王太子殿下、その婚約指輪は偽物です ~罪を着せられた宝石鑑定士は、私を信じる公爵と本物の愛を選びます~
「王太子殿下。その指輪に留められている宝石は、偽物です」
音楽も、祝福の拍手も、ぴたりと止まった。
王宮の大広間には、王太子アルベルト殿下とミレイユ侯爵令嬢の婚約を祝うため、国中の貴族が集まっている。殿下が婚約者の指にはめたのは、王家に代々伝わる青い宝石――〈星海の涙〉のはずだった。
私は王宮宝石鑑定士として、その宝石を祝宴の前に確認する役目を与えられていた。
「リディア。今、なんと言った」
アルベルト殿下の声が低くなる。
「偽物と申し上げました。色も透明度もよく似ていますが、これは青玻璃です」
「見ただけで決めつけるのか?」
「いいえ」
私は卓上の燭台を一つ借り、指輪を光へかざした。
「〈星海の涙〉は光を通すと、石の奥に六条の星が浮かびます。この石には四条しかない。それに、本物の台座の内側には三日月形の傷があるはずです。十年前、私が研磨した際につけてしまったものですから、間違えようがありません」
ざわめきが広がった。
王家の宝を偽物と取り替えた者がいる。
その事実より早く、ミレイユ様の白い指が私を指した。
「では、犯人はあなたではなくて? 宝物庫へ入れたのは、王太子殿下と鑑定士であるあなただけなのでしょう?」
「保管箱を最後に確認したのは三日前です。その時点では本物でした」
「鍵を持っている者の言葉など、証拠にならないわ」
もっともな指摘だった。
しかも私の腰にあるはずの銀の鍵は、なぜか消えていた。
衛兵が私の作業室を調べると、机の奥から青玻璃の削り屑と、宝石商から受け取ったらしい金貨の袋が見つかった。
どちらも見覚えがない。
「リディア・セルジュ。国宝窃盗の疑いにより、鑑定士の任を解く」
アルベルト殿下は、私をまっすぐ見ようとしなかった。
「三日だけ猶予を与える。それまでに本物を差し出せなければ、正式に裁判へかける」
三日。
国宝を探し、私を陥れた者を突き止めるには、あまりにも短い。
それでも私は頭を下げた。
「承知いたしました」
広間を出たところで、もう一つの別れが待っていた。
婚約者のセドリックが、柱の陰で私を待っていたのだ。商家の三男である彼との婚約は、父が生きていた頃に決められたものだった。
「リディア、婚約を解消してくれ」
彼は私の顔を見る前に言った。
「まだ疑いをかけられただけよ」
「国宝を盗んだ女と結婚するわけにはいかない。うちの店まで信用を失う」
「私が盗んでいないことは、あなたも知っているでしょう?」
「知っていることと、信じられることは違う」
そう言い残し、彼は去った。
雨の降る王宮前で、私は初めて膝から力が抜けた。
職も、名誉も、結婚の約束も、一夜で失った。
「立てるか」
頭上に傘が差し出された。
見上げると、黒い外套をまとったエドガー公爵がいた。北部に国内最大の鉱山を持つ人物で、私が王宮に仕える前、三年間働いていた場所の主でもある。
「なぜ、ここに」
「婚約披露宴に招かれていた。君が会場中を敵に回す瞬間も見ていた」
「私は事実を申し上げただけです」
「だから君らしいと思った」
彼は手を差し出した。
「私は君の目を信じる。三日で、本物を探そう」
「私を信じれば、公爵家まで疑われます」
「宝石を見るたび値段しか考えない王太子より、鉱石を見るたび生まれた土地を語る鑑定士のほうが信用できる」
昔、鉱山で働いていた頃。私が原石の一つ一つに夢中になって話すと、彼は呆れた顔をしながら、いつも最後まで聞いてくれた。
「それに、君の無実を証明しなければ、私は一生後悔する」
その言葉の意味を尋ねる前に、彼は馬車の扉を開いた。
公爵邸で、私たちは偽物の指輪を再現した職人を探した。
青玻璃はありふれた素材だが、王家の紋章が刻まれた台座を作れる職人は限られる。私は削り屑の粒を指先で潰し、わずかに混じった銀の粉を見つけた。
「この銀には北海の黒砂が含まれています。王都で扱う工房は三軒だけです」
三軒を回り、最後の老職人が口を開いた。
