第2話 白羽の道しるべ②
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気がふっと軽くなる。
椅子の脚が床をこする音、弁当箱のふたが開く音、おかずの匂い。そこに笑い声がすべり込み、さっきまでの授業の静けさがあっさり裏返っていった。
窓際に人が寄り、前のほうでは机がくっつけられ、廊下へ抜けていく足音も混ざる。
そのざわめきの中で、占奈さんだけが静かに立ち上がった。
椅子を引く音も小さく、机の横をすり抜ける動きもほとんど音を立てない。急いでいるわけじゃないのに迷いがなくて、周りの慌ただしさから、そっと切り離されているみたいだった。
鞄を肩にかけ直し、廊下へ向かって歩き出す。
目だけが先に動いて、首が少し遅れてついていく。
弁当箱のふたに指をかけたまま、開けるタイミングを失っていた。
べつに、いつも気にしてるわけじゃない。
……いや、気にしてる日もあるけど。
今日はたまたま、目に入っただけで――そういうことにしておきたい。
……どこ行くんだろう。
「なぁ、天夜。聞いてるか」
呼ばれて、はっとした。
意識だけ廊下に置き去りだったみたいで、藤色の残像がまだ目の奥に貼りついている。
顔を上げると、萩村が椅子の背もたれに片肘を引っかけていた。
日焼けした腕、跳ねた前髪。いつもの顔。
「あ、ごめん。聞いてなかった」
誤魔化すみたいに笑って、弁当箱を開ける。手元に意識を落としておかないと、また視線が廊下へ持っていかれそうだった。
「今日、やけにぼーっとしてるな。何かあったか」
萩村の目が細くなる。こういうときだけ勘がいい。
箸でひと口、口に運ぶ。味はいつも通りのはずなのに、舌が鈍い。
ここで変な顔をしたら、余計に突っ込まれる。
「いや、なんでもない」
「その『なんでもない』が怪しい。教えろよ、友達だろ」
にやにやした視線がぐいっと近づく。
箸先が、弁当のどこにも落ち着かない。
朝の占い。水晶玉越しの距離。覗き込まれた目。言い切った直後の満面の笑顔。
占奈さんが頭から離れない――なんて、言えるわけがない。
言わない。言わない、はずだった。
萩村の「まだ?」みたいな目に、逃げ場がなくなって。
「その、今日の朝……占奈さんに占いしてもらって……」
言ってしまった、と遅れて理解する。喉の奥がかっと熱い。
「マジで? お前、占奈さんに占いしてもらってるの?」
萩村の声が一段上がる。面白いものを見つけた顔。
「ちょ、声……!」
焦って返した自分の声も高くて、余計にまずい。
周りの視線が一瞬だけ寄った気がして、耳の奥が熱くなる。
「え、占ちゃんと?」
すぐ隣から、よく通る声。
振り向くと、桜葉さんが箸を片手に身を乗り出していた。高めに結んだ桜色の髪が、少しだけ跳ねている。
桜葉さんは、じっとこっちを見て――口元をにやっと上げた。
「あー、そういうことねぇ。ごめんね、聞いちゃったし」
「え?」
喉がひゅっと細くなる。
「バレーの朝練行く途中に、教室の前通ったらさ。占ちゃんと天夜くん、向かい合ってた」
背中に冷たい汗がにじむ。
「……占いしてたんだ!」
声がまた上がる。桜葉さんの楽しさが、そのまま教室に飛び散りそうだった。
「ちょ、ちょっと声が……」
「あ、ごめんごめん!」
悪びれずに笑って、手をひらひら振る。
そのまま自分の輪からひらりと抜け、僕の机まで来て弁当箱をことんと置いた。
机の上に弁当箱が三つ。ここだけ急に三人席だ。
「一緒に食べていい? 詳しく聞きたい」
「いいよ」
萩村が当たり前みたいに答える。
……お前が決めるな、って言いかけて、桜葉さんの目に止められた。
