第10話 ふたりぼっちの水鏡②
ビルを出ると、空気がむっと頬に張りついた。
「……暑いね」
占奈さんが額のあたりを指で軽く押さえて、細く息を吐く。結び目のリボンが、熱を含んだ風でふわっと跳ねた。
「わたし、日傘持ってきたの」
カバンが開いて、折りたたみ傘が出てくる。きちんと畳まれた布が、手の中でふくらみかけて、占奈さんが指で押さえた。留め具が小さくきゅっと鳴る。
「天夜くんも……入る?」
顔は伏せたまま。けれど、横目だけが一回、こっちを掠めた。
傘は小さい。僕が入ったら肩も腕もはみ出す。そういう問題より先に、距離が近いのが分かってしまう。
「だ、大丈夫」
声が思ったより硬く出た。
「そっかぁ」
占奈さんは、傘を開きかけていた指を止めた。折り目をなぞって、迷って、結局ぱちんと留め具を留め直す。
「じゃあ、できるだけ日陰、歩こ。ねっ」
言いながら、傘をバッグに戻す動きが妙に早い。戻したあと、空いた手が行き場を失って、スカートの端をちょん、とつまんで離す。
「……あ、こっち」
日陰へ小走りに移動して、振り返る。
「ほらーっ」
笑って手招きする顔が明るい。明るいのに、耳の先だけ赤い。
僕は追いかけて、追いつく直前で歩幅を少しだけ落とした。さっき言った「大丈夫」が、まだ口の中に残っている気がして、舌で一度だけ上唇をなぞって飲み込む。占奈さんに追いついた瞬間、足音が自然に揃ってしまって、それがまた照れくさい。
「次は、占奈さんの番だね」
「う、うん。……こっち」
占奈さんは少しだけ前に出て角を曲がる。大通りの音が背中に遠のいて、足元の音が丸くなった。
目的の店は派手じゃない。ガラス戸に小さな看板。控えめなのに、占奈さんの雰囲気と噛み合っている。
「……ここ」
占奈さんが取っ手に手をかける。指先が一瞬止まって、肩が小さく上下した。次の瞬間、そっと引く。
ちりん、と鈴が鳴って、その音が店の奥へすっと滑っていく。扉が閉まるまでのあいだに、外の熱が背中から抜けて、代わりに柔らかい空気が指先に触れた。
店の中は、落ち着く匂いがする。木と布と、どこか甘い金属の匂いが混ざっている。
小物やアンティーク調の照明、棚の一角には水晶玉やアクセサリー。光が当たる角度で、ガラスが違う顔を見せていた。
「あら、いらっしゃい」
奥から顔を出したのは、二十代半ばくらいの若い女性だった。
落ち着いた色のシャツ、髪はざっくりまとめていて、前髪だけを指で払う仕草が大人っぽい。なのに、目だけがやけに楽しそうだ。
「真理ちゃん、久しぶりね」
「こ、こんにちは。九重さん」
占奈さんがぺこりと頭を下げる。
「今日は一人じゃないのね。……あら」
九重さんの視線が僕に移る。反射で背筋が伸びた。
それを見て、九重さんの口元が、ふっと上がる。
「彼氏くんと一緒かい?」
「か、かれ……っ」
占奈さんの声が不自然に裏返った。
「ち、ちが……あの、お、とも、だちで……」
言葉が途中で崩れていく。占奈さんの耳が見る間に赤くなって、頬まで熱が広がっていく。
僕も何か言えばいいのに、喉が先に固まってしまう。
「あらそうなの」
九重さんは楽しそうに笑って、手をひらひらさせた。
「でも、いいね。お似合い。二人とも」
占奈さんが小さく息を詰める。僕の胸も、変な間隔で鳴った。
占奈さんは小さく息を吸って、僕のほうをちらっと見る。目が合いそうで、合わなくて、まつげが先に落ちた。
「あの……天夜くん。同じクラスの……」
言いかけて止まる。唇が一度きゅっと結ばれて、ほどける。
「……今日、一緒に来てくれたの」
言い終えたあと、占奈さんはバッグの紐を握り直した。指先が一度きゅっと力んで、それから、ほどける。
「へぇ。天夜くんね」
九重さんが僕を観察するみたいに見て、にやにやする。
「よろしく」
「あ、あの……よろしくお願いします」
