覚醒、閉ざされた光(3)
“彼女”は、いつも何かと戦っていた――。
かつてこの世界にまだ神や天使と呼ばれる物が存在しなかった時代、そんな時から彼女は戦っていた。人間と人間の戦争の中、彼女は甲冑を身に纏い、翼を広げ槍を掲げて戦士達を戦場へと導く。
人と人とが殺しあうのが当然の世界で、彼女は返り血を浴びながら戦い続けた。それは彼女が望んだわけではない。だが、世界はそれを彼女に望み続けた。彼女はやがて一人の少年と戦場で出会う。少女はその少年へ槍を突き刺し、そしてそのメモリーは消え去っていく。
次に気づいた時、彼女はやはり戦場に居た。銃弾の飛び交う戦場、そこで少女はライフルを握り締め土嚢を背に荒く呼吸を繰り返していた。ライフルを担ぎ、震える身体を引き摺って戦場を駆け抜けていく。そこで彼女は一人の少年と出会った。少年の頭をライフルで撃ち抜き、少女のメモリーは消えていった。
また目が覚めると、彼女はどうしても戦場に居た。機械の巨人と機械の巨人、それらが宇宙に広がる光の河の上を駆け抜ける戦場だ。そこで彼女は人型の兵器に乗り込み、人類の敵と呼ばれる怪物と戦った。そこで少女は一人の少年と出会った。少女は少年の乗る機体を剣で貫き、そしてまたメモリーは遠ざかっていく。
少女は小高い丘の上にある、人の死体が山積みになった場所に居た。その身体は巨大な処刑道具に固定されている。大きな刃が落ちる音と同時に少女の首が宙を舞った。また或いは少女は十字架に貼り付けにされ、火で炙られ、槍で体中を突き刺され、死んだ。
繰り返し繰り返し行われる残酷な戦いの末路――。望む望まざるに関わらず、彼女はいつだって戦場に居た。エアリオは、何かと戦っていた。少女に心など必要なかった。ただ戦いの中、敵を殺す事だけが彼女の全てだったのだ。
気の遠くなるようなメモリーの中、ボクは見覚えの無い景色を見た。いくつもいくつも見た。知るはずの無い世界の、知るはずの無い歴史の、知るはずの無い一ページ……。少女は大きな木の下で少年を抱きかかえる。背後には倒れた巨人の姿――。ボクはただ、遠巻きにそれを眺める事しか出来ない。
近づこうとしても足は動かなかった。そうして何故か知るのだ。やはり彼女は人間などではないのだと。まるで……そう、彼女は世界そのものではないか。ありえない沢山の記憶の中、彼女はずっと人を殺し続けてきた。滅ぼそうとし続けてきた。それはとても残酷で悲しい記憶だった。夢である事はわかっていても、そうそう耐えられる事ではない。
手を伸ばし――それが届かないと判った時、どうしようもなく彼女は遠いのだと気づいた時、ボクは現実の世界へと回帰した。ベッドから身体を起こし、周囲を見やる。暗闇の中、手探りで枕元のデスクライトを点け、立ち上がった。時計を見れば時刻は朝方の五時……。少し行き過ぎた早起きだ。
「――エアリオ・ウイリオ……。それに、レーヴァテイン……か」
ノアとの戦いは、決して楽な勝利などではなかった。むしろそれは勝利と呼べるのかどうかさえ怪しいもので、ボクはその自分が招いてしまった現実をただ受け入れるしかなかった。
カイトは全身にフォゾン化現象が発生し、今も集中治療室に閉じ込められている。イリアは神経系に大きすぎるショックを受け、現在も意識不明。二人とも一命をとりとめただけでも奇跡的だった。そして……エアリオもまた。
現在ボクが寝泊りしているのは自宅ではなく、本部にあるボクに与えられた部屋だった。パイロットには有事の際の為本社ビル地下にあるこの居住スペースに部屋を一つ与えられているのだ。実家の方はあの戦いでも無事だったのだが、今はそれとは別の理由で戻る事が出来ずに居た。
部屋を出て廊下を暫く歩いていくと、自動販売機の前にあるベンチに腰掛けているアイリスの姿があった。彼女もあまり眠れなかったのだろうか。少し赤く腫らした目でボクを見やり、複雑そうな表情を浮かべた。
「先輩も眠れなかったんですか?」
