第13話 ふたりぼっちの水鏡⑤
ペンギンコーナーには、低い仕切り越しに大きなプールが広がっていた。ガラスの前には子どもたちが並んでいて、黒と白の影が横切るたび、いっせいに顔が動く。
占奈さんも同じで、空いた隙間を見つけると、そこへすっと入っていった。
「あ、あそこ空いてる」
追いかけようとして、占奈さんの足元が一瞬だけ引っかかるのが見えた。踵をそっと浮かせて、靴の中で足を入れ直すみたいな動き。
ガラスの前に並ぶと、ペンギンが水面を滑るように泳いでいった。水の中で体をひねって、向きを変えて、また伸びる。速いのに、どこか真面目な顔で、必死に見えるのが可笑しい。
「はーかわいい……」
占奈さんの声が、さっきより柔らかい。視線だけが忙しくて、笑いそうなのをこらえてるみたいな顔をしている。
僕もつられて、ガラスの向こうを追いかける。ちょうど一羽が大きく弧を描いて、勢いをつけた。
(あ、飛ぶ)
思った瞬間、水しぶきがガラスの上端を越えて、こちら側へ弧を描いた。頬と首元に、冷たい粒が当たる。
「きゃっ……!」
占奈さんがびくっとして、一歩引いた。
その足が、きれいに引けなかった。さっきから踵をかばうみたいに歩幅が小さかったのを、僕は思い出す。痛いのを誤魔化すみたいに、平気な顔で歩いてた。
濡れた床に踵が乗ったところで、靴がすっと浮きかける。浮いた踵を戻そうとして、足がもつれる。踏み直そうとした踵が靴の縁に引っかかって、半拍遅れた。
次の瞬間、足首がぐらりと傾いた。
「危ない!」
腕を伸ばしたけど、間に合わない。占奈さんが横に流れて、床に鈍い音がした。
周りの視線が集まるのが分かった。でも、そんなのどうでもよかった。
「大丈夫!?」
僕はしゃがみ込んで、占奈さんの背中と肩のあたりに手を回した。触れたところから熱が伝わってくるのに、占奈さんは唇をきゅっと結んだまま、足首のあたりを押さえている。
「……ごめん。ちょっと、ひねっちゃった、かも」
「謝らなくていいよ」
先にそれだけ言って、息を整える間もなく顔を見る。迷惑をかけたくないという感じの顔をしていた。
「立てそう?」
「……ゆっくりなら」
僕は反対側に回って腕を差し出した。占奈さんが体を起こそうとして、重さが一瞬ふらっと前へ来る。僕の肘の内側にそれを受け止める感触が残って、力を入れすぎないように手の位置を少しだけずらした。
立ち上がった瞬間、占奈さんの顔がきゅっと固くなる。すぐ戻そうとしているのが分かるのに、痛みは隠しきれない。
少し離れたところに、ベンチが見えた。水槽の前の人の流れから外れた場所で、座れそうな空間がちゃんと残っている。
「あそこまで行こう。つかまって」
「うん……」
占奈さんの指が僕の腕を掴む。
「……ごめん」
「大丈夫だよ」
歩幅を小さくして、占奈さんの足が出るタイミングに合わせて、僕の足も同じ速さに落ちる。
「ここ、座ろう」
占奈さんが腰を下ろす。息が一つ、遅れて出た。
僕は周りを見回して、案内の表示と売店の方向を確認する。
「氷、もらってくるね。ここで待ってて」
「ごめんね……」
立ち上がりかけたところで、占奈さんの声が細く追いかけてくる。
「占奈さんは悪くないよ!」
言ってから、僕はすぐに歩き出した。
● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇
戻ると、占奈さんは膝の上で手を組んだまま、足元を見ていた。僕に気づいて顔を上げるけど、笑おうとして、うまくいかない。
「ごめん、お待たせ」
顔を上げた目が、すぐに逸れる。
「足、出してみてもらっていい?」
「う、うん」
占奈さんが慎重に足を前へ出す。白い足首が、ほんのり赤い。捻った赤さだけじゃない。踵のあたりにも、擦れたみたいな赤が見えた。
靴ずれもしている。
占奈さんが僕の視線に気づいたのか、足を引っ込めようとする。
「大丈夫。少し冷やそう」
