怒り
『で、あなたが勇者に足止めを食っている間に大師匠様は殺され、首も持ち去られたと……』
バグは、大師匠の残された亡骸を魔法使いの海跡地に丁重に葬り、ベクトルの館に戻ってきていた。
咽るような無数の種類の薬品が立ち込めた部屋で、イゾウの肉体のメンテナンスを行っているベクトルが冷徹に言い放った。冷たい怒りが横たわっていた。だがそれは、バグに対してとも、人間達に対してとも取り難い複雑な怒りだった。もしくは大師匠への怒り、だったのかもしれない。
対するバグの怒りは単純かつ、どうにもしがたい熱を持っていた。彼の精神を支える無数のクモの糸が融けだすような熱である。
バグは既に隠居の身である。その老体と精神に不似合いな怒りは、我々人間には測り得ない具合で歪曲しているに違いない。少なくとも、基本的に単純で直情な魔物元来の粗暴さを体現するかのような態だった。
「今すぐに力を貸せ。あの人間を人間界まで追って、殺す。」
バグは我を見失っていたといっていいだろう。彼の体のあちこちから蟲の這いずり回る音が響く。彼と一心同体である蟲が一斉に殺意に燃えているのである。バグの体内に寄生している蟲が暴走するだけでも下手すれば魔界を巻き込む一大事になるだろう。ましてや彼が放し飼いにしている蟲、その蟲に寄生されている者らが暴れだすような事態も起こしかねない怒り様であったから、ベクトルは念のために、この場でバグを始末する支度もしてはあった。
そういう意味ではベクトルの怒りの方がバグの怒りよりも残酷で、情けのないものだったかもしれない。彼が父に近い存在を失うのは二度目であり、怒りへの対処の術をよく知っていたのだ。そんなベクトルにとって、大師匠がバグにとりどれだけ大きなウェイトを占める人物であったかを差し引いても、このバグの怒り方は全く駄目だった。
「ベクトルよ、貴様何故そう平然としていられる?。大師匠様に拾われた身である我々が敵を討たずして何が……」
今のバグには落ち着けという言葉は逆効果だろう。
『今のあなたにそれが出来ますか?、バグさん。貴方の蟲の大半は勇者に焼き払われてしまったではありませんか。』
「何を、この期に及んでそのような戯言を抜かすとは、大師匠様に神童とまで称された逸材もここまで落ちぶれたかっ。」
治療用の台座に寝かされていたイゾウは今すぐにでもここを逃げ出したいと思った。バグには蟲一匹で恐ろしい目に遭わされたのだ。起こったバグなど恐ろしくて目も当てられない。
『私は今は勇者とは戦いたくない、いや、戦うべきではないのです。今の私の敵は魔界中の魔王候補たちなのですよ。』
決してベクトルは臆病風に吹かれてそんなことを言う訳ではない。ベクトルは本気でそう考えていた。
「バカなことを、勇者と戦うのは魔王になってからというのか?」
『その通りです。』
ベクトルには、魔王になってからどのように人間と戦うかについてプランがあった。それは即ち、今まで一度も決着の付かなかった歴代魔王と歴代勇者の戦いに終止符を打つためのプランである。だが、このように勇者が早くから現れ、魔界に襲撃をかけてくるという事態は前例にない、前代未聞の出来事であった。
ベクトルは表面上はバグの人間界追討に反対であったが、もしかしたら自らの目で勇者を見極め、プランを練り直さねばならないかもしれないとも思っていた。バグの怒りや大師匠の死に惑わされてはいけないという思いと好奇心と打算がせめぎあっていたのである。
ただ、ベクトルに断言できることが一つあった。『この代の勇者は何かがおかしい』ということである。バグの報告からも、今回の事件の流れからも、それは色濃く見受けられる。そして、勇者を従わせる男、『バテレン』という存在にもただならぬものを感じていた。
ベクトルの中で色々な思案がなされている中、バグはいきり立って殺意はさらに増していた。
「いい加減にしろベクトル。ゴキブリと異名で恐れられていた頃ならともかく、今の老いた私だけでは倒せない相手だということは私も分かっているのだ。だから、協力しろ。」
バグが論調を僅かに変化させたのを感じ、ベクトルはようやく決心がついた。
『ふぅ、分かりましたよバグさん。私もお供させて頂きます。ただ、その代わりに今はまだ勇者に手を出さないでください。それだけ承って頂けるのなら私も人間界へ参らせて頂きます。』
バグが本当に憎いと思っていたのは、下手人のバテレンのみであった。それに勇者と戦うべきは魔王のしるしを持つものだけであるということも頭の中では分かっていた。
「すまない。」
そう言うとバグの放っていた殺気は空気にとけ、再びイゾウと問答していたときの無愛想な爺さんに戻った。ただ、この男は今や復讐の鬼となっていた。
治療を済ませたベクトルがイゾウに言う。
『イゾウ、お前にこの館の留守を任せる、ククリを頼むぞ』
「心得ました、ベクトル殿。」
イゾウの内心には、
「ただの留守番か」
という思いが無かったわけではないが、鉄鬼との対峙、バグとの問答において失敗続きだったために仕方ないものとして心に受け入れた。