人斬り毒死
日本のお話である。
その頃、幕府は高まる尊王攘夷の波に恐怖を覚えていた。
文士の集まりでしかなかった運動がまさか影から幕府の喉元を喰らい裂こうという勢いを持つことになると誰に予測できたであろうか。
無数の刺客を天誅の名の下に暗躍させている最過激派のトップたる何者かを、幕府は血眼になって探していた。各地には秘密裏に諜報機関が設けられ、国の水面下では智で智を洗う情報戦が繰り広げられていた。
しかし当然ではあるが、闇を蠢く破壊者の姿を捕らえることなど到底出来はしない。果てには毒には毒をと新撰組等という野良ヤクザを飼いならしてまで対抗を試みるが、所詮はごろつき上がり。上がる首は野獣の爪先のような、得たところで何の意味もないような下っ端だけであった。
しかし、その努力も決して無意味というわけではなかった。そんな中幕府はついに、黒幕へとつながっていると思われる一人の男を都の外れで捕縛したのである。
男の名は岡田以蔵。凄腕の刺客で、最も重要と思われる数々の事件に関わった男であった(むしろ関わりがあると分かっている以上、彼も末端なのかもしれないが)。
この頃は幕府にでさえ闇の勢力の首魁がどこの藩の者かさえ分かっておらず、そのパトロンの名など挙がりようもなかったが、この捕り物によって初めて幕府に情報源と呼べるカードが入ったのである。
しかし、敵の方が一枚上手だった。
以蔵が捕らえられている牢屋の前に一人の男が現れた。看守という格好ではない。
以蔵はこの男を味方として知っていた。あらゆる場所に紛れ込む恐ろしい暗殺者であり、自分のような暴力装置よりももっと上、武と志の道で自分より遥か高みを行くと胸の内で認めた、志の師であった。
闇に揺らぐ男は以蔵に対して口を開く。対して以蔵も何かを言おうとしかけたが、男は黙って聴くように合図をした。
男は語りかける。
「こんなに簡単に奴らに捕まっちまうなんて情けねえな。悪いが、お前を助けることはできない。お前は切られた」
以蔵には信じられない。
「『あのお方』曰く『人斬り包丁としての仕事、よく役に立ってくれた』だそうだ。実際、お前は良くやってくれたよ。だが、決定だ。諦めるんだな」
「本当か?」
「本当だ。お前はこの後連中に拷問されることになるだろう。だが、安心しろ。お前に持たせてあった情報は全て偽り、いわば釣りの餌だ。好きなだけ吐いてかまわない」
そんな馬鹿な……
「あのお方はこうなることをずっと前から分かってたんだろうなあ。ああ、恐ろしい」
ドスリと以蔵の胸に刺さるのは無力感である。あの方とその志に敬虔に闇の奉仕を続けてきた以蔵にとって、その使命感は侠の概念、生命そのものであった。それが失われた今、以蔵が闇の中でどんなに情けない顔をしているだろう。
暗殺者は続ける。
「で、どちらにしろヘマをしたお前にはもう死んでもらう他無いんだが、最後に、あのお方からの差し入れがある」
暗殺者は以蔵に腰に下げた容器を示した。
「見ろ。お前の好きな酒だ、懐かしいだろう。だが、毒入りだ。この毒入りの酒を呑んで故郷に思いを馳せながらさっぱり死ぬか、奴らに拷問されて苦しみ悶えて死ぬか、好きにしろ」
以蔵はまだ返事をしない。
「まあ俺らとしては、奴らに偽りの情報を飲ませてから死んでいってもらいたいんだがな。お前は本当によく働いてくれた。あの方らしくはないが、最後の情けというもんさ」
さあ、選びな。
以蔵はしばらく音も発さずに考え込んでいたが、震える手を男に対して差し出した。くれ、と、手が言っている。
低く以蔵が唸る。嗚咽か、それとも久々に口にする酒に喉が鳴いているのか、どちらだろう。
「何だ、呑むっていうのか? まあ、仕方ねえか。あばよ、人斬り以蔵。お前みたいな豪傑は、戦乱の世だったら一角の将にもなれたかも知れねえのにな。……全く、恐るべき太平の世だぜ」
ふう、と一つ息をつくと、そこにはすでに男の姿が無かった。
以蔵は薄れゆく意識の中、自分の血みどろの人生を思い返していた。
戦乱の世だったら一角の将にもなれたかも知れねえ、だと?。ふざけやがって……。
毒酒あおって死んでんだぞ、俺は。
あのお方に見捨てられて、情けねえ死に様晒してんだ。
畜生、あのお方の下だったら何だってできると思ってたんだ。
畜生、情けねえなあ……。
怨霊とも成りうるであろう情念を残し、以蔵は二度と動かなくなかった。
そして翌日、公には以蔵の首が晒された。
辞世の句を詠み、潔く死んでいったと後世には伝わっているが、これは何者かによる脚色である。
そして、この一件は幕府の勝利に思われたが、本当はそうでないことを読者の諸君は知っているだろう。
勢力は再び姿を晦ましたのだ。
さて、岡田以蔵の人生はこれにておしまい。
しかしその時、どこか遠くから彼を呼ぶ声がしたのであった。
少し書き直しました。