イゾウの旅
一日(無為に)過ごせば勝手知りたる我が家の如し。イゾウは(分不相応に)ハイスペックな魔人の脳味噌と肉体によってダンカの町を意識の支配下においていた。いわゆる「俺の庭」である。
所狭しく並ぶ雑多な市やそれを結ぶ交通、都市で行われる物資と情報の流通システムや風俗をなんとなく理解(むしろ知覚に近い)してしまったイゾウは前述の通りククリのささやかな嫉妬を買ったわけだが、イゾウ自身は今まで見えなかったものが視えることに生理的な嫌悪感を感じていた。見えないものが見えるという事は今までと違ったものの認識を強いられることであり、極端な例を挙げれば奇奇怪怪と遭遇した時と同じような気分である。
そんなイゾウのけだるい心境に対して心中の魔剣の精霊は、
「慣れろや」
とつっけんどんに呟いていた。魔剣の爺さんは結局覚醒してからまだ何も斬っていない次第であり、鉄鬼達やら奇奇怪怪やらを無意識の頃にずばずば斬っていたのがずいぶんと昔に感じられた。異文化理解などどうでもいいから斬ってくれ、と、自分を使いこなすための理学はイゾウに押し付けたくせに言い出す始末である。
イゾウはこれに対して曰く、
『魔剣の爺さんよお、剣なんだから斬りたいっていう理屈は分かるが、俺はもうただの人斬り包丁じゃあねえのよ(たぶん)』
魔剣の精霊はイゾウが単純バカ一代であることを魂のやり取りでよく承知していたから、この期に及んでの意外な反撃に面食らった。ククリと同じで、イゾウをなめていたのである。
剣は未熟な人の気を逸らせるように、魔剣もまたイゾウにささやく。
「じゃあ貴様は何のためにわしを握っているのだ?」
『分からんね。いや、もちろん助けてくれたベクトル殿への忠誠は間違いねえ、絶対だ。あの方は天下を取る、最悪でも、俺が取らせる』
今までの戦績や経験から言えば自信過剰としか取れない発言であるが、魔剣にはイゾウが本気なのがよく感じられた。奇奇怪怪の幻術地獄の中で、イゾウと魔剣の魂はほんの少し混合していたのである。
「だからって斬らなきゃ貴様がわしを持つ理由もないだろう」
『いやいや、斬る。だが、頼まれたからとか、あの人のためだとか、気に入らねえからだとか、そういう理由で斬るのはもうやめにしたいのよ』
イゾウはイゾウなりに人斬り包丁からの脱却を目指しているらしいが、それは未だ逃走の域にあり、未熟であった。魔剣はイゾウの見捨てられた過去を知らないため、イゾウを影のように追う奴隷根性の核心を見抜けないでいた。
「は?」
と思うのも仕方がない。
個人に目覚めつつあるイゾウ、その余波を魔剣にも及ぼそうとする。
『逆に聞くが、あんたは何のために剣をやる?』
「斬るため」
斬ることは剣の快楽であり、レゾンテートルである。古来から続くその機能が今の剣の持つ意味の根底にある。しかし、イゾウは満足しない。
『何のために斬る?』
「持ち手が決める」
あるいはイゾウの持ち出した個人としての目覚めより、はるかに深遠な哲学が魔剣の刀身には息づいていたのかもしれない。自我の構造が根本的に違う異種族の間の話であるから易々と断ずることは出来ないが、少なくともそんなものは魔剣にとっては不要のものだったらしい。
イゾウは少し熱っぽくなった。こんな込み入った話は今までしてこなかったのかもしれない。
『そこ。そこを俺は自分で決める。自分で斬る理由を見つけられる剣。どう思うよ爺さん!』
そこに、魔剣はかぶせるが如く冷たい言葉を刺し入れた。
「そんなものはない」
魔剣は剣の立場として見解を淡白に述べただけかもしれないし、イゾウに強く反発して言葉放ったのかもしれないが、とにかくこの返事がイゾウの出鼻をくじいた。確かに、剣はどこまでいっても剣という機能の呪縛からは逃れられないのかもしれない。所詮は誰もが『機能』としてしか価値を持っていない、確かに、そうかもしれない。
『爺さん、俺は……』
魔剣の言葉に少々うつむき加減であったイゾウは今度は遠くの彼方を向いてセンテンスにならない言葉をつむいだ。心ここに在らずの相であった。
(イゾウが放心状態で)これ以上会話をしても進展がないだろうと判断した魔剣は、もう何も言わなかった。あくまで自分は剣であるから、必要以上はしゃべらない。
魔剣の精霊は精霊でありながらも、持ち主によって千差万別の自我を手に入れる鏡のような存在である。結局魔剣の精霊とはいっても持ち主と魂を少なからず混線している存在である以上、今の会話にはイゾウの自問自答としての成分が色濃く含まれていた。イゾウは死の瞬間から抱えている宿題にずっと頭を抱え続けているのであり、魔剣との今のような会話も自問自答の形式がほんの少し変わっただけに過ぎなかったかもしれない。あるいは、精霊の翁の姿はイゾウの死後硬直して強張った心の生き写しか。
イゾウは旅に出なければならないと言った、今は亡き大師匠。果たして(バテレンには通じなかった)その鑑定眼はイゾウの精神の病理をどこまで深く見抜いていたのだろうか。
疑問は多くあれど、未だイゾウとククリはただの護衛(以下)。旅は彼らをどのように変えていくのか、乞うご期待、と言ったところである。