覚醒、閉ざされた光(1)
「――この状況も想定済ですか? アイリス・アークライトさん」
騒然とする司令部の中、その喧騒からは不思議と切り離された二人の姿があった。司令専用に作られた司令部を一望出来るその場所に立った司令、リフィル・レンブラムはゆっくりと振り返った。下方からの光で照らし上げられたヴェクターの表情は心なしか緊張しているように見える。
「…………私の名前はリフィル・レンブラムです。お間違え無きよう」
「私には隠す必要はありませんよ、司令。貴方の目的は何なのですか? これも想定通りなのだとしたら、貴方はこの世界で何を求めているのですか……?」
ノアが訪れれば勝率は薄い――そんな事は百も承知である。だがこの状況は起こるべくして起きたように思えてならなかった。全てが何かの予定調和……誰かの思惑の中にある。その重なる歯車の根源にあるものはわからなかったが、少なくとも彼女がそこに近い歯車である事は確かなのだ。
リフィルはゆっくりと振り返り、真紅の髪を揺らして微笑んだ。そうしてヴェクターのすぐ目の前まで歩み寄ると、男の肩を叩き耳元で囁いてみせる。
「――貴方は少し、私の事を勘違いしているようですね。ヴェクター……貴方は深読みのしすぎです。もう少しリラックスしてみては……?」
背筋がぞくぞくするような、甘い女の吐息交じりの声――。しかしヴェクターは微動だにせず、司令が去っていく間も振り返る事もしなかった。いや、厳密には動けなくなっていたのだ。止めていた呼吸を再開すると、どっと冷や汗が溢れてくる。それから漸く振り返り、男は額に手を当てて項垂れた。
「…………違う……? 私の推測が、間違っている……? では、彼女は一体……。いや、どちらにせよこれは……由々しき事態ですか。あの魔性め……」
ネクタイを緩めながらヴェクターは愚痴を零す。彼が独り言を喋るなど滅多に無い事であった。オペレータたちの近くまで移動した司令は相変わらず美しい微笑みでモニターを眺め微笑んでいる。
「まあ、いいでしょう……。与えられた役割ならば全力でこなすまで……。お願いしますよ、カイト君――イリアさん」
無人と化した街、そこに鳴り響く警報――。108界層全てのプレートシティが戦闘形態へと変化していく。街の各所には配置された量産型ヘイムダルと量産型マステマが武装し、戦闘に備えている。
プレートシティを覆っていたフォゾンバリアがより強固に展開され、街の各所には内蔵されていた固定砲台等が出現。そこは既に楽園と呼ばれた街とは程遠い。その隊列の戦闘、エルデは改造を施したマステマのコックピットで最後のチェックを行っていた。
「……それにしても、いつの間にこれだけの数の人型機動兵器を……。パイロットとて、適正が必要なはず。こんなあっさりとそろえるなんて、何かがおかしい……」
だが、それは自分の考えるべき事ではない。今はただこの先頭に立ち、戦うのみである。ヴァルハラが破壊されれば何もかもがおしまいなのだ。なりふり構っている余裕などあるはずもない。
エルデはふと、自らが癖のように小まめに情報を刻んでいるメモ帳を取り出してみた。そこには盗撮した仲間達の写真がぱらぱらと散りばめられていた。彼の役割を考えれば当然の事なのだが、やはり褒められた行動ではないだろう。エルデはそれを閉じ、目を瞑って一息。
「――戻ってきてくださいね、リイド君。写真はやはり、皆で一緒に写らなければ」
敵は直ぐ傍まで近づいてきている。海上を移動するノアの進行速度はゆっくりとしたものだが、それに先行する形で数え切れない天使級とそれを統率する神話級が迫っているのだ。これまでにあまり見られなかった天使級の統率、そして神話級同士の結託というレアケースも今この街を追い込んでいる理由の一つになる。
