魔法使いの海
無論、大師匠はみすみす殺される気などなかった。
大師匠には長い年月を戦い抜いてきた知識と経験、そして膨大な魔力がある。さらに後述の、この上ない地の利があった。自分が殺される未来がなんとなく目の前を揺らいでいるのを第六巻が知覚しているが、そのような悪い予感ですら払拭できる、安定した自身がその胸の内に大木のように泰然と存在していた。
大師匠はベクトル達とのゴーレム通信が切れるや否や、老人らしいしわがれた声で呪文を唱えだした。すると、大師匠の住んでいた小さな庵は彼方へと消え、青黒い深海のような空間が大師匠を包んだ。大師匠の頭の上には太陽のような光源が浮かび上がり(実は太陽である)、やがてその深海の世界に天地が設けられ、大師匠の望む迎撃の支度が大規模に施されていった。彼の世界で天地創造が擬似的に行われたのである。
大師匠が住むのは魔法使いの海という、次元の狭間に浮かぶ真空空間を改良して作られた亜空間である。そこは魔界と四次元的な位置関係にあり、開拓者である大師匠によっていかようにも作り変えられる夢の空間でもある。
例えば、仮に大師匠がこの世界の中にもう一つの魔界を作りたいと願ったとしても、必要なデータや設定さえあればそれは可能なことなのである(何らかの情報のコピーが必要であるからクローンに近い)。
繰り返すが、魔法使いの海と呼ばれるこの空間においては大師匠がルールだったのである。
本来ならば、外敵がここに攻め込んできた所で意のままに排除できるはずであるし、そもそもこの空間を開拓できるほどの魔力を持つ大師匠は超高等位術者なのである。殺されるわけがない。
大師匠自身、自分が人間に殺されると予言はしたが、誰に、どのように、何故負けるのかは全く闇の中のもののようにうかがい知ることが出来なかった。仮に、この時ククリが奇奇怪怪にマインドジャックされていない正常な状態であったとしても、別次元にある(四次元的な意味で)この世界で起こりうることを知るのは不可能だったのではないだろう。
とにかく、『魔法使いの海』で大師匠が負けるなどということはありえないことなのである。
そして、大師匠の世界はいまや大師匠が考えうる最高の要塞へと変貌を遂げていた。
大師匠が若かりし頃に考案し、自ら机上の空論と揶揄してお蔵入りにしたいくつもの超高等かつファンタジックな術式が、そこにはいとも簡単に存在できた。例えば、永久に自らの運動を止めることなく一定のエネルギーを供給し続ける『永久機関』。永遠に回転し続ける無数の歯車の列が、あらゆるエネルギーの形式で大師匠に力を与え続けているという荒唐無稽な大技が、大師匠が念じるだけで実現するような世界である。
大師匠は、自分を殺しに来るであろう人間を、この永久機関の生み出す膨大なエネルギーで焼き尽くしてしまおうなどと考えていた。大師匠にだって魔物らしい魔性が少なからずある。ただ、大師匠はそれを理性でコントロールできたから、今まで生き残れたのである。
しかし、このような茶目っ気にも似た魔性の高ぶりは、大師匠自身が振り返るに、この7、80年の間心に起こらなかったものであった。それは、大師匠のこれまでの生涯150年の内の7,80年である。大師匠自身も意識しないほど深刻に、静かに、老いは進行していたのであった。
『魔法使いの海につながる最高傑作の結界が人間にたやすく打ち破られた』という、一方で最大限に大師匠自身のプライドを傷つけた事実が、大師匠をほんの少しだけ若返らせ、即ち全盛期の時間を一端とはいえ、取り戻させたのである。大師匠自身、複雑な心境で動いていたが、割と楽しんでいた。
あと数分もしないうちに算段を整えて刺客が現れる。大師匠は、心の底辺でそれを心待ちにしていた。まるで恋に焦がれる若者のようであった。
後になってから考察すれば、大師匠は死の直前のほんの少しの間、至福のときを過ごしていたといってもいいだろう。力強さへの回帰。それは、魔物の本能的な快楽でもあるのだ。
もちろん、そんなことを口に出してしまえば、大師匠の死を極度に悼んだバグのクモの糸で絞め殺されてしまうわけであるのだが、このことを語らずして、後に『バテレン事件』と呼ばれる大師匠暗殺事件を語ることは出来ない。
さて、大師匠の『魔法使いの海』につながる呪具は壺の形をしていた。古来から壺は『壺中の天』ということばがあるように、他の次元や擬似世界との接点(出入り口)に使われることの多い道具である。イゾウが生まれたときの『異世界召喚』においても魔方陣の要素に取り込まれていた。
魔法使いの海につながる壺には大師匠がその技術の全てを注いだ結界が為されており、結界というよりもバリアーと言う方が相応しいような、破壊的で圧倒的な障壁がそこに存在しているはずであった。
そのバリアーをいとも簡単に破壊し、壺を取り囲んで中の異世界にまさに乗り込まんとしている人間が三人いた。
そのうちの一人が、後の人間帝国の、最初にして最後の邪帝、『バテレン』であることは、当然この時は誰も知らなかったことである。