「顔は見ていない。青薔薇の香水をつけた女が、王家の型を持ってきた。代金はバルフォア商会の手形だった」
青薔薇の香り。
婚約披露宴でミレイユ様がまとっていた香りと同じだった。
だが香水だけでは証拠にならない。
バルフォア商会を調べると、二日後に外国商人だけを集めた秘密競売会が開かれることが分かった。出品目録には、名も由来も伏せられた「海色の大宝石」がある。
「罠かもしれません」
「それでも行くしかない」
エドガー様は、自分の胸元にあった公爵家の徽章を外し、私の掌へ置いた。
「競売では君を私の代理人として通す。これがあれば、誰も止められない」
「これほど大切なものを、私に?」
「十年前にも言った。価値の分かる者に預けるのが、一番安全だ」
その夜、私は眠れなかった。
疑われるのには慣れている。女に宝石の価値が分かるものかと笑われるたび、技術だけで黙らせてきた。
けれど、理由もなく信じてもらったことはなかった。
翌晩、私たちは異国の商人に姿を変え、地下の競売場へ入った。
最後の品として現れた青い宝石に、会場の視線が集まる。
燭台の光を受け、石の奥に六条の星が浮かんだ。
私は息を止めた。
「本物です」
台座の底には、私だけが知る三日月の傷があった。
だが競売人が槌を上げた瞬間、背後の扉が一斉に閉まった。
「やはり来たか、リディア」
暗がりから現れたのは、王太子アルベルト殿下だった。
*
「殿下が、なぜここに」
「私の品を盗もうとする者を捕らえに来ただけだ」
アルベルト殿下の背後から、王宮騎士たちが現れた。剣先は私とエドガー様へ向いている。
競売人は青い宝石を箱へ戻すと、殿下に恭しく差し出した。
「それは王家の国宝です。殿下の品ではありません」
「いずれ王になる私の物だ」
ようやく分かった。
殿下は盗難を調べに来たのではない。最初から、ここで私を待っていたのだ。
「偽物へのすり替えを命じたのは、殿下ですね」
「証拠があるのか?」
「今の言葉で十分です。私しか知らないはずの競売へ、騎士を連れて現れた」
殿下の口元が歪んだ。
「口の減らない女だ。だから、お前を王宮から追い出したかった」
王太子は多額の賭博の借金を抱えていた。国庫からは出せない。そこで国宝を売り、精巧な偽物を婚約指輪として公の場に出す。もし誰かが気づけば、鑑定士に罪を着せる。
「では、ミレイユ様も共犯なのですね」
「彼女は私の婚約者だ。当然、私に従う」
「従わせた、の間違いでしょう」
別の声が響いた。
閉じたはずの扉の上、貴賓席にミレイユ様が立っていた。青薔薇の香りが、冷たい地下室へ流れ込む。
「ミレイユ、なぜここにいる」
「あなたが今夜、私を国外へ逃がすと約束したからですわ。ですが用意されていた馬車の行き先は国境ではなく、王都の監獄でした」
彼女は震える手で書類の束を掲げた。
「こちらは殿下がバルフォア商会へ送った売却の指示書。王家の封蝋も、署名もあります。こちらは偽物の台座を作るため、私に渡した王家専用の刻印具です」
「黙れ!」
「私一人に罪を着せるおつもりだったのでしょう。ならば私も、あなたに従う理由はありません」
ミレイユ様は書類を下へ投げた。
エドガー様が受け取り、騎士たちへ見えるよう広げる。命令書には、王太子の署名と、借金の返済先まで明記されていた。
それでも殿下は笑った。
「私を裁ける者などいない。そこにいる騎士は全員、私の命令で動く」
「本当にそうでしょうか」
エドガー様が指を鳴らした。
騎士たちは一斉に剣を下ろし、今度は王太子を囲んだ。
「王命により、国宝の行方を追っていた近衛隊だ。あなたの私兵ではない」
競売人が逃げようとしたが、入口で捕らえられる。王太子は顔色を失った。
「父上が、私を疑ったというのか」
「国王陛下はリディア殿を疑っておられませんでした」
近衛隊長が答えた。
「疑われたふりをさせ、犯人に国宝を動かさせたのです。三日の猶予は、そのためでした」
私は驚いてエドガー様を見た。
「知っていたのですか?」
「途中からは。だが、君を信じたのは、その前だ」