既に出撃を終えていたレーヴァテイン=イカロスはヴァルハラ付近を浮遊していた。その両手には新型のフォゾンビームライフルを持ち、肩のハードポイントにはディストーションソードを装備している。共にエネルギー伝達ケーブルをレーヴァテイン本体から引く事により回数制限はなくなっているが、所詮は人間が考案した通常兵装である。上位神相手には無いよりは在った方がマシというレベルだろう。
「なんつー数だよ……! 前に戦った時よりも護衛の数が増えてやがる……! あんなのに近づけるのか!?」
「それでもやるしかないわ……! 射撃武装の補正はあんまりアテにしないでよ、慣れてないんだから!」
AODには制限時間が存在しているし、そもそもノアを倒す瞬間以外に使ってしまっては恐らくカイトが持たないだろう。となれば、は通常のイカロスの能力でこの防衛ラインを突破しなければならないのだ。炎の翼を広げるイカロスの眼前、正に数え切れない大軍が押し寄せてくる。カイトもイリアも心底絶望的な感情に支配されつつあった。
「……やるしかねえ、か……。その通りだよ、全く……! 俺達がやらなきゃ、ヴァルハラにあれが全部行く事になる……! くそっ!! イリア、悪いな……こんなのに付き合わせちまって……!」
「何水臭い事言ってるのよ。あたしたちは仲間……パートナーでしょ? これまでだって辛い事も苦しい事も一緒に乗り越えてきたじゃない。どんな戦いだって、あたしはあんたの味方よ」
いつに無く優しいイリアの言葉にカイトは寂しげな笑顔を浮かべた。戦いが始まればイリアにはそれこそ地獄の苦しみが待っているだろう。それなのに気丈に振舞う彼女を見て、まさか男のカイトが諦めるわけにはいかなかった。深く深呼吸し、前を見据える。
「死んでも生きて帰るぞ……! イリアッ!!」
イカロスが炎を瞬かせ、敵軍へと突き進んでいく。一斉に天使が放つ光の矢を掻い潜りながらイカロスは両手のライフルを連射する。どこに撃っても何かには当たるような気が狂った戦場の中、それでも二人はまだ諦めていなかった――。
「……アイリス、何も言わずに戻ってくれないか」
砂漠にて対峙する二体のヘイムダル。漆黒の機体から放たれた言葉にアイリスは意図せず肩を強張らせた。
紅いレッドフロイラインはフォゾンライフルを構え、その銃口は当然漆黒のヘイムダルへと向けられている。リイドはその威嚇行為に対して得に何か反応を示す事はなかった。
「リイド・レンブラム先輩……! オリカさんはどうしたんですか!?」
「オリカなら安全な場所に居るよ。どうせそっちがそう来ると思ってね……。アイリス、どうやってこの場所がわかったんだ?」
「――わたしが教えたからだよ、リイド」
紅いヘイムダルのコックピット、シートに座ったアイリスの後ろから顔を出すエアリオの姿があった。エアリオはモニターに表示されているヘイムダルをじっと見つめ、そうして言葉を続けた。
「わたしにはリイドの居場所を探知する事が出来る。リイド……お前の体の中に発信機が仕込まれているからだ」
「「 なっ!? 」」
驚いたのはアイリスも同時だった。当然、それは非人道的な行いであり仲間に対する裏切りである。しかもリイドはそんな手術を受けた記憶など無い――。つまり、それは三年以上前、まだ彼が記憶を失う以前に施された事を意味していた。
「リイド、お前の言った通り……わたしの任務はお前の監視、そして保護……。そして可能ならばレーヴァテインの適合者とし、その才能を引き出す事だった」
「エアリオ先輩……な、何の話をしているんですか……?」
