第7話 藤棚の雨やどり③
ぶどう棚みたいに枝を張った藤の蔓が、雨の大部分を受け止めてくれている。濃い緑の葉が雨粒を抱え込み、限界まで膨らんだところで、ぽた、ぽた、と地面へこぼしていく。
僕らはほとんど同時にその下へ滑り込み、藤棚の柱に背中を預けた。
頭上から落ちる雨粒は、藤の葉と花房のあいだを縫って細かな滴になり、砂利の上に小さな丸い斑点を増やしていく。さっきまで鼓膜を叩いていた暴力的な雨音が、ここでは少し柔らかい。
肩が大きく上下する呼吸が場違いに思えて、僕は意識して息を整える。そこでようやく隣の気配に目が向いた。
占奈さんの頬に、水滴が一筋残っていた。濡れた前髪が額にくっついていて、指先がそっと触れかけては引っ込む。髪の先は束になって制服の襟に貼りついている。
「占奈さん……大丈夫?」
自分の前髪から落ちた水滴を払いつつ、身体をわずかに向けた。膝が、ぎりぎり触れないところで止まる。
「へいき」
占奈さんは袖口の雨粒を、親指でつまんで落とすみたいに払った。小さく動く指先が、かすかに震える。
僕は鞄の口を探って、ハンカチを引っぱり出した。湿気を吸って、少しだけ柔らかい。
「良かったらこれ……使って」
「……ありがとう」
占奈さんは両手でそっと受け取り、迷うみたいに一瞬止まってから頬に当てた。白い布が水滴を吸って、頬の上に細い道ができる。目尻からこめかみ、首筋へ。顎のあたりも押さえて、ふぅ、と小さく息を吐いた。
首にハンカチが触れた瞬間、占奈さんがびくりと肩をすくめる。
「つめたい……」
ほとんど聞こえない声がこぼれて、すぐに照れたみたいに口元が結ばれた。
視線の置き場がなくなる。
占奈さんの制服は、ところどころ色が濃い。雨がしみた布が胸元や肩のラインをいつもよりはっきり浮かび上がらせていて、濡れた髪の束が貼りつくたび、境目がやけに目立つ。
見ちゃダメだ、と頭のどこかが言う。
分かっているのに、視線は勝手にそっちへ滑って、そこで止まってしまう。
慌てて藤棚の柱へ視線を逃がした。剥げた塗装の白い傷を、真剣に数える。
「……服も、びしょびしょ」
占奈さんが肩口をそっと押さえる。布が、ぺたり、と指に吸いつくみたいに沈む。
「さ、寒くない?」
自分でも声が変で、喉がもう一度鳴った。
占奈さんはハンカチを離して、僕のほうを見る。濡れた睫毛に引っかかっていた水滴が、ようやくぽとりと落ちた。
「……うん。大丈夫だよ」
その声が少しだけ震えていて、理由が分からないのが余計に胸に残る。
占奈さんはハンカチを丁寧にたたんだ。端と端を揃え、角をきゅっと摘まむ。胸の前で抱えるみたいに持ったまま、少し視線を落とす。
「ちゃんと、洗って返すね」
最後だけ、ほんの少し声が上ずる。耳のあたりまで、うっすら赤い。
「う、うん」
占奈さんは小さく首を振った。濡れた髪が藤棚の影でふわりと揺れる。
僕は折れた傘を持ち直し、柱に立て掛けた。
「……傘、壊れちゃったね」
ぽつりと落とされた声。
壊したのは風だ。僕でも占奈さんでもない。けれどきっと彼女は、自分の占いが不運につながったみたいに感じてしまう。そういうところがある。
占奈さんは胸の前で腕を組み直した。華奢な腕が自分を抱きしめるみたいに縮こまる。藤棚の影が、表情の半分をさらっていく。
藤の葉の匂いが、雨に濡れて濃くなっていた。
「きのうは、メガネで。きょうは、傘」
区切るたび、言葉が胸に落ちる。
「“傘=いいこと”って占ったのに……なんか、全部、逆みたい」
顔を伏せたまま言う。膝の上で握られた手が、布越しに小さく震えている。睫毛の先に、雨とは別のものが少し混ざった気がした。
僕は立て掛けた傘を見る。骨があり得ない方向へ曲がり、布は不自然な皺をいくつも生んでいる。見た目だけなら、たしかに「最悪」だ。
けれど。
一緒に帰ろうと、勇気を出して誘えたこと。
