閑話 インド洋にて ~Shoot without shooting~
十八世紀、インド洋にて
ある商会の連絡船、インドのとある街へ向かう航行も残りはあと一日二日という所だろう。
その船上、そんな昼下がりのことである。
「ねえ、そこのあなた。さっきのあれってどうやったんです?」
ある見習い商人が宣教師風の着物に身を包むある男に尋ねた。キリスト教の人間らしからぬ奇妙な瞑想を行うこの男は興味を引いた。
「さあ、何のことでしょう?」
宣教師は微笑みながらとぼけた。
「とぼけないでくださいよ、私は見たんです」
「いやはや、何のことやら」
見習い商人は食い下がった。小さな頃寝物語に聞かされた、冒険譚に出てくる魔法使いのような男を放っておくことができない、といった風である。
「さっきの事です。あなたが昼食を食べようと、魚のハーブ焼きの包みを開けた時の事です。カモメだか何だかの鳥があなたの魚を横取りしようと滑空してきたのを、あなた、触りもしないで弾き飛ばしてしまいましたよね? こんな感じで……」
見習い商人はいわゆる『かめはめ波』の構えのような動作を溜めを少なめにして演じて見せた。見ようによってはバスケットボールを水平方向にシュートしているようにも見える。
「いやはや、そのことでしたか」
宣教師は少し恥ずかしそうにはにかんだ。彼はこの時二十九歳、見せびらかすというほどではないが、それを見た人にちょっと不思議に思われたい、一目置かれてみたいという可愛らしい欲もあっただろう。
「あれはなんだったんでしょう?」
「そうですねえ、何と申しましょうか…… あなた、『Shoot without shooting』という言葉をご存知ですか?」
「いえ…… でも、感じからして東方の言葉の直訳か何かですか?」
「ええ、『不射之射』という言葉の訳です」
宣教師の口がほんの少しだけ回った。
「こんな話があります。ある所に弓矢の名人ありけり、しかしその名人は弓矢を決して使わずにただ構える動作を取り、その一挙一動だけで見えない矢を放って空を飛ぶ鳥を落とすことができたと言います。さっきの言葉はその名人芸の事を現す言葉で、彼を知る者においては、職人は槌とノミを捨て、音楽家は楽器の弦を切ったとか……」
「あなたもそれができるんですか?」
見習い商人はわくわくしながら聞いた。
「くく、まさか。実は、その話にはオチがあるんです」
「え?」
「と、言いますのもその名人が最後に至った境地というのは『そこら辺にあるものを相手に投げつけるのが一番良い』という何とも仙人的な見解で、実は弓を放つ動作を取りながら恐るべき速さで飛礫を相手に投げつけていたのです。まあ、道具に頼らないという意味では素晴らしい境地とは思いますが」
「じゃあ、さっきのも……」
「そう、手近にあった石の飛礫を投げつけて追い払っただけです。あなた、とんだ思い違いをしましたね」
「なあんだ、あはははは。いや、でも本当に魔法のようでした。こんなことを言うのもなんですが、あなた奇術の才能が有りますよ。私が保証します」
見習い商人は意気消沈するどころか喜んだ。だが、もちろんこれは宣教師のその場しのぎの嘘であった。 とはいえ、皮肉にもこの見習い商人がこの世で最もこの男にその秘術の神髄をしゃべらせたことになる。後半の石つぶて云々はやっぱり嘘っぱちであるが。
見習い商人は思い出しように手を叩いた。
「そう言えばご存知ですか? 東向けの情報屋が宣伝して回っていたんですけどね、丁度これからこの船が向かう街で『外道七師』とかいう胡散臭い連中が優れた術師を仲間にしたいとかで募っているそうですよ。何かの足しになるとも思えませんが、奇術ショーでも見られるんじゃないでしょうか?」
「それは面白そうですね。是非見てみたいものです」
次の瞬間、何かが何の前触れもなく商人の顔面を強打した。
「見た事の無い術を、その全てを私は見てみたい」
商人はひるむことなく続けた。
「ふふふ、『見てみたい』って、こんな風にですか?」
見習い商人は突如両手の親指を自分の眼に突っ込んで眼球をグリグリとほじくり始めた。
「こんな風に、うふふ、ふふ……」
血が両目から吹き出した。そして、その血が霧となって宙を舞い、不自然な動きで人の形を成した。見習い商人は気絶してしまった。
「おやおや」
宣教師は慌てるそぶりを見せない。
人の形をした血の霧は声を発した。
「『秘術狩り』の宣教師だな?」
「そう仰るあなたは『七師』の人ですか?」
「ふふふ、違う。お前を殺すよう指示を受けたしがない巫祝よ」
宣教師は考えた。
(はて、依頼人は誰だろうな? 『どれ』に一番恨みを買っていたのだ?)
