第4話 白羽の道しるべ④
柔らかく包まれたのに、逃げ場のない衝撃が胸の正面にずしんと入った。肺の空気が押し出され、息が途切れる。視界が一瞬白くはじけ、その縁で黒いフレームがくるりと放物線を描いてアスファルトを転がった。
「……いたた……」
すぐ近くで、小さな声。
尻もちをついたまま顔を上げると、同じように座り込んだ女の子がいた。胸の前でカバンを抱え、ぽかんとこちらを見上げている。輪郭はまだ滲んでいるのに、淡い藤色の髪だけがやけに鮮明だった。毛先が揺れるたび、目がそちらへ引かれる。
スカートの端が僕の膝に触れていた。布が触れただけなのに、その一点が熱を持って、遅れて心臓が跳ねる。近い。逃げ場のない近さ。
「あれ……天夜くん?」
名前を呼ばれた瞬間、胸の中が跳ね上がった。喉が一気に乾く。さっきまで走っていた鼓動とは違う速さで、心臓が勝手にリズムを変える。
「……え、占奈さん……!?」
名前が口を突いて出た途端、ぶつかった痛みも、追っていた白いカラスも、視界の端へ押しやられた。今ここに占奈さんがいる。それだけで頭がいっぱいになる。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
自分でも驚くほど大きな声が出る。立ち上がろうとして膝が笑い、手をついたアスファルトの硬さが手のひらに食い込んだ。それでも体を起こし、一歩近づいて、手を伸ばしかけて止める。
「どこかぶつけてない? 痛いところ……」
占奈さんはカバンを抱えたまま、こくりと頷いた。
「だ、だいじょうぶ。びっくりしただけ……カバンがクッションになってくれたから……」
頬は赤く、息は少し乱れている。でも痛みをこらえる気配はない。それだけで胸の奥がほどけて、心底ほっとする。
「天夜くんこそ……大丈夫? メガネも」
視線が僕の手元へ落ち、ひびの入ったレンズに気づいた瞬間、占奈さんの目がまんまるになる。
「あ、これは……予備あるから。平気」
反射で言った。本当は平気じゃない。でも今気になっているのは、眼鏡のひびより、この路地で向かい合ってしまっている時間だった。壊したくないのは、こっちだ。
僕はもう一度、きちんと頭を下げる。
「ほんとごめん。前、見てなくて」
「わたしも……飛び出しちゃったから」
占奈さんは申し訳なさそうに唇を噛み、視線を落とした。耳のあたりまで赤い。
「ところで……そんなに急いでどうしたの?」
探るような声に、僕は息を整えながら空を見上げる。白い影は、もういない。
「白いカラスがいて」
「白い……?」
「うん。公園の木に止まってて。動画撮ろうと思って」
そこで一瞬だけ言葉が詰まる。でも飲み込めなかった。
「……占奈さんに、見せたくて」
言った途端、頬の内側が熱くなる。視線の置き場が分からない。
「わ、わたしに……?」
占奈さんの瞳が揺れる。うつむきかけて、またおそるおそる見上げてくる。その揺れだけで胸の温度が上がった。
「それって……今日の“カラス”……?」
占奈さんはカバンの口を開き、そっと手を差し入れる。取り出したのは、朝と同じ水晶玉だった。夕方の光が表面を細く滑り、途中で不自然に途切れる。
水晶玉に、細いひびが一本。
「……ひび、入っちゃった」
指先がきゅっと強くなる。
僕も、ひびの入った眼鏡を握ったまま胸の奥が冷える。手の中のひびと、彼女の手の中のひびが、同じ理由で生まれたことが重い。
「……ごめん。僕がぶつかったから」
占奈さんはすぐ首を振った。小さいのに、はっきりした否定。
「ちがうよ。天夜くんは悪くない。わたしも飛び出したし……それに」
言葉が途切れ、視線がひびへ落ちる。指先がその線をなぞるみたいに動く。
「カラス=いいこと、のはずだったのに……メガネも壊しちゃったし、水晶玉も……やっぱり、外れちゃったのかな」
外れ。
昇降口で聞いた言葉が、もう一度胸に刺さる。
占いを信じたいわけじゃない。根拠のないものを受け入れるのは性に合わない。
それでも、占奈さんがその一言で、自分の占いも気持ちも畳んでしまいそうなのは、見ていられなかった。
うまい励ましはない。器用な説得もできない。
それでも、喉の奥から押し出される言葉があった。
「僕が……新しいの、買う」
自分でも驚くほど、はっきりした声。占奈さんがぱっと顔を上げる。
「え……?」
「水晶玉。僕がぶつかってひび入れたし……また占ってほしいから」
頭の隅で、バイトや貯金の数字がよぎる。安くないのは分かる。
でも今は引き算より、「もう一度」が勝っていた。
「天夜くん……」
名前を呼ぶ声が、柔らかい。
「でも、水晶玉って……けっこう高いんだよ?」
「……う」
言葉に詰まる。それでも引き下がりたくない。
けれど占奈さんは、ふっと息を吐くみたいに笑った。
「ごめんね。大丈夫だよ。……お母さんにお願いするから」
水晶玉を胸の前へ抱え直す。安心した色が、目の奥に混ざる。
「……でもその代わり」
占奈さんの右手が、水晶玉から離れて、こちらへ伸びる。迷うように止まり、それから制服の袖に触れた。
布がわずかに引かれ、時間が動く。
占奈さんは袖を、つまむというより、すがるみたいにそっとつまんだ。そこから伝わる体温が、やけに鮮明だ。
「一緒に、選んでほしい」
息が浅くなる。断る理由なんてないのに、返事の形が見つからない。
視線を下げれば細い指と白い手首。上げれば期待と不安の混ざった瞳。
「……いいんですか?」
気づけば敬語になっていた。
「うん。だって……」
占奈さんは袖をつまんだまま、目を少し細める。照れたように、それでも嬉しそうに声を落とした。
「いちばん占ってるの、天夜くんだもん」
その一言が、真正面から胸に落ちた。
嬉しいのに恥ずかしい。逃げたいのに逃げたくない。全部まとめて心臓のあたりに押し込まれる。
「……じゃ、じゃあ……よろしく、お願いします」
よそよそしい敬語しか出てこない。けれど言った瞬間、指先の力がふっとやわらぐ。
占奈さんの口元が、ほどける。
「約束、だね。……楽しみ。天夜くん、また明日ね」
袖から指がそっと離れる。布が戻るだけなのに、残っていた温度までほどけて、妙に心細い。
占奈さんは水晶玉をもう一度大事そうに抱え、布をかけ直す。その上から一度だけ確かめるように撫でて、小さく一歩下がった。
そして路地の角へ、小走りに向かう。細い足音が軽いリズムを刻み、リボンが一度だけ跳ねて、角の向こうへ消えた。
僕はしばらく動けなかった。手のひらには、ひびの入った眼鏡の硬い感触だけが現実として残る。
それでも胸の奥は、不思議なくらい軽くて明るい。
ひび越しに見える街の輪郭は少し滲むのに、明日の朝の教室だけは妙にはっきり浮かぶ気がした。
右斜め前の席。水晶玉を抱える占奈さん。
そして「一緒に選ぶ」という、たった今できた小さな約束。
これを「いいこと」と呼ばずにおく言葉を、僕は持っていなかった。




