「この世界の氷は花にならない。」~異世界から来た彼女がコンビニの前で泣いていた理由~
はじめまして。 数ある作品の中から目を止めていただき、ありがとうございます。
魔法という特別な力が、退屈な日常に溶けて消えていく瞬間の切なさを描きたくて執筆しました。
短いお話ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
転校生がやってきた初日のことだ。彼女は教壇の前に立ち、黒板の代わりに窓の外の雲をずっと眺めていた。先生が自己紹介を促すと、彼女はようやく重い口を開いた。
「アリア……いえ、佐藤凛です。魔力の低い場所は初めてなので、少し目眩がします」
教室に一瞬の静寂が流れ, やがてクスクスという失笑が漏れ出した。クラスメイトたちは, 彼女をすぐさま『変わった奴』だと分類した。
昼休み、凛の周りに野次馬が集まった。彼女は机の上にコンビニの三角おにぎりを置き、まるで精巧な爆弾でも解体するかのような深刻な表情でフィルムを睨みつけていた。
「なあ佐藤、お前マジでそういうコンセプトなの? さっきの魔力云々とかさ」 後ろの席の男子がニヤニヤしながら尋ねる。
「本当は異世界から来たとか? 魔王でも倒しに来たのかよ」
子供じみたからかいにも、凛は動じなかった。半分破れたおにぎりの海苔をぼんやりと見つめながら、無造作に答えた。
「魔王なんていない。私の世界はただ……静かに終わっただけ」 「うわ、設定作り込んでるなあ。じゃあ魔法見せてよ。手から火が出るとかさ」
隣の女子が彼女の手を小突いた。凛はじっと自分の手のひらを見つめ、それから真剣な顔で指を弾いた。パチンと小さな音が鳴るだけで、何も起きなかった。
「だめね。ここは魔力がない」
凛の答えに、クラスメイトたちは「マジでウケる」「重度の厨二病じゃん」と勝手に騒ぎながら散っていった。彼らにとって彼女は、退屈な学校生活における束の間の見世物に過ぎなかった。
転校生はいつも屋上の柵に座っていた。制服のスカートの裾が風に揺れるたび、彼女はこの世界から今にも消えてしまいそうなほど危うく見えた。
彼女は自分のことを時々『アリア』と呼んだ。凛はコンビニで売っている百五十円の氷カップを好んだ。授業中も、休み時間も、机の上にそのカップを置き、氷が溶けていく過程を黙って見守っていた。
「私の故郷ではね」 凛は透明な氷の塊を見つめて言った。 「心を込めて手を伸ばせば、氷が花の形に咲いたの。青くて、とても香りのいい花だったわ」
私は彼女の言葉を信じなかった。この世界の物理法則は冷酷だ。氷はただの水が固まったものに過ぎず、温度が上がれば溶けて消える無色無臭の塊だ。
「魔法がないのね、ここは」 凛がおにぎりのフィルムをぎこちなく引っ張った。ジジッという嫌な音と共に海苔が破れ、米粒が床に落ちた。彼女は泣かなかった。ただ破れた海苔を見つめ、淡々と付け加えた。 「フィルムを剥がすことさえ、魔法より難しい」
凛は学校の近くの古いマンションに一人で住んでいた。両親のことを先生に聞かれると、彼女は「遠い所にいます」とだけ答えた。
その『遠い所』が飛行機で行く外国なのか、それとも夜空の座標すら分からない別次元なのか、私は聞かなかった。
中間テストが終わった日の午後だった。いつもなら屋上へ向かうはずの凛が、なぜかカバンを持って校門を出た。私は吸い寄せられるようにその後を追った。
「ついてくるの?」 凛が立ち止まって聞いた。戸惑う私の目の前に彼女が差し出したのは、コンビニのレジ袋だった。中には相変わらず氷カップが二つ入っていた。私たちは学校の近くにある、今では誰も訪れない古い公園のベンチに座った。
「私の家, あそこだよ」 凛がストローで白いマンションを指差した。駅からも遠く離れた、外壁の塗料が剥げかけた古い建物だった。 「三〇三号室。窓越しに大きな銀杏の木が見えるから選んだの。故郷にあった木に似ていたから」
