第1話 白羽の道しるべ①
その日、僕は
眼鏡を壊して、
占奈さんの水晶玉に、ひびを入れた。
すべては、「カラス」
――その占いから始まった。
● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇
朝の欠片が机の上で丸く凝っていた。
教室の扉を開けた瞬間、視線がそこに吸い寄せられる。
まだ誰もいない教室は、ひんやりとした空気に満たされていて、整えられた机と椅子だけが、きちんと静かに並んでいる。
カーテンは半分だけ閉じられていて、窓から差し込む光が床に細い帯を作っていた。
その真ん中に、ぽつんと場違いなものがひとつ。
右斜め前、占奈さんの席の上に、水晶玉が置かれていた。
「……水晶玉」
今日は、占ってもらえるかもしれない日なんだ。
僕はそれを横目で確かめながら、机と机のあいだを抜けて自分の椅子を引いた。
金属の脚が床をこする小さな音が、やけに大きい。
鞄を足元に置いて、ため息といっしょに背もたれへ体を預ける。
机に肘をつくと、天板がまだ冷たくて、じわっと熱が吸い取られた。
……完全にやらかした。
昨日の夜、萩村とオンラインでゲームしていて、「ラスト一戦な」って言ってからが長かった。
こういう朝に限って眠気がしつこい。まぶたが重いし、頭の奥が鈍く痛む。
普段なら、この静けさをそのまま眠りに変える。
それが僕の習慣だった。
でも、今日は無理だった。
水晶玉がある、ということは――占奈さんが来る。
そう思った瞬間、沈みかけた意識が少しだけ浮く。眠いのに、落ち着かない。
机の端に片肘をつき、腕を枕みたいにして頬を預ける。
目を閉じれば落ちそうなのに、視線だけが勝手に右斜め前へ戻る。
丸いガラスの向こうで、ひっくり返った教室がゆっくり揺れている。
窓も天井も机も、伸びたり歪んだりしながら、吸い込まれて、ほどけて、また元に戻る。
――その中心で、影が揺れた。
澄んだガラスの奥に、やわらかい藤色がふわりと流れ込む。
顔を上げると、占奈さんが立っていた。
水晶玉のすぐそばで、少し息を弾ませている。
肩が小さく上下して、制服のリボンがそのたび揺れた。
腰のあたりまで伸びた淡い藤色の髪が、窓の光を抱き込んだみたいに薄く透ける。
目が合った瞬間、彼女は息を整えて、いつも通りの小さな声で言った。
「おはよ……天夜くん」
名前を呼ばれただけで、眠気が引いていく。
体の奥のスイッチが勝手に入った。
「おはよう、占奈さん」
占奈さんは水晶玉からそっと手を離し、そのまま小さな歩幅でこちらへ近づいてきた。
「天夜くん、なんかすごく眠そう。大丈夫?」
のぞき込んでくる瞳が、まっすぐ刺さってくる。
近い、と息が詰まる。
「……だいじょうぶ?」
同じ言葉を、少し間を置いてもう一度。
柔らかくて、ふわりと甘い声。
「だ、大丈夫。ちょっと夜ふかししただけ」
声がわずかに上ずる。気づいて焦る。
静かな教室が、僕の鼓動だけを大きくしてしまうみたいだった。
「そっかぁ。よかったぁ」
占奈さんは口元だけでにこっと笑って、嬉しさが隠せないみたいに体を小さく揺らした。
長い髪が肩先でふわりと跳ねる。
それだけで、胸の奥の力がほどける。
「占奈さんこそ、こんな早くから大丈夫?」
言ってから気づく。
この時間の占奈さんは、珍しい。
占奈さんは小さく頷いて、少し照れたみたいに笑った。
「うん、私も大丈夫。早く……占い、したくて」
そこで、言葉が一拍止まる。
「……天夜くんを」
「えっ」
間抜けな声が漏れる。
占いがしたいだけ、のはずなのに。「天夜くんを」だけが、妙に熱い。
「あ、あの、違うの。えっと、その……」
占奈さんは慌てて顔をそらし、頬をうっすら赤く染めて、あわあわと両手を振った。
「と、とにかく。準備するね」
占奈さんは水晶玉を両手で抱え上げ、僕の机の上に布を広げてから、そっと置いた。