傘の内側で距離が近くなって、歩幅まで自然とそろったこと。
彼女の肩が何度も触れて、そのたび心臓がばくばくうるさかったこと。
思い返せば、数分のあいだに「いいこと」が積み上がってしまっている。
いいことは、もう起きている。
そう思ったら、出てくる言葉はひとつだった。
「……いいことだよ」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
顔を上げた占奈さんの目が、影の中で丸くなる。藤の葉からこぼれた一滴が地面で小さな輪を広げ、その揺れが瞳の中へ移るみたいだった。
「え……?」
「傘は、たしかに壊れたけど」
一拍置く。事実は否定しない。否定しないまま、視線の向きをそっと変える。
「でも、こうやって一緒に帰れて。……いまこうやって雨宿りできて……僕はうれしい」
頬が熱を帯びていく。恥ずかしい。慰めの言葉の形をしているのに、僕の欲が混ざっている。
「だから、占奈さんの占い、外れたって思ってない」
占奈さんのまばたきが、ゆっくりになる。
「……そんなふうに思ってくれるの、天夜くんだけだよ」
少し掠れた声。
「普通は、また壊れた。最悪。外れって思うと思う。……わたしも、そう思いかけてたから」
泣きそうな口元を必死に押し戻している。下を向いた拍子に、濡れた前髪が頬へ落ちた。
「……でも」
占奈さんは腕を抱きしめるように組み直す。制服の布が小さく鳴る。
「天夜くんがそう言ってくれて……」
息を吸って、肩がかすかに震え、それからゆっくり下りていく。
「……すごく、うれしい」
睫毛の奥に、さっきまでなかった光が戻っていた。
胸の奥がきゅっと狭くなる。何か言いたいのに言葉が見つからず、僕は小さく頷く。頷いた拍子に、前髪からまた一滴、水が落ちた。
しばらく、ふたりは言葉少なに雨を眺めた。藤の葉から落ちる滴は一定みたいで、よく聞くと一つひとつ間隔が違う。
ここだけ、時間の流れから少し外れた場所みたいだ。
「ここの公園の花壇ね」
静けさをほどくみたいに、占奈さんが口を開く。さっきまで曇っていた声に、少し張りが戻っていた。
「ときどき、すごくきれいにお花が入れ替わるの。落ち込んだときとか……よく見に来るんだ」
視線を藤棚の外、雨に揺れる花壇へ向ける。色は薄いのに、輪郭だけはくっきりしていて、赤や黄色や白が灰色の世界に浮かんでいた。
「お花、好きなの?」
「うん。好き」
即答だった。少し間をおいて、視線だけこちらに戻る。
「天夜くんは?」
半歩だけ近くなった体の向き。その小さな変化に、僕のほうがどきどきしてしまう。
問い返されて、一拍だけ迷う。どこまで言うか考えて、腹をくくった。
たぶん、占奈さんになら言っても大丈夫だ。
「僕も、す、好きです。……というか、うち、花屋なんだ」
占奈さんの目が大きく見開かれる。
「えっ」
表情がぱっと明るくなった。
「天夜くんち、お花屋さんなの?」
「うん。花屋と小さなカフェがくっついてて。母さんが花を仕入れて、父さんがコーヒー淹れてて。僕も、ときどき手伝ってて」
「……すごい」
本当に驚いた声。そこからゆっくり、綻ぶように笑った。
「どうりで、天夜くん、花の匂いがすると思った」
「えっ。する?」
思わず襟元をつまんで鼻先に近づける。自分では分からない。
「うん。たまに、ふわって」
そう言って、占奈さんは口元に手を当てて笑った。
むずがゆさと、少し誇らしい気持ちが胸に広がる。
「今度……行っても、いい?」
おずおずと聞く声。指先同士が、膝の上でそわそわと組まれてはほどける。
「もちろん。父さんも母さんも大歓迎なので」
即答してから、少しだけ言い直したくなる。
(できれば、“お客さん”じゃなくて……)
占奈さんの顔が、ぱっと明るくなる。
「やった」
小さく握った拳を胸の前でぎゅっと握り、慌てて膝の上でほどく。
「ねえ、天夜くん」
「うん?」