「……眠れたけど、嫌な夢を見てね。そういうアイリスは、眠れなかったんだ」
「眠れるわけがありませんよ。これから一体、どうなるのか……」
言葉を交わしつつ、自動販売機のボタンを押す。紙コップにアップルジュースが注ぎ込まれるのを眺め、それを取り出して一気に呷った。どうもそれなりに喉が渇いていたらしい。少し気持ちがさっぱりするのを感じつつ、即座におかわりをボタンにねだる。
「エアリオ先輩も、意識……戻らないんですよね?」
「……ああ。これでレーヴァテインチームは三人が意識不明……。エルデも意識はあっても重態だし」
あの戦闘直後からエアリオの顔は見ていない。アルバさんが大慌てで連れて行ってしまって、それっきりだからだ。それからボクはユカリさんに泣きながら説教をされ、それから思いっきり抱きしめられた。ヴェクターは笑いながら礼を言ってくれたが、ボクの正式な処分は追って下されるだろうと付け加えた。
そう、ボクが今この本部から出られない理由の一つがそれなのだ。自宅に戻れない……要するに軟禁状態という事だ。手錠までつけられなかったのは、ヴェクターやユカリさんなりの配慮だと信じたい。結局その後の仲間の状態を聞こうにも皆バタバタと忙しく、そんな余裕はなかった。
「本当に、長い夜でした……。姉さんも、カイトも……エルデも。私達がもっと早く来ていれば、助けられたのに……」
「……ごめん、ボクの所為で」
「判っているなら、いいですよもう……。今更そんな事言ってもしょうがないですし……」
そうは言ってくれるものの、彼女も葛藤の最中だろう。ボクをうらみたい気持ちもあるだろうし、それを赦そうともしているように見える。なんだか余計なものを背負わせてしまったように感じて申し訳がなかった。
「姉さん……カイト……。みんな、助かりますよね……? またみんな、一緒に戦えますよね……?」
「…………うん、きっとね」
多分それは嘘だった。無根拠な笑顔だった。でもボクにはアイリスを突き放す程の覚悟はなかったのだ。少しだけ安心したように微笑んでくれた彼女を見ていると、胸がズキズキ痛む。ボクは……何をしているんだろう。
「あ……でもその前に、先輩はこれからどうなるのかですよね」
「そうなんだよね……。まあ、パイロットをクビにされても仕方ないかな……」
「それは困ります! もうレーヴァテインを動かせるのは先輩しかいないんですよ!? きっと、ジェネシスの偉い人だって話せばわかってくれます!」
「あ、ああ……うん。ありがとう、アイリス……?」
ボクの手を両手で握り締め、ぶんぶん上下させるアイリス。暫く唖然とその様子を眺めていると、彼女はボクの視線に気づき顔を真っ赤にして手を放した。
「アイリスはもう少し休んでいた方が良いよ。ボクは少し、レーヴァの調子を見てくる」
「そ、そうですね……。また出撃になった時、フラフラじゃ足手まといですし……」
「そういう事。アイリス……気を遣ってくれてありがとう。おやすみ」
アイリスの頭をなでると、彼女は何故か無言でコクコク頷いた。そんな彼女を後にボクは通路を歩きながら物思いに耽る。レーヴァテインと言えば、あのギルガメスとかいうモード……。
ノアはどう見たって上位神、第一神話級とカテゴライズされてはいるが明らかにそれを上回る力を持つバケモノだった。でもあの機体の性能は圧倒的にその能力を超えていた。何となく、背筋がぞくぞくとして身体中がこわばったのを覚えている。あれは多分、その気になればこの星だって無くしてしまえるんだと思うから。
シンクロをしようとしなかったエアリオと、シンクロの先にあった彼女の不思議な記憶。そして解き放たれたマルドゥークの光……バケモノ染みた性能。何か、ボクは思いかけず決定的な物に手をかけてしまったのではないだろうか? 何か……そう、まるで今まで通っていた道とは決定的に違う道へ、レールを切り替えてしまったような……。
