夢想微分
そもそも魔剣とは何故魔剣と呼ばれるのか。唐突ではあるが、イゾウの魂の救済はこのことを説明してからでなければならない。
魔剣とは元々魔力の宿った刀剣その物を示す言葉ではなく、剣に魔力を上乗せすることによって様々な効果を生み出す魔法戦闘技法『魔法剣術』のことを指した言葉であった。この技術の歴史は古く、初代魔王の右腕と呼ばれた大剣豪『求敗』が創始者とされており、その後継者達によって様々な流派が今日の魔界にまで連綿と受け継がれている。しかし、『求敗』という名前そのものがかなり伝説的な代物であり、それぞれの流派の語る魔剣の歴史に信憑性があるとは言い難い。
求敗はいわば剣の神のような存在である。ホウや『史』の持つ記録を覗いても「山を縦に裂いて谷にしてしまった」だとか「居合い斬りで魔王に外科手術をした」だとかという魔法云々以前の怪物的な所業を成したとしかない。求敗は実在「は」したという説が濃厚であるが、日本の聖徳太子のように、人物像や能力が都合よく脚色されていると言われている。だが、そこそこに魔剣の使い手である『魔剣士』達からは信仰されているようである。
『魔法剣術』を取り巻く環境において、我々の世界における江戸時代の日本の武術流派の乱立に似た現象が起こっているとも言える。優れた武芸者は当然魔王選定後の魔王軍編成において出世のチャンスを得る。実際に出世した魔剣士は多く、また、種族を問わず習得できるので魔剣は特に親しまれている。選定終了によって終わることの約束されている魔界の乱世は複雑な武芸事情をも孕んでいるのである。
何はともあれ、魔法剣の効果は確かなものであり、奇奇怪怪に惨殺され、配下に成り下がっている狗夜叉も魔剣士であった。魔王候補の中には他にも高名な魔剣士が名乗りを上げている。全くもって侮れない武術である。少なくとも、バグの蟲術の数千倍はポピュラーな術である。
さて、イゾウの持っているような刀剣そのものである魔剣について話を移すが、こういった魔力を持った剣は元々魔力を有していたわけではない。魔法剣として使用されているうちにその魔力が蓄積されて妖怪化したのである。ここで言う妖怪化とは魔剣の人格化を必ずしも指すものではないが、この現象は術者の魔力が大きければ大きいほど、使用期間が長ければ長いほど強力なものとなり、中には術者の魂の一部が魔剣の精霊としてとり憑いている場合もある。この現象を自ら引き起こすことがある意味での魔剣士のステータスとされており、実力の強い魔剣士が用いた(作り上げた)魔剣ほどマジックアイテムとしても、宝剣としても価値が高まる仕組みになっているのである。
イゾウの持つ魔剣もその一つであるが、余程のレア物だったのだろう。イゾウが倒れると仄かに光を放ち、なにやら独りでに魔法をイゾウにかけ始めたようである。奇奇怪怪は狂喜乱舞することけたたましく、魔剣に起こった変化には気付きもしなかった。
さて肝心のイゾウであるが、文字通り魂を破壊されていた。苦痛と汚物に塗れ、おおよその生物が持つであろう尊厳までもが木っ端微塵に粉砕されていた。その惨憺たるや意識を失った夢想の中にまで侵食する凄まじさであり、イゾウは現実に帰還しきれていなかった。
夢の中も幻もイゾウにとってはそう変わりのない地獄であった。ただ違うのは、今度は本物の苦しみを脳が解釈して自分なりに夢の中に再現してしまうところである。脳は魂の得た地獄の膨大な情報を処理しきれず、いわゆるフリーズ状態であった。科学的にいえば、奇奇怪怪の被害者は皆その状態から逃れるために発狂し、あるいは自ら命を絶つのである。イゾウにとってもそれは逃れられない定めとなるはずであった。
それがどうしたことか、夢の中である地獄においてイゾウは気絶した。正確には「気絶させられた」のであるが、それは夢の中で夢を見せるという常人には理解不能な荒業である。イゾウは訳の分からぬままもう一段下の階層へと意識を落とした。
