蟲術
イゾウは呆けた顔をしたまま、老魔を連れてベクトルの研究室に隠されていた秘密階段を降りていく。もちろん、イゾウの意思ではない。操られていた。
その階段、及びその奥の真の研究室は、魔法研究者としてのベクトルにとって最も他に知られてはならないトップシークレットであった。
魔法の溢れる魔界ではあったが、魔法に関する能力者の情報共有意識、ましてや学会のようなものは存在しなかった。定期的に戦乱が始まる魔王選定システムは、魔物たちに敵味方の別を極端に意識させたのである。
できるだけ優れた能力や味方を独占しようと極端に偏った行動原理は、初代魔王による『選定』以来、魔界に宿命付けられた呪いのごときものであった。
魔導師の世界は特に閉鎖的気質が強く、一子相伝に近い方式を採っていたために、同じ師についた弟子同士ですら命の取り合いが日常茶飯事であった。また、情報秘匿の技術は魔法のみならず、話術、催眠術、妖術など、あらゆる方面に向かって進化していった。
つまりは、魔導師の世界はごくごく原始的な情報戦争時代を永らく展開していたのである。
それはベクトルにおいても例外ではなく、彼がその心中で切り札と定めたいくつもの超高等魔法術式は、彼の編み出したいくつもの秘法によって厳重に秘密の研究室に封印されていた。
そのうちの一つはイゾウを生み出した異世界依存型魔人製造法である。ベクトルのような優れた魔導師にとっても異世界に関わる技術は全くもって未開の分野であったから、その重要度は今後の発展性も含めて最重要であった。
また、それによって生み出された魔人の性能は、今イゾウが使いこなせているものよりもはるかに強力であり、ベクトルはイゾウの成長にかけている部分がある。イゾウには成長の余白が十分にある。
だが、秘密の全てをこのまま謎の敵に持っていかれては元の木阿弥である。
「ふん、このワタシが、こそドロなどするものか。」
老魔は、イゾウがその場にいたために発動されなかったいくつもの魔術トラップの痕跡をせせら笑う。
「このテイドのブカにまでキをツカうトラップとはキのマワるものだな、ヴィクター。」
やがて、老魔の視界は薄暗い階段から地下とは思われないようないような空間、秘密研究室へと広がった。そのドーム上の空間の広がりの中心に既に侵入者を察知していたベクトルが立っていた。
当然ベクトルは侵入者である老魔に対して迎撃準備を済ませているはずである、と、かすかに残るイゾウの意識は考えた。
だが、ベクトルは全く「化けて」いない。この出来事は彼にとって危機とはとても呼べないものであったらしい。
(私が操られていることにお気付きでないのか?)
老魔の術が安定したと思われる現在、首から下の全てが老魔の支配下にある。老魔が仮にイゾウをベクトルにけしかけたらどうなるのであろう。などとイゾウは考えていた。
そんなイゾウの緊張をよそに、ベクトルは実に機嫌の良さそうな顔をして老魔を見つめている。操られているイゾウは、何がなんだか分からなくなった。
『お久しぶりです。ようこそいらっしゃいました、ゴキブリ様。』
ベクトル、老魔双方に殺意どころか緊張すら起こらなかった。むしろ、友好的な雰囲気であるといっていい。
老魔のほうは相変わらず何を考えているか分からないような無表情ではあるが、敵意はないらしい。
「よせよヴィクター。ワタシにはモハヤ、かつての『ゴキブリ』のショウゴウをナノるほどのチカラはノコっておらん。イマやアリテイドのハタラきしかデキんのだ。よって、ワタシのイマのナは『バグ』である。いいな、『バグ』とヨぶのだヴィクター。」
『老魔』改め、『ゴキブリ』改め、『バグ』は、敵意の無い鋭いまなざしをベクトルに向けた。かすかに微笑んでいるように見えなくもない。
イゾウはこの時初めて老魔を安全だと理解し、主人の客に対して無礼を働いたことを恥じた。
(それならば、今のこの仕打ちも仕方がないか……)
かつてイゾウが人間であった頃、イゾウの早とちりや一方的な感情によって多くの者がその暴力の餌食となっている。イゾウは酒癖の悪い男であった。イゾウはもちろんそんなことを一々覚えているほどまめな男ではないのであるが、今回の失敗は自分が操られるというただ事ではない恐怖体験をしたために彼の心に一生残ることとなる。イゾウはそんな都合の良いところのある男であった。
(やってしまったな……)
そう思ってイゾウがうなっていると、ベクトルはバグの後ろにいたイゾウに気が付いた。
『ところで、あなたの後ろにいるのは私の配下なのですが、見たところ蟲を入れられているようですね。もしや、何か無礼を働きましたか?』
実際にそうであったから、イゾウは首から上だけがただ面目なさそうに首をしょげている。謝罪の言葉を述べたい所だが、肺までもがバグの支配下にあるために呼吸以上の動きが出来ないのである。発音などもってのほかであった。
「ふん、ワタシはアンナイをコうただけだ。アンずるな、ムシはヌく。」
バグがそう言うと、イゾウの首筋の辺りからミミズほどの大きさの蟲が剥がれるように取れ落ちた。先ほどイゾウに投擲して起こした術のトリックは、全てこのミミズ形の寄生虫にあったのである。
そのミミズを小指ほどの太さに拡大したような蟲は、パワフルかつ繊細な動きで転がるようにバグの足元にまで移動した。人間の世界では見る事のできない特殊な生物の運動である。
バグはそのミミズのような蟲を手でつまみ上げ、そのまま口に運んで飲み込んでしまった。イゾウはそのグロテスクな所業に露骨に反応して見せたが、ベクトルとバグにとっては何でもないようなことらしい。
バグが用いたのは『蟲』の術である。
『蟲』は「コ」や「ムシ」と呼ばれる、太古の昔から暗殺や呪術に用いられたワーム系の虫のことである。蟲を利用する術の起源は毒のそれと同等かそれ以上に古いものとされ、原因不明の変死の立役者として歴史の裏に君臨し続けた。蟲は微生物の次に単純な脳の構造をしているために、その習性を把握さえすればいとも簡単に魔法で操ることが出来る。バグはその『蟲』を操るエキスパートである。バグのかつての称号『ゴキブリ』とは、腹部に大量の寄生虫をはびこらせたままその強靭な生命力で無限に増え続ける異界の怪物をモデルにした、蟲術師業界最高の称号である。
ただ、彼はその見た目相応に老いているらしく、『ゴキブリ』の座を弟子に譲ったらしい、と後にベクトルはイゾウに語る。
そうこう言っているうちにイゾウに自由な体の感覚が戻ってきた。イゾウはまず、バグに対して非礼を詫びた。
「申し訳ありません。客人とは露知らずにご無礼を。」
バグは深々と頭を下げるイゾウに軽く視線を流した後、
「もうイイ。」とだけ呟いて、ベクトルの方向に再度意識を傾けた。
「ヴィクター、ダイシショウサマからのコトヅテをここにツタえる。ココロしてキけ。」
どうやら、本題に入るらしい。