交錯、天空都市(1)
「じゃじゃ~んっ!! 見て見てリイド君! オリカちゃんの制服姿だよーっ!!」
と、朝の食事風景の中オリカは一人だけハイテンションで叫んでいた。例のホルスとの戦いから数日後……。ボクは相変わらず続いている平穏な毎日を過ごしていた。
ホルスとの戦いは壮絶だったし、その後色々大変な事になるかと踏んでいたのだけれど、実際はどうにもならなかった。何故かあの日の反動は受けなかったし、イリアも無事……。カイトとアイリスは入院したままだけど、とりあえず誰一人欠ける事無く世界は続いている。
そんなある日の朝、現れたオリカは第三共同学園の制服を身に纏っていた。なんでも話によると元々転入する予定だったらしいのだが、手続きと準備がついに完了したらしい。というわけで、今日から晴れてオリカも学生という事になったんだとか。
第三共同学園の制服は小、中、高でそれぞれ似ているようで違うデザインで、オリカの羽織っているブレザーはボクらのものとは微妙に異なる。そういえばオリカはボクらより年上なんだよな……。一応、レーヴァテインチームでは最年長になるのか。こんなのが高校生……世も末だな。
そんな事を考えながらエアリオとオリカ、三人で朝食を済ませ、三人で出発する事になった。通学路を歩くオリカはなんだかやけに楽しそうで、小躍りでも始めそうな勢いだ。エアリオは相変わらず眠いのか、目をごしごし擦りながらトボトボ歩いている。
「オリカ……そんなに学校行くの楽しいの?」
「うんっ! だってオリカちゃん、学校なんて一度も行った事ないもん」
満面の笑みでそう返すオリカ。ボクは一瞬言葉の意味が理解出来ず、耳を疑った。オリカは胸の前で手を組み、目をキラキラ輝かせている……。何……? 一度も行った事がないってどういう事だ……?
「さすがに義務教育くらいは受けてるだろ? 初めてなわけないだろが」
「ううん、私は義務教育も受けてないよ? ちっちゃい頃からずっと戦闘訓練ばっかりだったからね~……。だから、学校がとっても楽しみなんだっ」
オリカはボクの手を握り締め、本当に幸せそうに微笑んでいた。なんだろう、こいつ……。変わってるのは判ってるんだけど……。なんか……可愛そうなヤツなのか……もしかして……。
そんなこんなでボクらは学園に到着した。ちなみに高校と中学では校舎が異なるので、ここでオリカとはお別れだ。しかしちゃんと教室までたどり着けるんだろうか……? いや待て、そもそも義務教育を受けていない人間がいきなり高校生だと……? そんな事がまかり通るのか……ジェネシス……。
「それじゃあまた休み時間にねっ!! ばいばい、リイド君~!! 大好き大好きっ!! 離れていてもオリカちゃんの心はリイド君の傍にあるよーっ!!」
「い、いいからとっとと行け!! お前目立ちすぎなんだよ!!」
ただでさえ外見的に目立つのに、校庭の真ん中で叫ぶオリカ……。あいつはいつでもあんな様子だからいいが、こっちは大迷惑だ。これからもしかしてこんな日々がずっと続くんだろうか……? そう考えると軽く眩暈がする。エアリオはそんなボクらの様子を眺め、眠たげに笑っていた。
「オリカ、楽しそう」
「……ああ。あいつはうらやましいよ……。何してても幸せって顔だもんな」
そういえば、既に数日前から学園祭の準備期間に入っており、学園内は普段より少しだけそわそわした空気が広がっていた。ボクにはあまり関係のない話……と言いたい所だが、カグラに実行委員として手伝うように言われてしまっているのでそういうわけにも行かなかった。ちょうど良いタイミングで転入してきたのか、それとも間が悪いのか……。どっちにしろ、オリカにとって学園祭が楽しいイベントになればいいなと思う。勿論、他意はないけれど。
「そういえばエアリオのクラスって何やるんだっけ?」
「……? 何って?」
「え? ほら、学園祭」
するとエアリオは“何それ”と言わんばかりに目をまあるくしていた。まさかとは思うがこいつ……学園祭の話し合いの最中、ずうっと寝てたんじゃねえだろうな……。
じっとエアリオを見つめるが、彼女はとぼけているわけではなく本当に意味不明らしかった。成る程、確かにそうだ。エアリオは絶対に嘘をつかない子だ。というよりはつけないと言った方が正しいのか……。兎に角何も判っていない状態ではクラスメイトにも迷惑がかかるんじゃなかろうか? ボクは足を止め、エアリオの肩を叩いた。
「あのな、学園祭って言うのは……。まあ、学園の生徒主体で行われるお祭りみたいなものだよ」
「お祭りってなに?」
「そっからか!? え、ええと……。祭りの概念か……。言われてみると難しいテーマだな……」