夢というものは連続する多様な情報をひとつの大きな流れに変換して簡略化する、いわゆる数学の微分積分のような次元変換を脳内で行っているのだといわれている。それは生物にとっては基本的で不可欠な情報処理であるのだが、今のイゾウには魂を侵す傷を肉体や脳のダメージに返還してしまうことであり、おおよそ死を意味する。その威力は麻薬の数千倍程はあるだろう。
魂と肉体はそれぞれ平衡するように設定されたシステムであり、奇奇怪怪はその仕組みのおかげで、魂だけを攻撃することで敵を殺せるのである。
そして、さらに今起きていること、つまりその夢を断ち切って新しい夢を挿入するということは当人にとっての過去を摩り替えることに等しい。だが、それこそが奇奇怪怪の幻術への力無き者のための処方箋であるということを、無意識に悟り、行った者がいたのである。ここまで来ればその正体は薄々感づかれるかとは思うが、しばし待たれよ。
イゾウは混沌とした空間に放り出された。地獄よりかは幾分かましな混沌ではあるが、イゾウは錯乱したまま手負いの草食動物のように狂乱している。
しかし、デジャヴがあった。
イゾウは一回目の死亡の時と同様に、またどこかへ異世界召喚されたのではないかと感じた。実際にその通りではあるが、夢の中のことなので道理は大した問題ではなく、本当に死んでしまったのだとしても地獄から逃げられるのならば本望というくらいの気持ちであった。大切なのはその新たな夢の内容である。
イゾウはめまぐるしい景色の変転に巻き込まれながらも、デジャヴによって物事の経緯を思い起こし、平静を取り戻した。あるいはその変化に意識をそらすことで魂の痛みを和らげる暗示的療法が偶発的に行われたのかもしれないが、とにかく、イゾウは落ち着いた。ここはイゾウの頭の中であるから落ち着くことで世界も定まる。
不定形であった空間が何物であるかが分かる程度にまで意識のブレが落ち着くと、なんだか懐かしくない場所に行き着いた。頭の中の事象なのに懐かしくないとはこれいかに。
「え、何故?」
というのがイゾウのその世界への第一の感想であったが、それは当然。そこは、脈絡も無く道場であった。むやみにツルツルとした床の感覚といい、典型的な剣術道場のような空間である。
作者が思うに、ここまで読んだ読者諸君はこの道場がイゾウに馴染みの深い思い出の場所なのではないかと思ったことだろう。だが、そんなことは決してなかった。奇奇怪怪に遭遇した時レベルの脈絡の無さである(イゾウにとっては)。
何故脈絡が無いかといえば、イゾウは道場なぞには何の思い入れも無いからである。確かにイゾウは生前の一時期を剣術道場巡りに費やしたが、イゾウの剣の強さの根拠とは道場における鍛錬ではなく、幾度となく人生において繰り返してきたルールも意味も無いばかげた喧嘩の数々である。イゾウ自身は道場剣術など歯牙にもかけなかった風がある。もちろん彼の時代にも道場剣術使いの剣豪は掃き捨てるほどいたのであるが。
そんなイゾウにとって都合よく現れたこの道場は、バトル漫画にありがちな修行の場というよりは、素行の悪い学生を体育教師が無理やりに押し込めてしばくような場所のイメージしか湧かなかったのである(もちろん幕末に体育教師はいない)。
繰り返すが、イゾウは地獄からとりあえず生還したが、脈絡も無く道場なのである。もちろん何者かの意思が働いていた。
誰の予想する所でもなかったことだが、これまであらゆることの流れに翻弄され、目の前の敵やら仕事やらにかかりっきりであったイゾウは、ここで生まれ変わることになる。この道場から、本当の意味で魔人イゾウの懐刀としての魔人生が始まるといってもいいのだ。
そして、こんな事を催した犯人が堂々と道場に現れた。