「リイドがわたしを恨みたい気持ちは良くわかる。わたしは実際、お前を裏切っていたんだからな……。そしてお前の予想通り、全てはスヴィアの命令だった。いや――恐らく何もかもがお前の思う“最悪”に近い状況だと思う。謝って済む問題ではないけど……」
「エアリオ……お前は何者なんだ……!? どうしてスヴィアはボクの記憶を奪ったりなんかしたんだっ!! 発信機まで仕込んで……! お前、ボクの事をなんだと思ってるんだ!?」
リイドの絶叫が通信機を通じて響き渡った。エアリオは複雑な表情を浮かべ、しかし何も言葉にしようとはしない。戸惑っているのはアイリスも同じである。気づけばヘイムダルはライフルを下ろし、アイリス自身も完全に戦意を喪失していた。
「どいつもこいつもボクを道具みたいに扱いやがって……! ふざけるのもいい加減にしろっ!! お前達と話すことなんか何も無い……! とっとと失せろ!!」
「先輩、今は貴方の力が必要なんです!! ノアが、ヴァルハラに……!!」
「そんな事どうだっていいって言ってるだろアイリスッ!? お前だって同じじゃないか! ただボクがレーヴァテインを動かせるから……それだけじゃないか!! 自分の勝手で人を戦わせるな!! お前らの都合に付き合うのはウンザリなんだよっ!!」
「――ッ! せん、ぱい……!」
アイリスは何も言い返す事が出来なかった。確かに彼の言うとおりだ。ヴァルハラが大変だとかノアが来るだとかそんな事は自分達の都合――。ただ、彼を戦場に引き戻す為の言い訳ではないか。この状況、正義はリイドにあるような気がしてならなかった。だが、それでも少女は唇を噛み締めて操縦桿を握り締める。ヘイムダルは主の意思に従い、ライフルを発砲した。
光の軌跡は黒いヘイムダルの傍に着弾し、砂を巻き上げる。リイドは崩れた体勢を立て直しながらアイリスをにらみつけた。どんな風に思われようと、それでも連れ戻さなければならない……。そうしなければならないだけの理由がまた、アイリスにもあるのだから。
「先輩……。どうしても戻らないというのであれば、力ずくで連れ帰るまでです! 貴方の生死は問わないと言う指示です……! 命が惜しければ、投降して下さい!」
「…………アイリス……本気なのか……!?」
「姉さんとカイトが戦っているんですよ!? どうしてそれをほうっておけるんですか!! 私達は仲間だったはずでしょう!!」
「その仲間に銃を向けて何を言ってるんだ! もういい、話にならない……! そっちがそのつもりなら、ボクにも考えがある!」
「リイド・レンブラム! 貴方を拘束します――ッ!!」
二機のヘイムダルが同時に動き出す。リイドとアイリスの叫び、それが重なり合って響き渡った。白い砂の大地の上、勝者の居ない戦いが始まろうとしていた。
覚醒、閉ざされた光(1)
「くそ、いくらなんでも数が多すぎるッ!! ダメだ……エルデ、全部落としきらねえっ!! ヴァルハラの方でなんとか対処してくれ!!」
空中を疾走しながらイカロスは左右に突き出したライフルを連射する。光が瞬く度に天使級が散っていくのだが、倒しても倒してもキリがない。それもそのはず、敵は常時ノアの口の中にあるゲートから増え続けているのだから。
天使は殆どがレーヴァテインを無視し、一直線にヴァルハラへと突撃していく。迎撃は殆ど間に合わず、半分以上の天使がヴァルハラへと襲い掛かる事になった。ヴァルハラの周囲にはフォゾンバリアが展開されており、その濃度の高い結界に衝突した天使は一部は燃え上がり死んでいくのだが、その壁を突破した天使たちはプレートシティを破壊しながら自由自在に飛び回る事になる。
