第9話 ふたりぼっちの水鏡①
電車に揺られながら、僕は窓の外を見ているふりをして、ガラスに映る自分の顔を確認していた。
髪。服。……大丈夫、だと思う。
そう思い込ませるみたいに、唇を一度だけ噛む。口の中がやけに乾いていて、唾を飲む音だけが自分に聞こえた。
駅がひとつ過ぎるたび、時間が畳まれていく。早く着きたいのに、着いたら怖い。矛盾だけが増えていく。
目的の駅で降りた。
人の流れに押されるように改札を抜けて地上に出ると、ひんやりした風が頬を撫でた。約束の目印、白いモニュメントがそこに立っている。石造りのオブジェが光を受けて、淡く、少しだけ眩しい。
その脇に、藤色の髪が見えた。
白いワンピース。膝にかかる丈の布が、風に小さく揺れている。肩から小さなショルダーバッグ。髪はいつもより高い位置でまとめられていて、結び目に細いリボンが覗いていた。
占奈さんだ。
同じ制服の中の彼女なら、毎日見ている。なのに今日は、見慣れたはずの人が、見慣れないくらい綺麗に見える。
喉の奥が、うまく動かない。声を出す前から、息が浅い。それでも、一歩踏み出す。
近づくほど、足元が自分のものじゃないみたいだ。靴の裏が、地面を確かめるたび、心臓も一緒に跳ねた。
「……おはよう、占奈さん」
彼女は肩を小さく震わせて振り向いた。
「あ、天夜くん。おはよう」
声はいつもより少しだけ小さい。僕のほうも、きっと同じだ。
目が合った瞬間、視線を逸らしたいのに逸らせない。瞬きを一回だけ増やす。
「ごめん、待たせちゃった」
「ううん。わたしも……いま来たところ」
占奈さんはバッグの紐を握り直した。指先が忙しい。僕のほうも、親指で、無意味に布をつまんで離してを繰り返す。
人の流れが、僕らの横を途切れず通り過ぎていく。なのに、僕らの周りだけ音が少ない。
言うか、言わないか。喉の奥で迷って、結局、口のほうが先に動いた。
「……今日の服」
占奈さんの指が、バッグの紐をきゅっと掴む。
「……うん」
うなずき方が、ちいさくて、かわいくて、余計に言いづらくなる。なのに、今さら引けない。
「似合ってる。すごく」
占奈さんはぱち、と瞬いて、視線を少しだけ逃がした。
「……っ、ありがとう……」
返事は小さいのに、頬の赤さは隠せていない。白い襟元より、その赤が目に入る。
占奈さんが、ほんの一拍遅れて言った。
「天夜くんも……似合ってるよ」
「……ありがとう」
それ以上、言葉が続かない。続かないのに、胸の奥は勝手に満たされていく。
「じゃあ……行こうか」
「う、うん。まずは、天夜くんのメガネだね」
並んで歩き出す。最初の数歩はぎこちない。肩が触れそうで触れない距離が、やけに難しい。けれど地下通路の流れに押されるうち、自然と歩幅が揃った。
揃ってしまえば、外れるのが怖くなる。
〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇 ●
ビルの一階にあるメガネ店は、ガラス張りの外観が光を拾っていた。
「いらっしゃいませー」
店員の明るい声に迎えられて、僕らは店内に足を踏み入れる。壁一面の棚にフレームが整然と並び、光が反射して小さくきらきらしている。
「すごい……いっぱいあるね」
占奈さんが、少し身を乗り出して眺めた。さっきまでの恥ずかしそうな顔が、いまは好奇心に変わっている。
その切り替えが可愛くて、僕はまた言葉に詰まる。
「どういうのにするか、もう決めてるの?」
「見てから……かな」
占奈さんは棚の前を小さく移動して、一本取り出した。細身で、落ち着いた色。
「じゃ、じゃあ……これ、どうかな」
僕が受け取る瞬間、指先が触れそうになって、触れない。その数ミリが、胸に変な音を立てる。
「……かけてみて」
鏡の前で掛け替えると、視界の端が少しだけ軽くなる。
鏡を見ているのに、鏡の中の自分をちゃんと見ていない。鏡に映る占奈さんの反応だけが気になる。
「どう……かな?」
占奈さんは言葉を探すみたいに一瞬目を彷徨わせて、それから、ちゃんと僕を見た。
「すごく……似合ってると思う」
両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、言葉を絞り出すみたいに。真剣さが胸の奥にじんわり落ちる。