考え事をしているとハンガーはすぐだった。格納庫の一角、レーヴァテインの修理と平行して他のヘイムダルの修理が行われている。しかしそこにあれだけ大量に配備されていたヘイムダルの姿は無く、あるのは赤、黒、青の専用機だけだった。マステマは完全に駄目になったから破棄されるって聞いたけど……どうなったんだろう。
それよりも目を引くのはレーヴァテインの隣に並んでいるエクスカリバーだろう。今回の件は本当にエクスカリバーの援護があったからこそである。ルクレツィアは厚意でやった事なので謝礼は要らないし政治的な意味もないと言ったのだが、ヴェクターがそれならこちらも厚意で整備と修理をしますと言い出したのである。現在エクスカリバーは急ピッチで整備が進められているところだ。
「シド! なんだ、一晩中やってたの?」
「おー、リイドさー! こっちはジェネシスみたいに戦力揃ってないから、おいらたちがさっさと戻らないと皆が危ないんよ」
エクスカリバーの足元で整備を手伝っていたシドに手を振ると、彼は首からかけたタオルで顔を拭きながら駆け寄ってきた。一緒にルクレツィアもやってきたのだが、タンクトップシャツ一枚だけのその上半身はなんというか色々な意味で凄かった。
「レンブラムか。すまないな、せっかく部屋まで用意してもらったのだが……」
「いや、早く戻りたい気持ちはよくわかるよ。まあノアの一団が倒れたから、神の侵攻は少し収まるだろうって誰かが言ってたけど」
「私もそうは思うのだがな……。こう言っては申し訳ないが、ジェネシスはまだ信用出来んのだ。君の事は、少し判った気がするがな」
ルクレツィアは優しくそう微笑んでいた。ボクも何となく今回の一件で二人の事がわかった気がする。それに、やっぱり希望はあるんだと思った。こうして手を取り合うことが出来るのなら……きっと、神との戦争だって勝ち抜ける。人は、分かり合えるんだから。
「……少年。もし君がスヴィアときちんとわかり合いたいと思っているのなら、彼と直接会ってちゃんと言葉を交わしてみると良い。真実を知る事を恐れずに、己の素直な気持ちに従えば、きっと良い方向に向かっていくはずだ」
「ありがとう、ルクレツィア。シドも、本当に世話になったよ」
「困った時は、お互い様さ! ユカリっておっぱいのそこそこデカイねーちゃんから食料と水ももらえたし、おいらとしては大満足ってね」
……あれでそこそこデカイ、なのか……。まあ、ルクレツィアとかオリカが異常なんだよシド君。君の目が肥えすぎてるだけなんだよシド君……。
そんなアホな事を考えつつ、作業に戻る二人を見送った。改めてレーヴァテインと向かい合うと、何かこう……言葉に出来ない様々な気持ちが溢れてくる。力、そして剣……。これはきっと、この世界を変えるだけの力を持つ物なんだ。
「――改めて宜しくな、レーヴァテイン。これからも……頼りにしてるよ」
まさか機械が応えるはずもないのだが、そんな風に語りかけずには居られなかった。何となく、こいつも頷いてくれるような気がした。ボクたちはきっと――同じ運命に立ち向かう、運命共同体なのだから。
覚醒、閉ざされた光(3)
「先のノアとの戦闘、ジェネシスはいよいよ切り札を放ったようじゃな。レーヴァテインの真なる姿……垣間見せてくれただけノアには感謝せねば」
京都の中枢、“七天浄華”の最奥ではスオウ・ムラクモが足を組んだまま空中に浮かんだ映像を眺めていた。煙管から紫煙を上げながらムラクモは目を細め、虚空に舞うギルガメスの姿を見つめ続けた。
レーヴァテイン=ギルガメス――それは封印されたレーヴァテインの真なる力。三年前、現存したアーティフェクタの全てを尽く破壊しつくしたその姿をもう一度見る事に、ムラクモはそれなりの感傷を覚えていた。力の象徴であり、全ての神を制する怪物――。そして、倒さねばならない敵である。
「“七天浄華”はセブンスクラウンに墓標としてくれてやる為に作った要塞……。今の技術力ならば、連中を封じ閉じ込める事も可能だろうて。同じ過ちを、歴史を繰り返すことだけはあってはならぬのだ。あれは、何がなんでも破壊する」
