第12話 ふたりぼっちの水鏡④
「……まだ、時間あるね」
窓の向こうで、休日の街がゆっくり流れていく。
「天夜くん、どこか行きたいところ、ある?」
占奈さんが、バッグの紐を指先で整えながら聞いてきた。
僕は言葉が出なくて、喉の奥で一回つかえた。
行きたいところ、じゃなくて「占奈さんを連れていけるところ」がぱっと浮かばない。休日の街に詳しいわけでもないし、変なところに連れていって微妙な空気にしたくない。
だから、正直に首を振った。
「えっと……ごめん。いま、すぐには思いつかなくて」
「じゃ、じゃあ……」
占奈さんが一度言葉を止めて、視線を落とす。落とした先で、つま先がほんの少しだけ動いた。
「わ、わたしばっかりになっちゃうんだけど……言っても、いい?」
「もちろん。占奈さんの行きたいところ、聞きたい」
どこだろう。占奈さんが好きな場所。占奈さんが「行きたい」って思ってた場所。
想像するだけで、胸の奥が少し軽くなる。
占奈さんは一回だけ息を飲んで、それから、ぱっと顔を上げた。
「近くの……水族館。ビルの中の」
一瞬、頭の中に青い光が浮かんだ。
街中にある、小さな水族館。名前だけは聞いたことがあるのに、入ったことはなかった。
「僕も行きたい。行ったことなくて」
「ほんと? やったぁ」
占奈さんが両手を胸の前で合わせて、にこっと笑う。嬉しさがこぼれるみたいに、頭が小さく左右に揺れた。
会計を済ませて外へ出ると、日差しがじわっと頬に貼りつく。
そのまま水族館の入っているビルへ向かった。
エスカレーターで上へ運ばれていくにつれて、街の音が薄くなっていく。代わりに、館内の静かな冷気が頬に触れて、さっきまでの熱がすっと引いた。
照明を落としたロビーの空気がふわりと流れ込んだ。昼のはずなのに、光だけが夜へ切り替わったみたいな場所で、占奈さんは小さく息を吸う。
「わあ……」
受付を抜けて一歩中へ進むと、青い光が壁と床に揺れていた。大きな水槽に切り取られた海の断片が、都市の真ん中に持ち込まれている。
銀色の小さな魚の群れが、反転する光を引き連れて一斉に向きを変える。それだけで、水槽の前にいた人たちが、同時に足を止めた。
「……きれい」
占奈さんはガラスに近づきすぎない距離で立って、じっと見入っていた。水面から落ちてくる揺らぎが、頬や髪に淡く映る。白いワンピースが青を受けて、ふわっと色を変えるのが、なんだか不思議で目が離せない。
「天夜くん」
名前を呼ばれて振り向くと、占奈さんがスマホを取り出していた。画面の明かりが指先を白く照らす。
「写真……撮ろっ」
「……う、うん」
返事をしたのに、足がすぐ動かなかった。水槽の前は人の流れがあって、どこに立つのが正解なのか分からない。僕が迷っている間にも、背後の魚は当たり前みたいに泳いで、青い揺れだけが次々に上書きされていく。
占奈さんはスマホを横にして、画面の中を確かめた。少しだけ首を傾けて、僕を見る。
「……遠い」
「え」
「もうちょっと……こっち」
小さく招かれて、僕は一歩だけ寄ろうとした。寄ろうとしたのに、途中で足の置き方がぎこちなくなる。
その間に、占奈さんが先に距離を詰めてきた。
僕の腕と占奈さんの腕が、触れそうで触れないところで止まる。画面の中には僕らの後ろに青い海が揺れていて、魚の群れがちょうど光を引き連れて横切った。
占奈さんは迷わず、指を画面へ伸ばした。
カシャ。
「……撮れた」
占奈さんはすぐに画面を確認して、それから、ほんの少しだけ息を吐いた。安心したみたいに肩がゆるむ。けれど、その表情が嬉しそうだったから、僕のほうが先に落ち着かなくなる。
「あとで送るね」
占奈さんはスマホを胸の前に寄せて、両手で包むみたいに持った。
「……次、行こ」
占奈さんはそう言って、スマホをカバンへしまう。
「うん」
占奈さんは先に歩き出した。水槽の前をするりと抜けて、振り返りもしないまま数歩進んでいく。
少し先で占奈さんが振り向いて、指を二回、ちょいちょいと動かした。
「天夜くん、早く」
軽く投げるみたいに言って、占奈さんはもう走り出していた。
「ちょ、占奈さん……」