プレート内部では地上に配備されたヘイムダル隊や固定砲台が天使を迎撃するのだが、その全てを殺しきれるわけではない。次々にビルが倒壊し、各地で爆発が連鎖する。街は完全に戦場となり、楽園と呼ばれたその姿は最早欠片ほども感じる事が出来ない。
「こちらでも迎撃していますが、やはり大本を叩かなければ……! 天使級だけならば何とかなります! 今のうちにノアを!!」
「言われなくてもやってるわよ!!」
天使の群れを突き破り、ビームを連射しながらノアへと近づいていくイカロス。しかしノアの結界はやはり強固であり、通常兵器のビームライフルなどでは効果は微塵も見られない。舌打ちするカイトの頭上、一斉に降りかかる六つの影があった。
「カイト、上!! この反応……全部第三神話級!?」
「ザコに構ってる暇はねえっつーのに……よおッ!!」
上空にライフルを放つイカロス。しかし相手が神話級となれば天使級のようにはいかない。イカロスは六つの影にまとわりつかれながら海上を移動していく。ノアの周囲を回るようにして後ろ向きに飛翔しながら、追跡してくる神話級をライフルで撃墜していく。
「ザコ全部相手にしてたらこっちが持たねえ……! イリア、ノアに向かうぞ!!」
「判ってる! Dソードなら空間湾曲で結界を切り裂けるかも! カイト!!」
カイトは左右のライフルを腰にマウントし、左右の肩に装備したDソードを二刀流で構えた。そうして接近してくる神話級を切り払いながら上昇し、ノアの上空から一気に強襲を仕掛ける。
周囲を飛翔する神話級の攻撃を掻い潜り、時に切り捨てながらノアへと叩き込まれる刃――。Dソードは空間湾曲とその歪んだ空間が元に戻ろうとする力を利用して敵を引き裂く剣である。紫色の光が結界に触れた刃の切っ先から広がり、目視出来るほどに強烈なノアの結界が歪んでいくのがわかる。
「よし、効いて――なにっ!?」
しかし次の瞬間、Dソードの方がぐしゃりと湾曲し爆発してしまった。片方の刃を失ったイカロスへと一斉にノアの対空砲火が放たれる。迫る数え切れないビームの光の中、回避運動はそれに追いつかない。いくつかのビームが直撃し、イリアが悲鳴を上げた。
「Dソードでも貫けない……!? くそ、これじゃあもうAODしか……!!」
直後、周囲より次々に神話級が群がってくる。母体を攻撃された神々はまるで巣をつつかれた蜂のように、一斉に全方向からレーヴァテインを攻撃した。降り注ぐ絶対に避けきれない光に晒されイカロスはまるでマリオネットのように踊り、吹き飛ばされる。
「きゃああああああっ!!」
「くそ、弾幕がキツすぎる……!! 装甲が……ッ!! しっかりしろ、イリア!!」
嵐のような猛攻の中必死で耐えるイカロス。そこへヴァルハラから接近してきた一機のマステマがミサイルを放った。それは新型のフォゾン弾道ミサイルであり、通常とは比べ物にならない超高密度のフォゾンで敵を焼き尽くしていく。その隙にノアから離れたレーヴァテインの背後、戦闘機状態から人型へと変形するエルデのマステマが近づいてきた。
「お二人とも……無事ですか?」
「エルデ……あんた……」
「……持ち場は他のマステマに任せました。何、テストタイプが一機くらいいなくても結果は同じでしょう」
レーヴァテインを追撃し、降り注ぐビーム攻撃。エルデはその前に身を晒し、マステマの両手に仕込まれたフォゾンビームシールドを発動する。長くは持たないが、それは神話級の攻撃ですら受け止める事が出来る代物であった。
「援護します! 我々がノアを倒さない限り、ヴァルハラはやつらの餌食です……! カイト君、イリアさん……微力ながらお供しますよ」
「すまねえ、エルデ……! イリア、大丈夫か……? シンクロいけるか?」
「……え、ええ。エルデが作ってくれたチャンスだもの……! 絶対、無駄には出来ない……ッ!!」