その真剣さが嬉しくて、反対に目を合わせられなくなる。
「……ありがとう」
そのフレームを一度棚に戻そうとしたとき、占奈さんが慌てて別の一本を取った。
「こっちも……どうかな」
次は少し丸みのあるフレーム。次は四角っぽい太め。掛けるたびに、占奈さんの表情が変わる。迷ってるのに楽しそうで、僕のほうが勝手に安心する。
「これは……天夜くんらしい」
「え、でも、こっちも好き……」
“好き”が耳の奥で勝手に反響する。フレームの話だと分かっているのに、言葉だけが別の意味を拾ってしまう。
僕が掛けるのをやめて棚に戻そうとすると、占奈さんがすぐに言う。
「いまの、もう一回見たい」
「……え」
掛け替えた瞬間、占奈さんが息を詰めたのがわかった。僕もつられて息が止まる。
「……うん。いい。かわい……似合ってる」
占奈さんが自分の言葉に気づいて、目を逸らした。僕のほうも、どこを見ればいいのか分からなくなる。鏡の縁を見て、棚の角を見て、結局、占奈さんに戻ってしまう。
「……これにする」
占奈さんの顔が、ぱっと明るくなる。さっきの照れも、そのまま残した明るさだ。
「うん。絶対それがいい」
その「絶対」が、嬉しい。嬉しすぎて、こっちの返事が遅れる。
「……うん」
レンズの加工に少し時間がかかるということで、番号札を受け取る。
そのとき、店員が軽い調子で言った。
「待ってる間、よかったら彼女さんもいろいろ見てってくださいね」
言い終わる前に、店員は奥へ消えていった。
軽い一言なのに、空気だけが置き去りになる。
占奈さんが息を詰める。僕も、喉が鳴る。否定の言葉が出ないまま、二人とも瞬きだけが増えた。
何か言わなきゃ、と思うのに、言葉が形にならない。代わりに僕は、棚から一本取り出して差し出した。
「……占奈さん、これとか」
声が、いつもより少し高い。恥ずかしさを誤魔化すのに必死だ。
占奈さんは一瞬僕を見て、それから小さく頷いた。
「……うん。じゃあ、ちょっとだけ」
鏡の前でフレームを当てる。普段は何もない鼻筋に、細い線が一本乗っただけで印象が変わる。
「ど、どうかな」
振り返った占奈さんは少し不安そうに僕を見る。その表情が可愛くて、僕は一拍だけ息を飲んだ。
「……似合ってる。すごく」
占奈さんの口元に、ゆっくり笑みが浮かぶ。
「……よかった」
フレームを外しながら、ぽつり。
「わたしね、視力、両目とも2.0」
「え、そんなに」
「すごいでしょ。えへへ」
その笑い方が少し子どもっぽくて、胸がきゅっとなる。
(……こういうところ、ずるい)
占奈さんは次に、薄い金属の丸フレームを手に取った。
「この丸いの、かわいい……」
掛けた瞬間、目元がやさしく丸くなる。いつもより少しだけ大人びて見える。
僕の口が勝手に動く。
「……それ、反則」
「は、反則……?」
「似合いすぎてて」
占奈さんは笑うより先に、顔が赤くなる。逃げ場を探すみたいに、鏡と僕の間を視線が行ったり来たりする。
「でも……これ、好きかも」
「占いしてる時の顔にちょっと似てるような」
「占いの顔……?」
「うん。真剣で……きれいで……」
言い切った瞬間、喉の奥が熱くなった。やばい、と思ったのに、もう遅い。
占奈さんはフレームをかけたまま、鏡へ視線を逃がす。逃げた先で、頬の赤さだけがはっきり残った。
「あ、天夜くん……」
呼ばれただけで、胸が鳴る。続きが怖くて、でも聞きたくて、僕は目を逸らせない。
そのタイミングで、奥から店員が戻ってきた。
「お待たせしました。レンズ、仕上がってますよ」
助かったのか、惜しかったのか、わからない。
古い予備のメガネはケースにしまわれ、新しいフレームが僕の視界を縁取る。世界の輪郭が少しだけ整って、気持ちまで落ち着く気がする。
店を出ると、占奈さんが僕の顔を覗き込んだ。近いのに、離れるのも惜しい。
「見える?」
「……うん。すごい」
「よかった」
占奈さんが僕の横で、ショルダーバッグの紐を握り直す。
「……ね。次、行こ。水晶玉のお店」
その言葉だけで、胸の奥がまた忙しくなる。
僕は新しいメガネのつるを指でそっと押し上げて、頷いた。
「うん。行こう」




