第3話 白羽の道しるべ③
放課後の昇降口は、音が忙しい。
靴箱の扉がぱたぱたと閉まり、金具の触れ合う小さな音が跳ね、床をこする足音が重なっていく。六月の白い光はガラス越しにやわらいで差し込み、床の上に細長い四角形をいくつも並べていた。
僕は自分の靴箱の前で立ち止まり、金具をつまむ。
冷たい感触が指先から伝わって、胸のざわつきが少しだけ静まる。息をひとつ吐いて、扉を引いた、そのとき。
二つ先のロッカーが、ぱたりと軽い音を立てて閉じた。
反射的に顔を上げる。
上履きを胸の前で抱えた占奈さんが立っていた。こちらに気づいた瞬間、瞳がかすかに丸くなる。驚きの奥に、ほっとした色が差し込んで、その変化だけで胸の奥がじんわり熱くなった。
「……あ、天夜くん」
朝より少し控えめな声。
占奈さんは上履きを抱え直す。指先が布をきゅっと押さえたままほどけず、肩がわずかに上がる。言葉を探しているのが分かって、僕は視線を外せなかった。
「今日の“カラス”、何も起きなかったね」
口元が、笑みになりきる手前で止まる。朝の「いいこと、あるよ」と言い切った笑顔とは、ほんの少しだけ違って見えて、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……また、外れだね」
最後の一言だけ、音がふっと小さくなる。
「外れ」という響きが、思った以上に胸に刺さった。朝の光が、少し曇って見える。
何か言わなきゃ、と思うのに言葉が出てこない。靴箱の奥で並ぶ上履きの白さに視線を落とし、息を整えるふりをしながら、昼休みに聞いた声を探す。
――カラスでも、いいことあるかもしれないじゃん。
桜葉さんの言葉が、そのままの温度で浮かび上がった。
黙って流すこともできた。たぶん、いつもの僕ならそうしていた。
けれど僕は、金具に触れていた指先をそっと離す。かすかな揺れが音になり、そのままざわめきに溶けた。
「……まだ、これからかもしれないよ」
押し出した声は静かで、それでもまっすぐ占奈さんへ届いた。
占奈さんが、はっと顔を上げる。驚きと戸惑いが混ざった視線が、正面から僕を捉えた。
「え……?」
漏れた声が、さっきより少しだけ明るい。
「外れたって決めるの、まだ早いっていうか……今日、まだ終わってないし」
言葉を選びながら、それでも目は逸らさなかった。
占奈さんの頬が、ふわりとほどける。
「……そっかぁ」
こぼれそうだった「外れ」の影が薄くなる。抱えていた上履きが少し下がり、肩の力も抜けた。
「天夜くん、やさしいね」
その一言が胸の内側にまっすぐ届いて、照れくささより先に嬉しさが広がっていく。
「い、いや……」
否定しようとしたのに、言葉が続かない。
ただ、落ち込んだ顔を放っておきたくなかっただけだ。朝のまっすぐな笑顔を、今日のうちに曇らせたくなかった。
沈黙ごと包むように、占奈さんは小さく笑った。
「……ありがとう。じゃあ、またね」
囁くように言って、外靴へ足を差し込む。かかとを押し込む動きに合わせて身体が揺れ、胸元のリボンが跳ねた。その小さな揺れが目に焼きつく。
歩き出した占奈さんは、昇降口の角へ向かう途中で一度だけ肩越しに振り返る。短く、迷いのない動き。視線がこちらに触れ、確かに僕を見つけて、そっと前へ戻っていく。
軽い足音がざわめきに溶ける。角の向こうに姿はないのに、彼女がいた気配だけが薄く残っていた。
僕は背中が見えなくなるまで動けなかった。ようやくスニーカーに足を入れ、紐を結ぶ。力が入りすぎて、結び目が少しきつい。
――桜葉さん、ありがとう。
心の中でだけ、そっとつぶやく。
〇 ● 〇 ● 〇
校門を出ると、空気が一段軽く感じた。外の熱は肌に残っているのに、風が通り抜けるたび、胸に張りついていたものがほどけていく。
駅へ向かう大通りは、帰宅する人と車で忙しい。制服の背中が信号のたび塊になってはほどける。その流れに混ざりながら、横断歩道の手前で僕の足は自然と緩んだ。
本当なら、信号を渡ってまっすぐ駅へ。いつもの帰り道。
けれど今日は、昇降口での会話がまだ胸のあたりに残っていた。