装甲が破壊された痛みに耐え、脂汗を垂らしながらイリアは前を向いた。二人は同時に目を瞑り、息を合わせていく――。
イカロスの出力が上昇し、その装甲があふれ出す炎によって修復されていく。心の中にある境界――それを踏み越えた時、イカロスの瞳に炎が宿った。炎の翼は巨大化し、イカロスの拳には紋章が浮かび上がる。
「エルデ、奴に突っ込む……! さっきのまたいけるか!?」
「新型ミサイルは二発しかありません。これでラストチャンスですよ」
「上出来だ……! 行くぞ、イリアッ!!」
マステマがビームシールドを解除し、翼にマウントしていたミサイルを放つ。それがノアの直ぐ傍で爆発するとその周囲に居た天使たちは霧になって消え去っていく。炎の翼で一気に加速したイカロスは炎の拳を振り上げ、ノアへと真っ直ぐに突撃していった――。
「…………あ、いたいた! はあはあ……! リイド君、いくらオリカちゃんの運動能力がズバ抜けているからって、ヘイムダルで丘とか飛び越えられちゃうと辛いんだよ……っ!!」
一人で愚痴りながら汗だくになったオリカは砂漠の大地の上、二機の戦いを眺めた。紅いヘイムダルは次々に発砲している――が、それが命中しないのは恐らくアイリスに直撃させる意思がないからだろう。あくまで動きを封じる為と割り切って狙っているからリイドにギリギリで回避されてしまうのだ。
しかしだからといってオリカのヘイムダルは通常武装を持たない機体である。いくら相手が隙だらけでも倒す事は難しいだろう。オリカは砂の上に腰を下ろすと、二つのヘイムダルの戦いの行方に思いを馳せる。
「戦いに利用されているのが悪い事ですか!? それでも人の命を救えるならば良いじゃないですか! 守りたい物を守れればっ!! それでいいじゃないですかっ!!」
「守りたい物ってなんだよ……! ボクは独り……昔も今も独りだったんだ! 守りたい物……笑わせるなっ!!」
ビームが砂を吹き飛ばす中、それを突き破り黒いヘイムダルは跳躍する。空中から夜月を背に襲い掛かったリイドはアイリスのヘイムダルを踏みつけ、蹴り飛ばす。ライフルで防御したものの体制を崩し、アイリスはシートに背中を打って身悶えた。
黒いヘイムダルは倒れた紅いヘイムダルへと圧し掛かり、その身体を大地へと押し付ける。精密射撃用のヘイムダルではオリカのパワースペックのヘイムダルには力で勝つ事は出来ない。抵抗は試みるが、その状況が変わる事はなかった。
「皆を信じてたのに……! どうせカイトもイリアもヴェクターも知ってたんだ……! お前達はボクが必死にやってるのを見て楽しかっただろうさ! 道理で行き成りレーヴァテインに乗せられたり、行き成り戦えたりするわけだよ!! 全部ジェネシスが仕組んだ事だったんだからなッ!!」
「く……ッ!! 先輩……!!」
フォゾンビームライフルを奪い取ると、リイドはアイリスの機体を蹴り飛ばし、それに銃を突きつけてみせる。明らかに不利であった状況はあっという間にひっくり返り、あとはリイドが引き金を引くだけで彼の“復讐”は完了してしまうだろう。夜の静寂が二機を包み込み――そして少年は寂しげに呟いた。
「もう戻れないんだよ……。ボクは、スヴィアだって撃ってしまったんだ。アイリス……君を撃つのにボクが躊躇出来る内に、引き下がってくれ。ボクはもう……仲間を殺したくないんだ」
「リイド……先輩……」
沈黙が場を包み込んだ。もう自分の言葉では彼を引き戻せない――アイリスはそう悟り、きつく目を瞑った。こうしている間にも仲間たちは戦っているというのに――約束を守る事が出来なかった。悔しさに拳を握り締める少女、その背後から静かに声が響き渡った。