九重さんは満足そうに頷いた。
「ゆっくり見てって」
「ありがとうございます」
その返事のあと、占奈さんが僕の袖をほんの一瞬つまんだ。引っ張られるほどじゃないのに、触れたところだけ熱を持つ。占奈さんはすぐ離して、視線を奥へ向ける。
「……こっち」
店の奥、ガラスの棚の中に水晶玉がいくつも並んでいた。同じ透明なのに、薄く違う色を含んでいる。光の吸い込み方も違って、見ていると視線が自然と落ち着いていく。
「……ね」
占奈さんが小声で言う。
「ここのお店ね、お母さんの作品も置いてあるんだ」
言いながら、指先で棚の端をなぞる。
「すごいね」
僕がそう言うと、占奈さんは小さく頷いて、口角だけが少し上がった。
占奈さんは棚の前で立ち止まり、少しだけ背伸びをした。つま先が浮いて、指がガラスに届きそうで届かない。占奈さんが肩をすくめて、照れたみたいに視線を泳がせたところで、僕は一歩だけ近づいた。
近づいたぶん、占奈さんの肩がわずかに上がる。すぐに下がって、占奈さんは何もなかったみたいに咳払いを一つした。
「……これと、これ」
占奈さんは棚の中の二つを指差した。
ひとつは、ほんのり紫を帯びた透明。もうひとつは、黄色味を含んだ、蜂蜜みたいな色。
占奈さんの指が、紫と黄色を行ったり来たりする。迷っているのに、目は真剣だ。
「どっちが、いいかな」
振り返って僕を見る。
僕は二つを順番に見て、もう一度占奈さんを見る。
「……紫」
言った自分の声が、思ったより小さかった。
「こっちがいい。占奈さんに似合う」
占奈さんは目を丸くして、それから、ふっと笑った。
「……うん。じゃあ、これにするね」
「え、もう?」
僕が言うより早く、占奈さんは頷いて、僕を見たまま視線をそらさない。頬は赤いのに、目だけがまっすぐだ。
「天夜くんが選んだから。これがいい」
言い切ってから、占奈さんは紫の玉を両手で受け取った。胸の前に抱えて、指を少しだけ締める。落とさないように、でも、離したくないみたいに。
占奈さんが玉を見つめて、ふっと笑った。笑う瞬間だけ肩がほどけて、その顔を見た僕のほうの力も勝手に抜けた。
九重さんがカウンターの向こうで、肘をついてにやにやしている。
「はいはい。決まりだね」
占奈さんは玉を胸の前で抱えて、少しだけ目を伏せてから、微笑んだ。
そのまま一拍、動かない。
僕も、何も言えないまま、息だけがゆっくり戻った。
「かわいい……」
占奈さんが、玉に向かって小さく呟く。
値札がちらっと見えて、僕は視線を外した。数を数える前に、九重さんの声が飛んでくる。
「お会計は、藍さんのとこに回しとくよ。真理ちゃんのお母さんにね」
「はい。ありがとうございます」
占奈さんは慣れた調子で頷く。けれど次の瞬間、視線が九重さんから外れて、足元へ落ちた。
そして、僕の背中に小さな手のひらが当たった。
「……いこ」
押す力は意外としっかりしていて、僕の身体が一歩前に出る。
「え、あ、うん」
振り返ると、占奈さんは僕の背中をもう一回、確かめるみたいに押した。目は店の出口のほう。頬は赤いまま、唇だけが「はやく」と小さく動く。
九重さんが、それを面白がるみたいに笑った。
「今日は早いねぇ」
占奈さんは一瞬だけ立ち止まって、ぺこりと頭を下げる。
「また来ます」
言い終わった瞬間、また僕の背中が押された。今度は迷いがない。
「はーい。……またいらっしゃい」
九重さんが手を振って、それから、にやりと付け足す。
「二人で」
「……っ」
占奈さんの肩がびくっと跳ねた。僕のほうも胸が一回だけ大きく鳴って、息が変に浅くなる。
ちりん、と扉の鈴がもう一度鳴る。外の熱が戻ってきて、肌にまとわりつくのに、胸の奥の熱はそれとは別に残った。
占奈さんは少し早足で歩きながら、ふいに振り返らずに言った。
「ね。ごはん、行こ」