「やさしいね」と言われたときの息苦しさと、嬉しさと、くすぐったさ。遅れてじわじわ効いてくる。
話せたこと。うまく言えたか自信はないけれど、朝の笑顔をもう一度こっちへ引き寄せられた気がすること。
その手応えが、自分でも驚くくらい誇らしかった。
信号の向こうで人の列が動き出しても、僕は白線の手前から前へ出なかった。
大通りから一本外れたところに公園がある。遊具と芝生と池を囲む遊歩道、その奥に小さな神社。放課後の賑やかさから少し切り離されたその一帯だけ、夕方が早い。
その静けさが嫌いじゃない。教室でも家でもない場所で、今日みたいに胸の内側だけがやけににぎやかな日は、なおさら。
気づけば、渡るはずの横断歩道をやり過ごしていた。信号の青を背中に置いたまま、歩道を曲がる。自分で選んだ、少しだけ遠回り。
公園の入口をくぐると、音の質が変わる。車のざわめきが遠のき、砂利を踏む靴音と、葉擦れの音が前に出る。木陰の土はひんやり湿っていて、草の匂いがゆっくり立ち上がった。
遊具のほうから子どもの声が小さく届く。けれど池へ向かうほど薄れ、視界は緑で満ちていく。
外が静まるぶん、胸の中のざわめきだけが、ゆっくり音量を上げた。
そのとき、頭の上で空気を押し分けるような羽音がした。
顔を上げると、黒いカラスが二羽、並木のあいだを斜めに切り抜けていくところだった。翼がひとかきされるたび、葉の隙間の光が一瞬欠けて、すぐ戻る。
――カァ。
一羽が短く鳴き、少し遅れてもう一羽が返す。影はふわりと高度を下げ、木々のあいだへ紛れ込んで消えた。
残るのは葉擦れと、砂利を踏む自分の足音だけ。
昇降口で言った自分の言葉が、ふっと戻ってくる。
──「外れたって決めるの、まだ早いっていうか。今日まだ終わってないし」
励ますつもりだった。
でも、いちばんその言葉に助けられてるのは、僕かもしれない。
今日が終わるまでは、「いいこと、あるよ」をもう少しだけ信じてみよう。
そう小さく決めた、そのときだった。
――カァ。
今度は背中のうしろで、短く割れる声。
反射的に振り返る。
遊歩道の脇に伸びた桜の枝の上に、一羽のカラスがとまっていた。
見間違いかと思った。
白いカラス。
羽根の縁が薄く透け、落とす影までやわらかい。さっきの黒いカラスの「普通さ」とは違う、現実から半歩ずれたみたいな姿。
喉の奥で息を呑む。
(これ……占奈さんに見せたい)
そう思った瞬間、体が動いていた。
ポケットからスマホを引き抜く。指先に汗がにじむのに、動きだけは軽い。カメラを立ち上げ、動画のマークへ親指を寄せる。
画面の中で白いカラスが小さく体を揺らした。ピントの丸がふらつきながら近づき、もう少しでその白さを捉えられそうになる。
重なりかけた、その瞬間。
白い影が、音ひとつ立てずに枝を離れた。薄い光をまとった羽がふわりと揺れ、並木のあいだへ吸い込まれていく。
「待って……!」
言った瞬間には地面を蹴っていた。焦りが胸の奥で弾け、理屈より先に足が前へ出る。
カラスは速い。
けれど走ることだけなら、自分だってそこそこ自信がある。
白い影を見失いたくない一心で、全力で足を回す。
「……っ!」
砂利を蹴る音が跳ねる。白いカラスは少し先を保ちながら、遊歩道のカーブに沿ってすい、と進んでいく。僕はその光のあとをなぞるように駆け抜けた。
池の手前で、水面からのひんやりした空気が火照った頬に当たる。白い影は縁ぎりぎりをかすめ、僕は柵すれすれの細い道を転ばないぎりぎりで踏み切る。息が荒く鳴り出しても、足だけは止まらない。
やがて、小さな神社の鳥居が見えてくる。白いカラスは手前で少し高度を上げ、石段の上空をふわりと越えると、鳥居の向こう、住宅街へ抜ける階段の上を横切った。
影を追って、神社の前をかすめる形で石段へ飛び込む。石を蹴る音が硬く跳ね、二段、三段と飛び降りる。
足裏の衝撃が強くなる。握り締めたスマホが汗ばむ。それでも速度は落とせない。
階段を駆け下り、アスファルトへ飛び出す。冷たい空気が頬を打つ。視界の端で、白い影が細い路地の角をひらりと曲がった。
逃したくない。その一念だけで、僕もブレーキをかけきれないまま角を曲がる。
――ドン。