「――勿論。その為に、この俺を呼びつけたんでしょう?」
水路の上に敷かれた半透明のガラスの床の上、靴音を鳴らし歩み寄る男の姿があった。長身に痩躯、全身に東方連合の迷彩側の軍服を着込んだ男は前髪を掻き上げ、口元に歪んだ笑みを浮かべる。
「独立機動兵団団長キリデラ、帝の招集にお応えし馳せ参じた――が、俺の力が必要ってのは珍しいじゃあねえか。いよいよヴァルハラを潰す気にでもなったか?」
「あのスヴィア・レンブラムが落ちたのだ。最強の上を行く無敵が朽ちて動けぬのであれば、幾分か裏切りもやり易かろう」
「ククッ! あんたも人が悪いぜ全く……。あのスヴィア・レンブラムを出し抜いて、レーヴァテインを破壊しようってんだからなァ」
「あれはこの世界にあってはならぬ力だ。いずれ、人を滅ぼし世界を破壊しかねぬ。それはスヴィアとて判っているのだ。だが、あれは身内の情に駆られて動けぬ。少々冷静な判断力には欠けているのだよ」
「……ま、俺はレーヴァテインと戦えりゃあそれでなんだっていいさ。まあ、それなりにあんたには感謝してるぜムラクモ。三年前、あんたが俺と“クサナギ”を拾ってかくまってくれなきゃあ、今頃俺はあのガルヴァテインに殺されていただろうからな」
腰に手を当て、キリデラは低い声で笑い続ける。そう、彼にとって大切な事は政治的な事でも世界を守る事でもない。ただ、レーヴァテインと決着を着ける事――それだけなのだ。三年前、彼のアーティフェクタを圧倒し、傷を残した怪物。それを自らの手で討ち滅ぼさねば、前に進む事が出来ないと知っているから。
「だが、貴様はあくまでも傭兵上がり……ただの暴走行為に留めて貰わねばな。貴様が失敗した時、かくまう事も出来なくなろう」
「了解了解……今回も俺の独断的な単独行動、私的部隊運用って事でいいんだろ? かまいやしねえさ、どうせもう同盟軍だって俺達には手を出せねえよ」
「“クサナギ”の調子はどうだ? 見繕って調整した干渉者は、肉体的に問題があったようだが」
「あの娘には強引にユグドラ因子との適合をやってもらってるからな。まあ長くは持たないだろうが……所詮は使い捨ての道具だ。俺も、あいつも……あんたにとってはな」
キリデラの物言いはムラクモにとっては心外だったが、しかしそれにいちいち反論する程子供ではない。戦争をやっているのだから、犠牲も出るし人も死ぬのだ。命を賭けさせているからには己も命を賭け、罪を背負って指揮を執るのが上に立つ者の定めというものだろう。キリデラは兵士としては優秀なのだが、如何せん指揮官としては次第点と言った所か。
「新型の“カグツチ”と“クーロン”を持って行け。既に貴様に預けるパイロットは選抜してある。全員が今日付けで貴様の部下だ、書類のチェックくらいはしておけ」
「そういう面倒な事はマサキとキョウに任せてんだよ。出撃はいつになる?」
「“協力者”の行動に合わせてもらう。スケジュールは貴様の方に送っておくのだから、それくらいは自分で目を通しておけ。全く、子供を好き勝手に使うのだから……貴様は」
低く笑い、キリデラは形だけ敬礼をして去っていった。それを見送りムラクモは目を瞑った。甘い香りの漂う作り物の空へ顔を上げ、過去の景色を思い出す。それは世界を炎が焼き滅ぼしていく景色だった。
「もう、繰り返す事は出来ないんだ、スヴィア……」
頭の奥がチリチリと焼け付くようなそんな感触は今まで一度も味わった事など無く、アイリスの目を覚まさせるのには十分すぎる程であった。
二度寝をしてからどれくらい経っただろうか? 何か、酷い夢を見ていたような気がする。身体中がびっしょりと汗ばんでおり、息苦しさに似た違和感を覚えるのだからやはり悪夢を見たのだろう。だがその内容は覚醒と同時に全て消えてしまい、思い出す事さえも出来なかった。
「……これでは休んでいる事になるのか」
