脱出
倉庫の中にはバテレンとアリスの二人。とは言っても誘惑バトル第二回戦が始まるわけでもなく、アリスは未だ地面に伏したまま動けないでいた。あたりに転がっているベクトル八人衆の死体を踏み越えてバテレンはアリスの眼前に迫った。
バテレンは常の取り繕った作り物の口調ではない、驚くほど単調であっさりとした語調でアリスに問いかける。
『お前がここまで隙を見せるとは、余程の男だったのだな』
男の嫉妬は女のそれよりも遥かに陰湿であるというが、バテレンの抱いている感情はそれとは全く異質である。ベクトルをたらし込むチャンスをまんまと潰されたアリスではあったが、何時になく真剣なバテレンに対してかえっておどけることしか出来なくなっていた。怒りすらバテレンの無言の迫力によって霧散霧消してしまったのである。
「貴方ほどではなくてよ」
と、いつもの営業スマイルを無理やり作っては色気の怪光線をバテレンに向けて射出した。苦痛で笑顔はゆがんでいた。
『ほざけ、今のお前が何をした所で興醒めだ。いいから早く消え失せろ』
「いやだと言ったら?」
ベクトルの先ほどの返答とかけて言っているつもりらしいが、バテレンの逆鱗に触れてしまったようである。その言葉を吐き終わるか否かというところでバテレンの放つ最大の「術」に精神を叩きすえられてしまった。アリスの両目が焦点をフラフラと宙に舞わせ、やがて光を失っていった。
「フフ、馬鹿な人」
軽自動車に跳ね飛ばされるような衝撃の中でアリスは確かにそう言って意識を絶った。
すると、アリスを常にねっとりと包んでいた粘着質の魔力の層が消え、いわゆる『普通の人間』の気配へと変貌した。ナメクジに塩をまいたような粘着質の収まりようである。バテレンはこの経過をみてやっと胸を撫で下ろしたらしく、ピンと張った迫力が空気へと解けてゆく。
バテレンはアリスの体を抱え上げ、部屋を出て行った。その後姿は寝入った子供を寝室へと運ぶお父さんのように力強さにと慈しみに満ちていた。ここでバテレンの今までの行動と辻褄が合わないとお思いになるかもしれないが、その理由はいつか分かる。
さて、後に残るのはベクトルの八つの死体のみであるが、ベクトルがここで終わるはずがない。
バテレンがアリスへの対処に付きっきりでなければ彼らの死体が抱える一つの違和を気づくことが出来たかもしれない。しかし、抜け目のないバテレンにそれを気付かせなかったのは単にアリスだったと言える。この時バテレンは魔物が死んでいようと生き延びていようとかまわなかったらしい。アリスとバテレンの複雑に絡み合った関係がなければやはり、この教会で本当にベクトルは骨を埋めることになっていたのだろう。
では、先ほど提起した一つの違和とは何の事だか分かるだろうか。もちろん作者がヒントを出していたりはしないから読者に分かるはずもないので、勿体つけずにずばり、『拳銃』の行方である。
ベクトルが盗み出した拳銃をバテレンは『術』によってベクトルの懐に確認していた。しかしどうだろう。バテレンはアリスにまつわる物事に夢中で八人の内のどのベクトルが拳銃を懐に握っていたかを確認しそびれていた。そして、転がっている死体のその誰もが拳銃を持っていないことを知り得なかったのである。初歩的なミスであり、バテレンにしては珍しい。
帝国、ひいてはバテレンにとって拳銃の情報の流出はもちろん望ましくないことである。それは魔界に対してだけでなく人間界の他勢力に対してもである。
実は、拳銃というのはこの世で全くと言っていいほど存在を知られていなかった(ベクトルの無知な反応ももっともである)。というよりも、元々存在しなかったのである。魔界で拳銃が流行らなかった理由はこの前も述べたが、既に拳銃よりも強力な戦略手段を人魔双方が確立した時代であったからであり、そのためバテレンはこのときのミスを後に深く後悔することになるかと思われたが、現実にはそんなことにならずに済んでちょっぴり安心することになるのだ。
現在の我々の世界において拳銃は人殺しの機能においてトップレベルの地位を得ているが、それが他の世界で通用すると思っては大間違いである。よって、ベクトルの諜報作戦も結果としては『拳銃』というおもちゃをベクトルに取られてしまったということに過ぎないのであった。むしろアリスに対して挙げた成果を見ればバテレンの方が結果に満足しているかもしれない。
話が拳銃にそれたが、結論から言えばベクトルは拳銃を持って脱出していた。いわゆる密室トリック(違うかも)である。
物語というものの都合上ベクトルの生還に関してあれこれとここで説明しなければならないというのが筋なのだろうが、そのネタ晴らしをするとベクトルがせこい奴だという印象を読者に与えてしまいそうなので敢えて割愛する(タネを考えていなかったわけではない)。術師はネタ晴らしをされるとその途端に魅力の核を失ってしまう生き物なのである。
まあ、先のような言い方をすると読者諸君は作者を疑うかもしれないが、そもそも私が親切にこんな事を言い出さなければ読者諸君は詳細不明な部分を、
「『よくわかんないけどすごい術』を使ってベクトルが上手く逃げおおせた」
ということで納得して物語を読み進めてしまっていたことだろう。とは言っても作者は別にそれがいいとも悪いとも思っておらず、ただ、
「読者は頭の中で描写を補完しているのかなあ」
と疑問に思ってここに書いただけのことなので、気にする必要はあんまりない。
そんな下らないことはいいとして、一端場面は切り替わるのである。