宣教師は目の前の奇怪な霧に大して注意を払わなかった。対して霧の怪物は既に目的の命は手に入れたも同然、と言わんばかりである。
「お前の術は『不射之射』とかいったな。そんなちんけな術でこの霧の怪物を殺せるか?」
見たところ、自らの血に意識を託して操作する吸血鬼の如き能力者らしい。確かにこの霧の怪物斬ろうと貫こうと効果は無さそうである。その能力で見習い商人の血管網に何らかの方法で進入し、操作していたのだろう。
「『秘術狩り』、その命貰い受ける! と、言いたいところだが、一つだけお前に聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「へ、余裕ぶりやがって……まあいい。『姫様』をどこに隠した?」
「さあ、何のことでしょう?(なんだ、あいつらか)」
「ほざけ!」
霧の怪物は人型から再び無形となった。霧はバテレンの顔を包み込むのと同時に吸い込まれるように鼻の穴から宣教師の体内に侵入した。それでもなおこの男は動じない。
「さあ言え、でないとまずはお前の肺に蓋をしてしまうぞ!」
「あらあら、それは困りましたねぇ」
宣教師が困っていると遠くから声が響いた。
「あれ、おとーさん、どこー?」
宣教師は何という事もなく
「こっちだよ、アリス」
と、手招きをした。そこは今とんでもない修羅場であるにもかかわらず、である。
「ちっ」
「来るな」と、普通の父親ならば言うだろう。娘が人質になるかもしれないのに呼ぶなんて、気でも狂ったかと霧の怪物ですら思った。
(馬鹿め、娘を人質にしてやる)
現れた少女に霧の怪物は宣教師から飛び出して襲いかかった。
「きゃあっ!」
少女は空を掻いてもがくも空しく霧の怪物は進入した。
「はは、どうだ。今答えるならば娘の命は助けてやる。どうだ?」
「殺してみたらどうです?」
「何!?」
「殺せばいいじゃないですか、せっかく見つけた『姫様』を」
途端に少女の双眸に妖しい光が宿った。
「そうよ、『少女殺し』程のエロスはもう地上には残っていないわ。さあ、為してみなさいよ」
少女が放つ言葉の一つ一つがの持つ響きが、少女の身中に進入していた霧の怪物を見えない金槌で殴りつけたかのように揺さぶった。
「しまった!」
霧の怪物はこれと似た様な言霊の使い方をする巫女を知っていた。とある山岳部族の戦に介入した時に味方側に居た。彼女が歌うだけで敵方の兵士は生気を抜かれた様な腑抜けになり、逆に味方の男たちの一物はそそり立つ。興奮を掌握する妙手であった。
後に焚き殺されたという知らせがあったものの、その威力への恐怖は霧の怪物の精神に刻みつけられていた。
霧の怪物は攻撃の手を止め少女から脱出しようとした。だが、遅かった。
無邪気に父親に駆け寄った無垢な少女は消え去り、そこには何か恐ろしい魔女が存在した。
「駄目ね。あなた、この男に勝つにはまるで足りてないわ」
少女が口から逃げようとする怪物を唇の吐息で吸い寄せて軽く口づけをすると、みるみる霧の怪物が空気中で砂のように乾いて風に溶けた。不定形の怪物が、最初からなにも居なかったかのようにかき消された。
刺客はあっさりと消え去ってしまった。遠隔地で術を行使していた術師も、そのまま術の瘴気に当てられ狂って死んだそうな。
再び甲板には静寂が戻った。海の男たちは行使された数々の秘術に気も留めず、せっせと働いている。憐れな見習い商人の姿はどこにもなくなっていた。
「あなた、自分の娘を何だと思っているの?」
「アリスは私の娘だ。それ以上でもそれ以下でもない。そして、お前は私の娘ではない。釣り餌程の働きをしたから、その程度には想ってやる」
「うふふ、冷たいのね」
「そんな事よりも、お前の会いたがった『外道七師』とかいう連中の尻尾がようやく掴めたじゃないか。もっと喜んだらどうだ?」
「いいえ、あなたが彼らに渡り合うに足るかどうかはまだわからないもの。ぬか喜びはしないわ」
「ふん、全ては『月鏡世界』に辿り着くため。お前の思惑は知らんがこうなればその『外道七師』とも渡り合ってやろうじゃないか」
「そう、その調子よ。私の可愛いお父様」
少女は涼しい顔で微笑んだあと、ニコッと笑みを発散させた。
「くっ」
ぞっとするほどあどけないその顔から咄嗟に宣教師は視線を逸らせた。魔力、気、呪術、フェロモン、眼光の波長、何をとっても人間には有害でしかない、放射能の様なものを彼女は発していたのだった。
この後、外道七師に加わった宣教師は紆余曲折を経てついに『月鏡世界』へと辿り着くことになる。
しかしその到達は単なる過程に過ぎず、『月鏡世界』こそが彼の人生の本当の戦場になることを、後の通称『バテレン』ことラプカディオ・フロイスはまだ知らなかった。
今思えばこれみたいな物書き遊びに興味を覚え始めたのは中島敦を読んだ頃のような気がします。今回ちょっとだけパロッた『名人伝』とか、『わが西遊記』シリーズは超おすすめです。『山月記』とかは高校の教科書に載ってますしね