前列の萩村の椅子をこちら向きに引き寄せ、ちょこんと腰を下ろす。
机をひとつ挟んで向かい合う距離は、何度目でも慣れない。
机の下では、すぐ先に占奈さんの足がある。
ふと、スカートの裾が僕のズボンにかすかに触れた。
布が触れただけ。
それだけなのに背中が固まる。息のタイミングがずれて、喉の奥が熱くなる。
「あ……天夜くん。占い、始めるね」
占奈さんの指先が、水晶玉の縁で一瞬止まる。
小さく息を吸う音。肩がわずかに上下した。
「うん。……お願いします」
自分の声が、少し遠い。
僕は膝の上で手を握り直し、指先の力をこっそり逃がす。
占奈さんは水晶玉を持ち上げ、顔の高さまで掲げた。
布の上から持ち上がった影が、机に丸く落ちる。
僕たちの目線のあいだに、丸いガラスがひとつ。
その中で、教室の天井と床がゆっくり入れ替わっていく。
反転した小さな世界に、僕と占奈さんだけが閉じ込められる。
「天夜くん。……わたしの目、見てて」
逆らえなかった。
言われた通り、彼女の瞳を見つめ返す。
占奈さんの頬は、ほんのり色づいていて、
細い唇は、言葉を押しとどめるみたいにきゅっと結ばれている。
それなのに、瞳だけは水底まで見通せそうなほど澄んでいて、
まっすぐ僕を捉えていた。
さっきまでのあたふたした気配が、そこだけ消えている。
占いが始まった瞬間、彼女は別の顔になる。
目を逸らしたくなる。逸らせば楽だ。
でも逸らしたら、この時間が崩れる気がした。
湿った手のひらでズボンの布をつかみ、動揺を押し込める。
耳の中では鼓動だけが、やけに大きい。
やがて占奈さんは、そっとまぶたを閉じた。
水晶玉をゆっくり机へ戻し、白い指先で縁をなぞる。
丁寧で、ためらいがない。
そのあいだ僕は、彼女の顔を見ていた。
長いまつ毛。閉じた瞳。小さな鼻。結ばれた唇。
ぱちり、と目が開く。
視線がぶつかった。
「見えたよ」
今度の声には、少しだけ芯があった。
「今日の占いはね……『カラス』!」
言い切った瞬間、占奈さんは短く息を吸って、
弾んだ吐息を、そのまま笑いの形にして零した。
そして胸の前で水晶玉を抱え直し、満面の笑みのまま言った。
「……いいこと、あるよ」
笑顔が先に届いて、言葉は一拍遅れて胸に落ちた。
カラス。
「いいこと」と並べるには、不釣り合いな言葉。
それでも、その笑顔の前では否定できなかった。
「いいことって、なにがあるの?」
思ったより素直な声が出た自分に、少し驚く。
占奈さんは水晶玉を抱え直して、ちょこんと首をかしげた。
「うーん……ごめんね。まだ、そこまでは分かんない」
眉尻をちょこんと下げる、その仕草が「いつもの占奈さん」で、変に安心する。
「でもね、いいことだよ」
今度は、はっきり言い切った。
指先が、水晶玉を一度だけ確かめるみたいに撫でる。
占いは信じていない。
それでも、占いをしているときの彼女の顔と、そのあとに咲く笑みだけは、どうしようもなく好きだった。
「うん。占奈さん、占いありがとう」
結局それしか言えない。
でも、いちばん僕らしい言葉だとも思った。
「うんっ、天夜くんもありがとう」
占奈さんはうれしそうに目を細め、水晶玉を大事そうに抱きかかえたまま立ち上がる。
椅子を元に戻し、とととっと自分の席へ戻っていった。
布でガラスを拭く、かすかな音が朝の静けさに混ざる。
今ここで声をかければ、何かが続くのかもしれない。
どうでもいい話でもいいから、ひとつ言葉を投げれば、彼女はくるりと振り向いてくれる。
振り向いてほしい。
でも、振り向かれて困る。
困るくせに、やっぱり振り向いてほしい。
結局僕は、ノートを開いた。
占い:カラス
声になり損ねたものを、細い線に変えて残す。
ちょうどそのとき、教室の扉ががらりと開いて、声と足音が床を温めていく。
透き通っていた朝が、いつもの朝に塗り替わる。
早起きのあいだだけ開いていた小さな丸い世界は、いったん、そっと蓋を閉じた。