小型の冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、ペットボトルに直接口をつけ喉を鳴らして身体を潤していく。半分ほど一気に飲み干し、少しだけ気持ちが落ち着くのを感じる。時計を見やると時刻は十時前であった。
白いワイシャツの胸元のボタンをいくつか緩め、アイリスは洗面台の前に立った。鏡には汗に塗れ疲れた顔の自分が映りこんでいる。しかし何故だろう――それが自分ではない誰かの顔のように思えるのは。ふと、額に手を当てて気づく。そう、眼鏡がなかったのだ。
「どういう事なんですか、この胸騒ぎは……」
まるで姉が苦しんでいる顔のように見え、なんだかとても不吉に感じたアイリスは直ぐに顔を洗ってその場を離れた。眼鏡をかけると自分が確立されたようで少し安心する。彼女は眼鏡を必要とするような視力ではなく、それは完全にただの飾りだった。半分ほど残ったペットボトルを片手にベッドの上に座り込む。
違和感が始まったのは恐らくリイドと戦った辺りからだろう。何か、既視感にも似た感覚を覚え、それが今まで延長されているのである。そう、アイリスは一目リイドを見た時からずっと感じていたのだ。“以前にも、彼と何処かで会った事がある”と。
勿論そんなはずはないし、あったとしても学園に通っていれば無意識に在りえる事だ。故に深くは考えていなかったのだが、先の戦いではっきりと感じた。同じように、リイドとヘイムダルで戦った事がある……そうとしか思えなくなっていた。その時はどうだっただろうか? やはりリイドには勝てなかった気がする。恐らく何度やっても同じだろう。そう思うからこそ、意味もなく突っかかりたくもなる。
「でも、この感覚に引っ張られるみたいにどんどん強くなっている……。まるで、忘れていた戦い方を思い出しているみたいに」
ギルガメスが一撃で敵を全て葬ってしまったが、そのパージまでの時間稼ぎに大きく貢献したのはアイリスである。狙い撃つ射撃は百発百中の命中率で、随分とレーヴァの動きを支えたのだ。オリカも褒めていたのだからそれは間違いないだろう。拳を握り締め、不思議な感覚に戸惑う。その正体はやはりわからないままだ。
「この嫌な感じ……これまでとは違う。何が始まるっていうの……姉さん……?」
不安に駆られたアイリスが扉を潜るのと同時期、同じく二度寝を終えて眠たげに目を擦りながら部屋を出るリイドの姿があった。しかしリイドの足は部屋を一歩出た所で完全に止まっていた。側面から硬いものを頭部に押し当てられ、何者かに拘束されてしまったからである。
起き抜けの展開に思考が追いつかず、リイドは抵抗する事も出来なかった。何者かはリイドをそのまま部屋まで押し返すと、背後でリイドの両腕を拘束したまま耳元で囁いた。
「……リイド・レンブラム、一緒に来てもらおうか」
「誰だ……? どうやってここまで進入した……?」
「ジェネシスの警備というのはザルなんだよ。基本的に、対人戦闘を想定していないから」
声は明らかに女の物であった。どこかで聞き覚えがあるような気もしたが、しかしそれをはっきりと思い出す事は出来ない。手錠で両手を繋がれ、リイドは背後から押されるようにして部屋から追い出され、そのまま言われるがままに走り出した。
拉致――。そのターゲットにされる理由がリイドには思い当たりすぎる。レーヴァテインのパイロットであり、セブンスクラウンに逆らってしまった人間であり、数え切れない問題があるのだ。しかし不思議と彼女から敵意や殺意のようなものは感じられなかった。リイドは冷や汗を流し迷いつつ、言われるがままに移動する。
「ボクを拉致する理由を聞いてもいいかな?」
「それは直ぐに判るよ。というより、これは拉致じゃなくてなんというか……説明するのが難しいんだよね。兎に角、君を逃がしてあげなきゃならないわけで」
「ボクを逃がす……? どういう事?」
