次の日
一晩が明け、昨晩の異様な興奮から覚めたイゾウ。
新たな主、ベクトルの魔法研究所の一室で目を覚ますと、彼はそれが夢でなかったことを再確認した。もしかしたら毒を飲んで死に、異世界に流れ着いた全ての流れが一夜の夢だったという一抹の期待と不安も無かったわけでない。
狂喜の余韻が真紅の身体を痺れさせていた。
「イゾウ様、お師匠様がお呼びです」
鬼の児、ベクトルの弟子ククリである。彼の鬼の姿を見て、イゾウは昨晩からの異常事態がどうしようもなく現実のものであることをくどくどと認識する。鬼は思ったよりも理性的な姿かたちで、自分の真っ赤な腕のほうが野蛮にも思えた。
イゾウは小さくため息をついて応える。
「承知した」
さて、改めて自分のいる館を観察してみるとこの研究所と呼ばれる館はいささか広すぎるように思えた。巨大建造物の立ち並ぶ現代地球に住まう我々の感性とは少しずれるが、大体小学校の校舎ぐらいの規模である。校庭のような中庭もあった。イゾウのいた日本でも、これほどの大きさの館を持つ人間は限られている。城と言うほどでもないが、大したものだと思ったようだ。
そして、もちろんそれだけベクトルという男には力があるものと思われた。それが財力であれ、権力であれ、腕力であれ、イゾウがそれに魅かれないことはない。力とは分け隔てなく人を誘惑するものである。
ククリはあくびをしながらイゾウを連れた。
「こちらです」
イゾウが連れていかれた部屋は彼らが最初に出会った部屋、研究室の内の一室であった。
主ベクトルが奥から現われた。顔中にすすのような埃をかぶって昨日のような威厳は消えうせていたが、そんなことは気にせずにベクトルは口を開いた。昨日よりちょっとフレンドリーである。というのも、昨日の召喚で血湧き肉が踊っていたのはベクトルも同様だったからである。
イゾウが何か言おうとしたが、聞きたいことがまとまらずに口ごもっていると、ベクトルが切り出した。
「イゾウ、君は武器を使うか?」
という問いに、
「剣を」
と、イゾウは間髪いれずに答えた。
記録によれば、岡田以蔵は小野派一刀流剣術、鏡心明智流剣術、直指流剣術等の剣術を学び、その上我流剣術でも中々に聞こえた腕であったという。それが新世界で通用するかは別であるが、無いよりはましである。
「よろしい。ならばこれを使え」
ベクトルは、そう言って古ぼけた長剣を懐から取り出した。他にも大鎌や矛や、どうやったら相手が殺せるか不明の謎の暗殺器具などが用意されてあったが、この後で日の目を見る事無く再びしまわれた。この後イゾウに迫るピンチにベクトルが中途半端に良いタイミングで駆けつけることとなったのは、この片づけをしていたからかもしれない。
「これは見た目こそ悪いが由緒ある魔剣だ。だまされたと思って使ってみなさい」
イゾウは由緒、という言葉が生来何となく嫌いであったので、最初はこの剣を受け取ってあまりいい気はしなかった。そもそも魔剣や妖刀の類は人に言えない様な薄暗いものがあってこその物ではないだろうか。持った瞬間に精神が乗っ取られたりはしまいか。
「ありがたく……頂戴します」
剣を受け取った時、イゾウは何かが違う、そんな思いにとらわれた。
そして、思ったことはすぐに口に出すのがこの男である。
「……が、ベクトル殿、あなたは本当に天下を狙いなさっているのか?。昨日仰ったことは真なのか?」
イゾウにとっての天下人とは、将と参謀に囲まれ、甲冑を身に着けている者であった(実際に見たことはないから勝手なイメージ)。今こうして見てみると何故こんな男が王になると豪語し、自分がそれに対して忠誠を誓ったのかが分からなくなる。昨日の狂気と今日の理性のせめぎ合いである。
(魔王にはとても見えない、か……)
ベクトルはイゾウの何を言わんとするかが分かったらしく、
「そのようには見えないかね?」
と、言葉に昨日の気迫をほんの少し込めて返した。イゾウには感じられなかったが、この時ベクトルは気迫だけではなく、常人ではすくむような量の魔力を意識的に放出していた。並大抵の魔物ならこれを喰らっただけで命乞いに走るであろう。
イゾウは案の定、
(おお、この刺すような空気は!。やはり、只者ではなかった!)
と、主を見直し、
「御見それ致しました」
と言ってからはもう何も言わなかった。とりあえず自分が今戦って勝てる相手ではないと直感した。
しばらくして、
「お師匠様、準備が整いました」
と、埃に塗れたククリがベクトルに告げた。なにやら古めかしい書物を手にしている。それは本の形をしているが、地図であった。
ベクトルはククリから受け取ったそれに目を通して、言う。
「イゾウ、君には私が虫も殺せないような様に見えるかもしれないが、そんなことはもちろんない。その証拠に、今から君に初めての命令を出す。心して聞きたまえ」
イゾウの初仕事。やっぱり殺しなのが救えないのだが、魔界ビギナーのイゾウにはかえって丁度よかったかもしれない。