「……うん」
氷嚢をそっと当てる。冷たさに、占奈さんの息が一瞬だけ詰まった。
「ごめん、冷たいよね」
「だ、大丈夫」
僕は片手で踵を支えて、氷嚢がずれないように押さえる。手のひらに、占奈さんの体温がじわっと返ってくる。
「ここ、痛い?」
「……ん。ちょっとだけ」
足首を少し動かしてみて、占奈さんが眉を寄せる。痛いのを我慢する顔というより、悔しい顔だった。
「……靴、今日、初めて履いたの」
ぽつりと言って、視線を落とす。
「かわいかったから。……見せたくて」
「似合ってた」
占奈さんが顔を上げる。驚いたみたいに目を丸くして、それから、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
氷を当てたまま、もう一度足首の角度を確かめる。大きくは腫れてなさそうだったけど、安心はできない。
「……だいぶ、楽になってきたかも」
「よかった」
「ありがとう、天夜くん」
僕は氷嚢を膝の上に預けて、横に置いていた紙袋を差し出した。
「あと、これ」
氷嚢を用意してもらっている間、売店の棚の前で足を止めたことを、占奈さんは知らない。
「さっき買ってきたんだ。占奈さん、好きかなと思って」
「えっ……?」
紙袋の中から、占奈さんがゆっくり手ぬぐいを取り出す。淡い水色の地に、クラゲとヒトデのイラスト。
「ヒトデとクラゲ、さっきずっと見てたから」
言いながら、自分でも少し照れくさくなる。
「……いいの?」
「もちろん」
「ありがとう……」
ハンカチを胸元にそっと抱き寄せる。
「歩けそう?」
「うん。……まだ少しだけ、痛いけど」
立ち上がるとき、占奈さんの手が僕の手元に近づいて、そこで止まった。迷う動きじゃない。ただ、確かめるみたいな間が一拍だけある。
ベンチから立ち上がろうとしたとき、占奈さんの手が僕の袖を軽くつまんだ。
そのまま指先がするりと滑って、僕の手に重なる。
「……あのね」
指先に力がこもる。
「ちょっとだけ、このままで……歩いても、いい?」
手を繋いだまま、という意味だと理解するまでに一拍かかった。返事をする前に、掌の中に伝わる鼓動の速さが、自分の鼓動と同じくらいになっていくのを感じる。
握り返す力が強くなりすぎないように注意する。それでも、まったく意識しないふりをするには、あまりにもはっきりとした温度だった。
歩き出すと、占奈さんの歩幅が僕に合う。痛みを避けるための慎重さが、逆に二人の速度を揃えていく。ガラスの向こうでペンギンが跳ねて、さっきの水しぶきの音が遅れて頭に戻ってくる。
占奈さんがふっと笑った。
「……ペンギン、元気すぎ」
「うん。びっくりした」
「天夜くん、濡れてた」
「占奈さんも」
言ってから、二人で小さく笑う。
水族館を出るころ、外の光が少し傾いていた。ビルのガラスに夕方の空が薄く映って、そこに重なるみたいに僕らの影も並ぶ。ガラスの反射が揺れて見えて、さっきまで見ていた水槽の水面の続きみたいだった。
「……ね、天夜くん」
「うん」
「今日は、すっごく楽しかった」
言い切ったあと、占奈さんは照れるみたいに視線を前へ戻した。嬉しさを隠そうとして隠しきれない横顔が、ガラスの反射に一瞬だけ重なる。
「僕も。……すごく楽しかった」
少しだけ恥ずかしいけど、だからこそ、言葉でちゃんと残したかった。
「天夜くんのメガネも買えたし」
「うん」
「私の水晶玉も……」
「……うん」
占奈さんはそこで少し間を置いて、僕の手を見た。
「占いも……当たったかな……」
“靴”。いいこと、あるよ。
思い出して、胸の奥が少し痛くなる。
「……占奈さん、怪我しちゃったのに」
僕が言うと、占奈さんは一瞬だけ止まった。
次の瞬間、占奈さんがぎゅっと手に力を込めた。
びっくりするくらいまっすぐな力で、逃げる余地がない。掌に伝わる体温が、押し返すみたいに濃くなる。
「……いいこと、だよ」