二人が足を止めたのは普段はリイドの通らぬ本部の入り組んだ通路の途中であった。そこには小型のエレベータがあり、背後にいる女は黒い皮手袋で握り締めたセキュリティカードをリーダーに通した。ちらりと横目で見てリイドは気づく。そのカードは最高ランクのIDカード――つまり、ジェネシスの上層部の人間の物だ。
「セブンスクラウンじゃない……?」
「じゃないよ、当たり前でしょ? 兎に角エレベーターに乗ってくれないかなあ。あんまりモタモタしてるとヤバいんだってば……って!?」
突然背後から頭を低く押し込まれたリイドが視たのはこちらに物凄い勢いで走ってくるオリカの姿であった。走るスピードが速すぎてオリカのトレードマークである帽子が吹っ飛び、長い黒髪が靡く。そうしてどこから取り出したのかナイフを指先で掴み、それを一気に投擲してみせた。
チカリと光を弾いて輝くナイフ、それをリイドの背後に立った女は拳銃で弾く。しかしナイフの影に隠れるようにもう一本ナイフが投げつけられており、それが女の腕に突き刺さった。血を流しながら女は銃弾を放つが、オリカは人間離れした動きで跳躍し、壁を蹴って猛然と近づいてくる。
「ちょ、ちょちょ!! 冗談じゃないってッ!! スティングレイと生身でやりあって勝てるわけないじゃんッ!? 少年、早く乗り込んでよっ!!」
拳銃を連射しつつリイドごと自分を押し込むようにしてエレベータに飛び込む女――。その横顔を見てリイドは唖然とした。なぜならば彼女は、思い切り見覚えのある人物だったからである。ただここでこんな事をしているなんて夢にも思わなかったから、合致しなかっただけで。
「――カ、カグラッ!? なんであんたが……!?」
「黙ってないと、舌噛むよ――少年!」
カグラは拳銃で緊急隔壁展開のボタンをセーフテイーのガラスごと押し込み、エレベータの入り口に鋼鉄のシャッターを下ろす。緊急事態用の装置なのだが、今のカグラにとっては正に命綱そのものであった。
「時間稼ぎにしかならないだろうけど……! しっかり捕まっててね、少年!」
リイドを抱きかかえ、カグラは緊急退避のボタンを押した後、最下層のボタンを押した。エレベータは猛然と落下を初め、リイドの顔面はカグラの胸に減り込んだまま二人は地下へと進んでいく。
丁度エレベータが見えなくなった頃、隔壁を切り裂く小気味良い音が響き渡っていた。十字に切れ込みの入った鋼鉄の隔壁を蹴破り、オリカは眼下の暗闇を見つめる。その手には一体どこからどうやって手にしたのか、一振りの日本刀があった。オリカはそれを鞘に収め片手に握り締めると、躊躇する事無くエレベーターを吊るすワイヤーに捕まり、ワイヤーに刀の鞘を絡め、両足のコンバットブーツで挟み込むようにしてブレーキングをし、一気に闇へと落ちていく。
「……不覚だった。室内の監視カメラでリイド君の寝顔を見ながら幸せな気分になっていたら……!」
鞘から火花が上がり、ブーツからは焦げ付くようなにおいが漂う。殆ど落下しているのと変わらない速度で地下へと進むオリカの先、最下層へ辿り着いたカグラは転がり出るようにしながらエレベータを上に行くように操作する。
「っつう……!? 流石、リアル忍者……!」
腕に刺さったナイフを引き抜き、布で傷口を縛るカグラ。リイドはもう完全についていけないのか、ぽかーんとした顔でカグラを見ていた。
「そんな顔すんなって、少年。ほら、オリカの事だからエレベータもぶった斬って来るよ! 急いで!」
「急ぐって、どこに!? てか、あんた何やってんの!?」
「全部現地についたら教えてあげるから! 今はほら、やばいんだって! 行くよ!!」
リイドの手を取り、カグラは必死に走り出す。二人が遠ざかった頃、不自然に両断されたエレベータが闇の中を落下してくる。それに続きオリカは閉じられた扉を蹴破り、最下層へと着地した。
「……このエリア、電源が来てないのか真っ暗だよ。でもまあ……リイド君なら、こっちかな」
目を閉じ、犬のように周囲のにおいを嗅ぐオリカ。紅い瞳を輝かせ、少女は刀を片手にカグラの追跡を開始した。その頃、ジェネシス本社ビルでは――。