その日、私たちは特別なことは何もしなかった。ただベンチに座り、氷が溶けて少しずつ小さくなっていく音を聴いた。凛は指先でベンチに結露した水滴を繋ぎ、名もなき星座を描いた。
「あの木が全部色づく頃には、私もこの世界の色彩に慣れるのかしら」 凛の視線は三〇三号室の窓ではなく、そのさらに向こうにある遠い空に留まっていた。
夜になると、凛は校庭に一人で立ち、夜空を見上げていた。スマートフォンの明るい画面の代わりに、何もない虚空の一点をじっと凝視した。そこに彼女の滅びた王国があったのだという。
彼女の瞳がほんの一瞬だけ銀色に輝いた気がしたが、すぐに街灯の光に紛れて消えた。
「ホームシックか?」 私が尋ねると、彼女は首を振った。 「いいえ。魔法を忘れていく病気よ。昨日は火を灯す呪文を忘れた。今日は風を呼ぶ方法を忘れたわ」
時間が経つにつれ, 彼女は少しずつ普通になっていった。おにぎりのフィルムを完璧に剥がせるようになり、地下鉄の路線図を覚え, もう氷カップを買わなくなった。彼女はもう屋上の柵には座らなかった。
代わりに購買の列に並び, 他の生徒と同じように普通のパンを買った。
魔法を完全に忘れたようだったある日、彼女は私を見て初めて笑った。
「ねえ, もうフィルムの剥がし方を完璧に覚えたわ。この世界の魔法は、とても小さなものの中に隠れていたのね」
その笑顔はあまりにも人間らしくて、私はなぜか切なさを感じた。彼女が魔法を失っていくのではなく、この退屈な日常に『摩耗』していくように思えたからだ。
その夜, 凛は屋上ではなく、コンビニ前の街灯の下に立っていた。彼女はいつものように氷カップを揺らさなかった。代わりに空の手を静かに握り締め、そして開いて言った。
「ねえ、氷は必ずしも花になる必要はなかったのね」 街灯の光が彼女の肩の上で細かく砕けた。 「花は枯れるけれど、溶けてしまった水はどこへだって行けるから。私も、もう流れることに決めたわ」
それが最後だった。
翌日、教室に入ってきた担任の先生は、いつもと変わらない無機質な声で告げた。 「窓際の端の席、今日から片付けるぞ。元々空席だったからな」
私は勢いよく手を挙げ、尋ねた。転校生はどこへ行ったのか。佐藤凛はどこへ転校したのか。先生は理解できないという表情で私を見た。 「何を言ってるんだ? うちのクラスは学期初めからずっと二十九人だ。その席はずっと空いていただろう」
クラスメイトたちの視線が私に突き刺さった。彼らの目には訝しみしかなかった。凛の声、彼女が不器用にはがしたおにぎりのフィルムの音、氷カップのカラカラという音。それを覚えているのは、私だけだった。
私は狂ったように教室を飛び出し、学校の裏にある古いマンションへと走った。凛がいたはずの部屋は、ドアが大きく開け放たれていた。埃一つない清潔な床。誰かが住んでいた痕跡など微塵も感じられない、その静寂な空間の真ん中に。
ただ、コンビニの氷カップが一つだけ、ぽつんと置かれていた。
カップの中の氷は形もなく溶けていた。けれど、カップの内壁には, まるで精巧に細工された宝石のように透明な、青い花の形をした『霜』が結んでいた。
太陽の光が触れた瞬間に跡形もなく溶けてしまうであろう、この世界には存在するはずのない、青い氷の花の残骸。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
当たり前だと思っていた「日常」に馴染むことは, 誰かにとっては魔法を使うことよりも難しいことなのかもしれません。
凛が残した氷のカップは、きっと明日には溶けてなくなってしまいます。 けれど、彼女がこの世界にいたという確かな証が、読んでくださった皆様の心の中に少しでも残れば嬉しいです。
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