呼んだのに届かない。人の間を抜ける音に紛れて、僕の言葉だけが薄くなる。
占奈さんは走りながら、ほんの一度だけ足元を気にしたように見えた。
それでも占奈さんは止まらない。白いスカートの裾が揺れて、髪が背中で跳ねる。人の流れの隙間を見つけるのが上手くて、するっと抜けていく。
少し先で占奈さんが足を止めて振り返った。手のひらを小さく上に向けて、こっちへ招く。
「こっち。こっち、見て」
示された先には、見下ろす形の浅い水槽がいくつも並んでいた。ガラスの縁が胸の高さくらいで、覗き込むと砂の色がふっと明るく見える。
その砂の上に、星型の影がいくつも、ぺたんと張りついていた。
「ヒトデだ」
「うん……なんか、かわいい」
占奈さんは身を乗り出しすぎない程度に前へ寄って、ガラスにそっと手を置いた。指先が少し開いて、掌がふわっと広がる。
ガラス越しのヒトデが、その手のひらとちょうど同じくらいに見えて、僕は一瞬、目を止めた。
占奈さんの手は、こんなに小さかったっけ。
ここまで意識したことがなかった。
「ちっちゃいの、好きなんだね」
口をついて出た言葉に、占奈さんは少しだけ照れて笑う。
「……うん。たぶん」
照れた笑いが小さく落ちて、占奈さんはもう一度だけ水槽の中を見た。
その横で、僕も同じ星の形を追いかけながら、ガラスに置かれた手のことばかりが気になってしまった。
「クラゲも、見たい」
占奈さんに言われて奥へ進むと、空気の色がもう一段だけ暗くなった。
次のコーナーには円筒状の水槽がいくつも立っていて、背景はほとんど黒。ガラスの柱だけが、内側から淡く灯っている。その中を、クラゲがふわり、ふわりと漂っていた。
どこへ向かうでもなく浮かんで、傘がひらいて、また閉じる。そのたび、光が押し出されたり、吸い込まれたりして、見ているだけで頭の中の余計な音が少しずつ薄くなる。
「……なんか、いいね」
「分かる……落ち着くね」
返事をしたあと、自分でも驚くくらい息がゆっくりになっていた。水槽の中のリズムに引っ張られて、まばたきの間隔まで伸びる。
僕はぼんやり、正直な感想を落としてしまう。
「ずっと見てたら、眠たくなっちゃうね……」
一拍おいて、占奈さんがこらえるみたいに口元を押さえる。
「寝ちゃダメだよ?」
「さすがに寝ないよ」
「ほんと?」
占奈さんがくすっと笑って、僕の顔を横目で見た。占奈さんは満足そうに口元を押さえて、またクラゲに視線を戻した。
……僕もつられて笑ってしまって、笑いが二人の間に静かに落ちた。
いくつかの水槽を回ったあと、占奈さんがふっと歩幅を落とした。
「ちょっと、休まない?」
「そうだね。この先に水槽見ながら休めるカフェあるみたい」
「うん。パフェがあるって」
即答に近くて、僕は思わず視線を上げる。楽しみにしていた気配が隠しきれていない。
「……楽しみにしてた?」
「う、うん」
占奈さんは小さく頷いて、それ以上は言い訳せずに前を向いた。
水族館併設の小さなカフェは、外の景色のかわりに大水槽がすぐ向こうにあった。席のすぐ奥を、魚が横切る。ガラス越しの光がテーブルの上を淡く流れて、時間だけがゆっくりになる。
「イチゴパフェと抹茶パフェで」
占奈さんが注文を告げる。
ほどなくして運ばれてきたパフェから、甘い抹茶と餡の匂いがふわりと立った。
「抹茶、好きなの?」
「う、うん。和菓子とか……こういうのも、好き」
占奈さんは上から順に崩さずに味を確かめていく。ひとすくい口に運んだ瞬間、目がふっと細くなった。
「おいひい……」
言い方が小さいのに、満足だけは隠せていない。僕は笑いそうになるのをこらえて、自分のイチゴパフェをひと口。甘さがきて、遅れて酸味が残る。
魚が一匹、ちょうど僕らの席の高さを横切っていく。占奈さんもそれを横目で追いながら、パフェの層をゆっくり混ぜていった。抹茶の苦みと甘さが溶けていくみたいに、さっきまでの緊張も、ここで少しずつほどけていく。
底が見えはじめたころ、占奈さんがスプーンをいったん置く。指先でグラスの縁をなぞるように整えてから、顔を上げた。
「ペンギンのところ、行ってみない?」
「そうしよ」