「――――いつまで甘えてるんだ、リイド」
次の瞬間紅いヘイムダルのハッチが開き、声の主――エアリオがヘイムダルの外に身を晒す。月明かりを受け銀色の髪が淡く輝き、少女の黄金の瞳が鋭く闇のヘイムダルを射抜いていた。
機体を持っているわけでもないのに、エアリオの視線はリイドの胸へと突き刺さり怖じさせるに十分であった。驚くアイリスの視線の先、小柄でぼんやりとした少女は眉を顰めて語る。
「リイド、わたしは確かにお前を監視していた。お前を戦いに引き込んだ……。けどな、リイド。それはわたしが自分で選び、自分で望み、自分でそうしようと決めた事だ。スヴィアの命令……それもあった。発案は彼……それも認める。けどねリイド、“選んだ”のは“わたし”なんだよ」
エアリオの迫力にリイドは気づけばヘイムダルを後退させていた。しかし逃がさないといわんばかりにエアリオは身を乗り出し、倒れたヘイムダルの上を歩き出す。
「お前の気持ちは分かる――それは綺麗事かもしれない。お前は悪くない――それはそうかもしれない。けどなリイド、お前は本当に誰かに言われたからレーヴァテインに乗っていただけなのか? 本当に……誰かに仕組まれた運命の上を歩いていただけなのか?」
「…………エアリオ」
それはオリカの言葉にも通じている。その話が先にあったからこそリイドは戸惑っていた。砂漠に凛と響く声に耳を澄ませ、目を閉じたままオリカは微笑む。
「リイド……自分だけが被害者ではないんだって、気づいているんだろう? 周りが全部悪くて、自分は正しいわけじゃないって判ってるんだろう……? お前はお前の意思でレーヴァテインを従えた。お前はお前の意思で仲間を守る為に戦った。お前は! お前の意思で! この戦いの中で迷い、考え、苦しみながらも答えを模索してきたんだろうっ!! その自分が歩いてきた道全てを否定するな!! お前は――――もっとお前を信じていいんだっ!!」
エアリオらしからぬ叫び声であった。否――彼女は元々“こういう”人間だったのだ。どちらかといえば冷静とは程遠い、“熱い”気持ちの持ち主だったのだ。彼女はただその心を抑えていただけ。抑えなければならないだけの理由があっただけ。けれども今彼女は己に課した制約を自らの意思で破り、胸の内に眠る本音を少年へとぶつける。それが礼儀だと信じているから。それしか彼に気持ちを伝える術はないのだと知っているから。
「向き合う事から逃げちゃ駄目だ……! 自分を信じる事から逃げちゃ駄目だ……! この世界が仕組まれた物だというのならば、それをお前が壊してしまえばいいだけじゃないか! リイド……レーヴァテインの力はその為にある! お前の! お前が守りたい世界の! その全てを守るためにあるっ!!」
「…………くっ」
「お前がそれでも仲間を信じられないなら……! 私を信じられないなら! 今ここで私を討て、リイドッ!! だが一つだけ約束しろ! 私を殺したら……ちゃんと前を向いて、ちゃんと過去と向き合って、ちゃんと自分を信じて進むとっ!!」
両手を広げ、エアリオは泣き出しそうな顔でヘイムダルを見上げる。気づけばリイドはコックピットを開き、自らも表に姿を見せていた。
「信じてくれなんて言えない……。信じてくれなんて言っていいはずがない。でもリイド、わたしはお前をずっと見てきた。ずっとずっと見てきた。お前の苦しみも悲しみも一緒に見てきた。わたしはお前を信じてる……。お前を守り続ける。たとえこの世界が何度滅んでくりかえしたってまたお前を守る! だからリイド……お願いだっ! 自分から何もかもを捨てるなんて言わないで……! 自分から、独りになんかなろうとしないで――っ!!」
