で途切れてしまっている。
まるで下駄箱に入っていたラブレターでも見るかのようにバテレンはその割符を手に遊ばせて言う。
「蓋し大黒天というのも案外食わせ物かもしれんが、まあそれも面白いだろうな。なあ、アリス」
呼びかけられたアリスはしどろもどろになりながらも
「は、はいっ!」
と元気よく返事をした。そう、元気よく……
ん、なんだこのアリスは?
そう、こうして懲りずに(?)再び魔界に潜入しているバテレン一行であったが、我々が知る彼らとは一つだけ違う点があった。実はネクロに遭遇する前からそうだったのであるが、それは三怪人が一人、アリスの様子である。
今までは人をくったような不敵な笑み、もしくは淫靡な媚笑を身につけた罠のような妖女であった彼女が、この時は違った。質素な旅装に身を包み、とても愛らしい自然な表情でバテレンの傍らに控えている。そして何より、彼女の醸し出す気品が段違いであった。咽るような媚薬の臭気や呪術のけばけばしさを取り払った今の彼女は、真に少女たる健全さ(?)に満ち溢れていたのだ。『健全』、今までのアリスの対極である。
もしもこれすらあの淫魔の演技であったのなら戦慄すべきである。バテレンにさえ色を仕掛けようとした女にはとても見えないのである。
バテレンはそんなアリスに
「お前にも策謀を振るい、魔物とも渡り合わねばならんだろう日がいずれ来る。その時にはあのアバズレも私もいないだろう。学べよ、アリス」
と語りかける。彼の言う『アバズレ』が誰を指すのか、想像に難くはない。
「はい、お父様」
と丁寧に返事をするアリスに対して
「よろしい」
と、何ともないような顔で言葉を口にするバテレンであるが、そこには一抹の寂寥と父親の大きさがあったように思われる(そして、それを見た四六は気味悪がって余計にバテレンを恐ろしく感じていた。バテレンが自分の死を予言するなど恐ろしい冗談でしかない)。
さて、さらりと流したが、父親。バテレンがこのアリスの父親だという。それは二つの顔を持つアリスの謎の本懐であり、怪僧侶バテレンが心に唯一残した人間味の綻びであった。
「お父様、あの……」
アリスは物悲しい顔をして父親の顔を見つめた。
「あの女、今も泣いてるんです。ひどい事をされて悲しいって……。ですから……」
『ひどい事』とは、恐らく教会でのベクトル迎撃におけることである。あの時の攻撃行動が一体どのような意味を持っていたかはいまだに不明だが、アリスが今こうしている事はそれに起因しているのだろう。
バテレンは斜め後ろのアリスを敢えて振り向かなかった。
「慰めてやれとでも? あやつのせいでお前は今も不自由しているのに、なぜそんなことを言う。せっかくお前がこうして出て来られるのだ。今はあんな女の事など言うな」
バテレンが「あの人のことは言わないで」などと未亡人若しくは浮気者染みたことを言っているのはこれまた意外である。今ここにあるアリスは、言葉と術に覆われ隠されたバテレンの人間性に光を当てる太陽のような存在だったと言えよう。
だが、不思議なものである。ここにおいて現れた二人目のアリス、バテレンの娘のアリスはその身の内側にもう一人の淫靡なアリスを抱えているという。もはやここまで明かせば謎でも何でもないが、彼らの因縁の原点を語る日もいずれ来るだろう。
バテレンの厳しい語調に年相応のしゅんとした反応を見せるアリスであったが、やはりバテレンは振り向かない。
「これは私と女との問題なのだ。いずれ決着はつける。必ずだ」
いつになく真剣な眼差しを細い瞼から覗かせ、バテレンは頭の上の異国風頭巾の位置を直した。
このようなことがあったからなのか。この半日後にバテレンはアリスの提案に従い、見かけた壊滅状態の商隊を助けることにしたのである。
次回予告
焚火を囲んでの会話に潜むバテレンの嘘と鎌。
ネクロの安否は、そして、彼の運んでいた荷物の正体とは?
次回『魔王の懐刀』第八十四回、『バアキ』。来週も見てね!