子どもみたいにまっすぐで、楽しそうで、抵抗できない。
「……うん」
「ありがと、やった!」
桜葉さんは小さくガッツポーズを作って、すぐに身を乗り出す。
「でさ! 占いってなんだったの?」
朝の冷えた空気が、指先に触れるみたいに蘇った。
水晶玉のひんやりした光。近すぎた睫毛。笑う前の、ほんの少し真剣な顔。
「……カラス。いいことあるって」
言い終えた途端、胸の奥がむずがゆい。
「カラス? それだけ?」
桜葉さんが首を傾げる。結んだ髪がふわりと揺れた。
普通の反応だ、と逆に安心する。
「……うん。それだけ」
「へぇ〜」
萩村はあっさり言って、ご飯を口に放り込む。
一瞬だけ僕を見て、すぐ弁当に戻す。その軽さに、今は助けられる。
「カラスだけって、なんか占ちゃんっぽい。かわいいね」
桜葉さんがふふっと笑った。
言葉の端に、やさしい熱がついている。
「ていうかさ。私、占ちゃんに占ってもらったことないんだけど」
「え」
声が裏返りかけて、咳払いで誤魔化す。
「占い好きなのは知ってたけど、誰かにしてるの聞いてない! 朝から、しかも天夜くんにって」
身を乗り出して、最後に頬をちょっとだけ膨らませる。
「ずるいなぁ」
「ち、違うって。たまたま……朝、そういう流れになっただけで」
「ううん、ずるいずるい。私もしてもらいたい」
机を小さく、とん、とん。リズムみたいに。
「わがままだな、桜葉は」
萩村が笑いながら言う。
「は? うるさいよ、萩村」
「え、俺にだけ当たり強くね?」
言い合ってるのに、二人とも食べる手は止まらない。
妙におかしくて笑いそうになるけど、笑ったら矛先がこっちに来そうで、黙ってひと口を増やした。
桜葉さんの視線が、また僕に戻る。
「ね。天夜くん、占ちゃんの占い信じてるの?」
箸が止まりかけた。
ひと口が宙で迷う。
「……信じてないというか。よく分からないというか」
逃げた答えだ、と自分でも分かる。
「えー、占ちゃん可哀想」
責めてるわけじゃないのに、逃げ道が消える。
「でもカラスってさ」
萩村が挟む。
「ゴミ荒らしてるイメージしかねぇな」
「萩村、いまご飯中なんだけど」
「はい」
桜葉さんは、改めて僕のほうを向いた。
声のトーンを少し落として、そこだけ小さな静けさを作る。
「カラスでも、いいことあるかもしれないじゃん。
絶対ありえないって決めるより、当たるかもって思ってるほうが、楽しくない?」
その言葉が胸の奥に落ちて、じわっと広がる。
――いいこと、あるよ。
朝の占奈さんの声が、重なる。
僕は箸を握り直して、ようやく噛んだ。
味が、ちゃんと戻ってくる。
「俺も、面白いと思う」
萩村が軽く言って、喉を鳴らす。
その軽さにも、また少し救われた。
気づけば、二人の弁当箱は空っぽになっていた。
「もう食べ終わっちゃった」
桜葉さんが弁当箱を持ち上げる。
萩村も空の箱を軽く振って、得意げな顔をした。
「天夜くん、まだ全然あるじゃん」
覗き込まれて、ちょっと笑われる。
桜葉さんは椅子を引いて立ち上がった。
「じゃ、またね。ありがと。続き、今度また聞かせて!」
「おう」
萩村が手を上げる。
桜葉さんはそれに手を振って、僕にも視線をくれた。
「……うん」
少し遅れて頷く。
一歩離れたところで、萩村がぼそっと言った。
「……騒がしかったな」
「は?」
桜葉さんが振り返って、目だけで刺す。
萩村は笑って肩をすくめ、手をひらひらさせた。
「冗談冗談」
桜葉さんは軽い足音で、元の輪へ溶けていった。
僕は弁当箱を見下ろし、次のひと口を口に運ぶ。
占奈さんの「いいこと、あるよ」を、
信じてみたいな、と――さっきより少しだけ素直に思った。