「天夜くんのお家の話だったから……今度は、わたしの番」
そう言って、深く息を吸う。
「うちもね、お店やってるの。駅からちょっと奥に入ったところで、小さい雑貨屋さん」
「雑貨屋さん」
「うん。輸入雑貨とか、お母さんがレザーで小物作ってて、それを並べたり。わたしも、ときどき手伝ってるよ」
話しながら、身振りが少し大きくなる。
「この水晶玉の下に敷いてる布も、端切れで作ったやつなんだ」
鞄から小さく折りたたまれた布を取り出して見せてくれた。水晶玉を包んでいた、あの布。縁の縫い目は少し不揃いなのに、丁寧に糸が揃っている。
「……じゃあ」
気づいたときには、口が先に動いていた。
「……じゃあ、今度は、僕が行ってもいい?」
「うちに?」
占奈さんが少しだけ身を乗り出す。藤棚の下の距離が、また半歩縮む。
「さっき、うちの店に来てって言ってくれたから……その、占奈さんのお店にも行ってみたい」
言った途端、鼓動が跳ね上がる。不安が一瞬で頭を駆け回る。
けれど占奈さんは、驚くほど素直に頷いた。
「絶対きて!」
迷いのない声。その奥にあるのは、たぶん期待だ。
「ふふ。楽しみ、増えちゃった」
藤棚の下、ふたりだけの小さな世界で、約束がひとつ増える。
小さな「いいこと」が、静かに積み重なっていく。
〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇
気づけば、雨脚はさっきまでの勢いを失い始めていた。
「そろそろ、行こうか」
腰を上げると、膝のあたりがじんわり冷えていたことに気づく。
占奈さんも鞄を抱え直して立ち上がった。
東屋から一歩外へ出ると、雲の端からわずかに陽が差していた。
遠くの空に、細い虹みたいなものがうっすらとかかっている。
「あ……」
占奈さんが見上げて、小さく声を漏らす。
「きれい」
「だね」
僕も視線を追う。公園の砂地に、ところどころ光の斑が落ち始めていた。さっきまで冷たかった空気が、少し柔らかい。
公園を抜けて住宅街へ続く道へ出る。雨に濡れたアスファルトが、白く曇った空を映している。
信号の手前で、占奈さんが足を止めた。靴底から水がきゅっと鳴る。
「ねえ、天夜くん」
「うん?」
「水晶玉、買いに行く日……決めたいなって思ってて」
信号の赤が横顔をうっすら照らす。濡れた髪が頬に貼りつきかけ、それを指先で払う仕草が妙に大人びて見えた。
「それと……さっきみたいに、お花のこととか、お店のこととか……もっと聞きたいなって」
言葉が少し渋滞している。
「あの……よかったら、連絡先、交換してもいい?」
最後だけ早口になった。
「交換したい!」
今度は迷わなかった。
僕はスマホを取り出す。指先が少し濡れていて、画面に水の痕が残る。
占奈さんもスマホを取り出し、胸の前で大事そうに両手で持つ。
ふたりで画面を寄せ合う。
『真理』
すぐに新しいトーク画面が開いた。小さな水晶玉のアイコンと「真理」の名前が並ぶ。
「……つながった」
零れた独り言は、雨上がりの空に吸い込まれていった。
「じゃあ、わたし、この先の角を曲がったらすぐだから」
「そっか。……気をつけて」
「うん。天夜くんも。今日は本当にっ……ありがとう!」
占奈さんは鞄をぎゅっと抱えて、小さく手を振る。指先だけがひらひら揺れた。
それから雨上がりの街路を、ぱたぱたと軽い足音を残して走っていく。角で振り返るかと思ったけれど、そのまま迷わず曲がって、視界から消えた。
僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
左手には、骨の折れた傘の残骸。
右のポケットには、新しく交換したばかりの連絡先。
傘は壊れて、天気予報は外れて。
それでも今日一日を振り返れば、どう考えても「いいこと」のほうが多かった。
今日の占いは、当たりすぎている気がした。