静かに、声が響き渡った。全てを言い切ったエアリオは肩で息をし、ぽろぽろと涙を流していた。その潤んだ瞳を見つめ、リイドは戸惑っていた。オリカの言葉……アイリスの言葉、エアリオの言葉。様々な言葉が脳裏を過ぎる。だが結局の所そうなのだろう。リイドは――“我儘”で。“焼餅”で、ここへ逃げ込んでいたのだ。
一番心のどこかで信じていたエアリオとスヴィアに裏切られ。過去を奪われ、そして自分は仕組まれた運命の中に居た……。それも全ては信じていたからこそ、好きだったからこそのショックである。結局ただそれだけで、それだけと言ってしまえばそれだけで、でもそれだけとは言いきれないだけの思いがそこにあった。
エアリオはやっと、心の中を明かしてくれたように思えた。じっと瞳を逸らさなければよくわかる。わかりすぎてしまう。エアリオは嘘なんてついていない。本気で今、ありのままの自分で向き合ってくれているのだと。
黒いヘイムダルが膝を突き、その腕を伝ってリイドはエアリオの傍に降り立った。エアリオはただ無言で答えを待っている。そう、全ては告げられたのだ。それを受け止めるかどうか、応えるかどうかはリイド次第――。少年は風の中、前髪を靡かせながら拳を握り締めた。
「…………ごめんね、リイド……。ごめんね……。わたしが……わたしが、もっとリイドを信じていれば……。リイドには、わたしを恨む権利がある……。わたしの事は、赦してくれなくたって良い……。でも、それで皆を嫌いにならないで。独りにならないで……」
「…………エアリオ……。ボクは……」
「――――君はさ。君が思う通りに、もっと自分の気持ちに素直になっていーんだよー」
ヘイムダルの下、いつの間にか近づいてきていたオリカが口元に手を当て大声で叫んでいた。リイドはその声に振り返り、それから目を瞑ってみる。
思い起こすのはこれまでの出来事だ。ジェネシスは信じられない。この世界だって決していいものじゃない。でも――確かに仲間達との絆はあったのだ。そう、こんな世界の中にだって……アイリスの言う、守りたい物はあったのだ。
「……先輩、大事なのはこの世界がどうかという事ではないでしょう……? 大事なのは先輩、貴方が何をどうしたいかです」
「ボクは……一度は逃げだしたんだよ?」
「逃げたくなることだって、人にはいっぱいあるにゃー」
「ボクは……スヴィアを討ったんだよ?」
「……きっとスヴィアなら生きてる。あいつは不死身の男だからな」
「ボクは…………。ボクは……自分勝手で……。我儘で……。ガキで……。それでも、いいのか……? それでも……また、守っても……いいのか?」
誰も応えなかった。それは応えるまでも無い問いかけだったから。エアリオが無言でリイドの手を両手で包み込み、ぎゅっと握り締める。涙を流しながら微笑んだエアリオを見つめ、リイドはその小さな身体を強く抱きしめた。
「……戻ろう、リイド? 今、リイドの力が必要とされているんだ。カイトやイリアが頑張ってる。エルデがお前を信じてる。それ以上に戦う理由なんて、必要ないよ」
「……うん。そうだね……。そうだよ……。ありがとう、エアリオ……。ありがとう……」
月明かりの中、二人は強く抱き合っていた。お互いの存在を確かめ合うように。お互いの過去を確かめ合うように。生じた亀裂はきっと埋まらないだろう。時の壁は決して崩れる事はないだろう。それでも前へ、前へ……。歩む事をやめてしまえば、その時心は死んでしまうのだから――。
顔を上げた少年はもういつも通りに戻っていた。弱音を吐いている暇などない。仲間達と顔を見合わせ、少年は振り返った。今はやるべき事がある。ここで、嘘や本当を吟味しているよりも……先に。もっともっと、大事な事が――待っていたから――。