おまけ 白羽の道しるべ
家に帰って、自分の部屋のベッドに腰を下ろした瞬間、張りつめていた何かがぷつんと切れたみたいに、全身の力が抜けた。
窓の隙間をすり抜けた外気が、走って火照った肌をなぞっていく。体はぐったり重いのに、胸の奥だけはまだ落ち着き場所を見つけられずにいた。
制服のボタンに手を伸ばしかけて、指が止まる。
代わりに胸ポケットからスマホを取り出した。
公園で撮ったはずの動画。白いカラス。占奈さんに見せるための「証拠」。
……の、はずだった。
カメラロールを開き、さっきの一本を選んで再生する。
画面が揺れる。足音。荒い息。葉擦れ。
ぶれる視界の中で、遊歩道や池や鳥居が流れていく。
そして、唐突に画面がぐっと近づいた。
路地の角から何かが飛び出してくる。
占奈さんの顔。
驚いて目を丸くして、頬が赤くなりかけていて、目の縁がうっすら潤んで見える距離。
「……うわ」
情けない声が漏れて、反射で停止ボタンを押した。
動画は止まったのに、胸の鼓動だけが加速していく。
(なにこれ……)
顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。
なのに、どうしようもなく嬉しい。
白いカラスを撮るつもりだった。
「ほら、本当にいたよ」って見せるつもりだった。
でも今、もう一度再生したくなってる理由は、白いカラスじゃない。
占奈さんの顔が、もう一回見たい。
そう認めた瞬間、胸の内側がくしゃくしゃにかき回される。
だめだろ、これは。
理性がブレーキを踏もうとするのに、すぐ隣で「一回くらいなら」と甘い声がささやく。
僕は小さく息を吸って、結局、もう一度再生を押した。
揺れる視界。走る足音。
角を曲がる。ぶつかる。
そして、占奈さんの顔。
驚いて、目を見開いて。
何かを言いかけて、言葉になる前にぶつかって。
見慣れたはずの流れなのに、心臓だけが勝手に次の拍を早める。
慌てて一時停止を押す。
画面が、占奈さんの表情を切り取ったまま静かに止まった。
「…………」
しばらく、言葉が出ない。
ぶつかって、痛い思いをさせた。
水晶玉に、ひびまで入れた。
本当なら、この動画だって消してしまうほうが誠実なのかもしれない。
そう分かっているのに、指は削除マークへ動かなかった。
代わりに、ほんの少しだけ巻き戻して、ぶつかる直前で止める。
画面の中で、占奈さんがこちらを見ている。
驚きと、次の瞬間を知らない目。路地で見た、あの近さのまま小さな四角に閉じ込められている。
僕は迷う。
(いや、さすがにこれは……)
人としてどうなんだ、とか。
誰かに見られたら死ぬ、とか。
それでも、明日の朝また会うまでのあいだ、手の届くところに一枚だけ置いておきたい、と思ってしまった。
目を閉じて、短く息を吐く。
覚悟をごまかすみたいに、指を動かした。
スクリーンショット。
動画の一瞬が、一枚の写真になる。
驚いた顔の占奈さんが、新しいサムネイルとして並んだ。
その小さな一枚をしばらく見つめてから、僕は息を吐いた。
「……ちょっとだけ、だから」
誰に言い訳しているのか分からない。
それでも、その画像を「お気に入り」に入れるマークをタップした。
親指が画面から離れても、胸の奥では、さっき路地で聞いたはずの心臓の音が、まだしぶとく続きのリズムを刻んでいた。