それだけは、いつもの落ち着いた声で言った。
私は競売台へ上がり、〈星海の涙〉を両手で受け取った。光に透かすと、六条の星が揺れる。台座の底には、若かった私の失敗の跡がある。
傷があるからこそ、本物だと証明できた。
欠点は、ときにその物だけが持つ証になる。
翌日、王宮で正式な審理が開かれた。
アルベルト殿下は王位継承権を失い、北の離宮へ送られることになった。バルフォア商会は営業停止。偽の証拠を私の作業室へ置いた者たちも処罰された。
ミレイユ様は共謀の責任を問われたものの、証拠を差し出したことで修道院での謹慎となった。
「リディア・セルジュ」
国王陛下が玉座から告げる。
「そなたの名誉を回復し、王宮宝石鑑定士へ復職させる。望む褒賞を申してみよ」
以前の私なら、迷わず珍しい原石を願っただろう。
だが今は、目に見えないものの価値も少しだけ分かる。
「三つ、お願いがございます」
広間がざわめいた。褒賞を三つ求める者など、まずいない。
「一つ。国宝の保管記録を、複数人で確認する制度へ変えてください。一人だけが鍵を持つ仕組みでは、同じことが起こります」
「よかろう」
「二つ。宝石職人と鑑定士を、性別ではなく技術で採用する試験を設けてください」
「それも認める」
「三つ。しばらく王宮を離れ、北部の鉱山を調査する許可をください」
その瞬間、列席者の中にいたエドガー様が目を見開いた。
国王陛下は愉快そうに笑った。
「それは褒賞というより休暇だな。好きにするがよい」
審理の後、回廊で元婚約者のセドリックに呼び止められた。
「リディア、誤解だった。婚約を元に戻そう」
「何を誤解したの?」
「君が犯人だと……」
「私は最初から、盗んでいないと言いました」
「家を守るためだったんだ」
「ええ。あなたはあなたの家を選んだ。私は、私を信じてくれた人を選びます」
彼に返した婚約指輪は、小さいながら傷一つない透明な石だった。
美しいけれど、私にはもう価値を感じられなかった。
それから一月後、私はエドガー様と北部の鉱山へ戻った。
秋の山は黄金色に染まり、坑道の入口には懐かしい土と金属の匂いが満ちていた。鉱夫たちは私を見るなり、仕事そっちのけで集まってきた。
「先生、お帰りなさい!」
「今度はいつまでいてくれるんです?」
「陛下から一年の調査許可をいただきました」
歓声が上がる。
王宮では肩書で呼ばれていた。ここでは、石の見方を教えた者として覚えられている。
夕暮れ、エドガー様に古い採掘場へ呼び出された。
十年前、私たちが初めて会った場所だった。
「渡したいものがある」
彼が小箱を開く。
中にあったのは、淡い蜂蜜色の結晶を留めた指輪だった。宝石は少し歪み、内部に細い亀裂が走っている。
「これは……」
「君が初日に拾った黄水晶だ。価値がないと捨てられそうになったものを、君は一晩かけて磨いた」
「まだ持っていたのですか?」
「私にとっては、あの鉱山で見つけた何より価値のある石だ」
エドガー様は片膝をついた。
「私は言葉が足りず、十年も君を王都へ行かせた。今度はきちんと言う」
いつも揺らがない彼の手が、わずかに震えていた。
「リディア。私と結婚してほしい。公爵夫人として飾っておくためではない。鉱山で共に働き、同じ石を見つけ、同じ未来を選ぶ相手として」
私は指輪を光にかざした。
亀裂の中で、夕陽が小さな虹になる。
「完璧な宝石ではありませんね」
彼の表情が固まったので、私は笑った。
「でも、世界に一つしかない。本物です」
「では、返事は」
「お受けします」
指輪が私の指にはめられる。
王家の国宝ほど高価ではない。けれど、その重みはどんな宝石よりも確かだった。
偽物を見抜くことには自信があった。
それなのに、十年もそばにあった本物の想いには、気づけなかったらしい。
「エドガー様」
「なんだ」
「これからは、言葉を惜しまないでください」
「努力する」
「私も、見えるものだけで判断しないよう努力します」
彼は私の手を取り、傷のある黄水晶へ口づけた。
夕陽の中で、その小さな石は六条の星よりもあたたかく輝いていた。