小首をかしげ、きらきら透き通った目でボクを見るエアリオ。暫く腕を組んで考え込み……そしてボクは一つの結論に到達した。エアリオの背中を押し、再び歩き出す。
「……まあ、クラスメイトに聞いてみれば?」
「……わかった」
完全に丸投げである。祭りとは何か……と言われてもボクも祭りは祭りとしか言いようがない。そもそもボクだって祭りに詳しいわけじゃないんだ。学園祭という行事があるのは知っているけど、だから何だって話で……。これまでは一度も参加しなかったのだから、ボクに学園祭の何たるかを語る資格などあるはずもない。
エアリオの背中を押し、ボクらは教室へ急いだ。階段の所でエアリオと別れ、教室に入る。自分の席に座って、深呼吸。こうして無事に学校に通っている事……それそのものがある意味奇跡みたいなものなのだと思う。あのホルスとの戦い……誰かを失っていても何もおかしくはなかった。
窓の向こうに浮かぶ景色に様々な思いを重ねる。カイトもアイリスも怪我はしたものの無事……。カイトは重傷なので復帰に時間はかかるそうだが、アイリスは直ぐにでも復帰出来るらしい。イリアも一度は意識不明になったものの、今はちゃんと目覚めて元気だ。レーヴァテインの破損もそれほどではなく、現在は殆ど完全な状態にある。そんな戦跡を収めた所で……ボクは自分が見た不思議な夢の事を思い返した。
何故それが思い立ったのかは判らない。ただ、だんだんとその夢を見る頻度は高くなっているような気がした。まるで思い出すように、見知らぬ景色を見る……。とても奇妙な感覚だった。それが夢というものなのだと言ってしまえば脈絡のない全てに説明がついてしまうけれど、ボクはただそれだけだとは思えなかった。
もしかしたらこの夢は、ボクが失ってしまった二年前より過去の記憶に関係しているのかもしれない……そんな風に思う。エアリオなら、何か知っているのかもしれない。けれどそれを訊ねるのは少しだけ気後れする。なんだか……失ってしまったものを取り返したら、今の自分が自分ではなくなってしまうような気がしたからだ。
自分で言うのもあれだけど、ボクは随分と変わった気がする。たかが数ヶ月の間に本当に様々な出来事があった。色々な人と知り合って、仲間になって、一緒に戦った。そんな毎日を今はそれなりに気に入っているんだと思う。自分でもその気持ちは良くわからないけれど……たぶん、きっと、そうなのだ。
もっと強くなって、もっとレーヴァを動かせるようになって……。全てを守れるようになりたいと強く思う。あの戦いで誰も失わなかったのはただ運が良かっただけに過ぎない。もしもあそこで誰かを失っていたら……今もこうして普段通りではいられなかっただろう。そう思うと、少しだけぞっとする。得た物を失わない為には絶対に力が必要なんだ。だからそれを求め続ける……。今は、昔とは違う。手に入れた力の大きさと責任の重さ……わかっているつもりだ。
だから自分なりに考えて生きていこうと思う。スヴィアを見返してやりたい気持ちは今だって本物だ。でもそれだけが生きる意味じゃない。自分で……誰かに左右されるわけではなく。この両足で生きる道を探せたらそれでいい……そう思えるようになったのは、多分イリアやカイトのお陰だ。
先生が教室に入ってきてホームルームが始まった。ボクはそれを横目で眺め、少しだけ後悔した。退屈だと思っていたこの日々がもしも本当は意味のあるものだったのならば……。それをないがしろにしてきたボクは、損をしていたのかも知れない。いや……そんな風に思えるようになっただけ、気持ち悪いくらいに変化したって事か。そうして自嘲染みた笑いを浮かべて窓の向こうに再度目をやった……その時である。
「オ……ッ!? オリカッ!? 何やってんだ!?」
思わず立ち上がり、絶叫してしまった。なんと、窓にオリカがへばりついて手を振っていたのである……。窓を開けて身を乗り出すとオリカは器用に窓の淵にあった段差につま先を引っ掛け、ボクを立ったまま見下ろしていた。
「やだなぁ、リイド君に会いに来たに決まってるじゃない」
「じゃねえよ!! ここ三階だぞ!? どっから来た!?」
「えっと、高等部の校舎の屋上から隣のこっちの校舎までジャンプして、あとは屋上からラペリング♪」
見ればオリカは腰に特殊なベルトを装備し、言われなければ目に見えないほど極細の糸でつるされていた。なんというか……呆れた根性だ。お陰で完全にホームルームが停止してしまっている。ニコニコ笑っているオリカにイラっときたので、机からカッターナイフを取り出しそれでオリカをつるしている糸を切った。
「ほわぁっ!? リイド君それはドSっていうか殺人だよ!? ここ三階だよ、何考えてるの!?」
「お前が何考えてんだ!! さっさと落ちろ!!」
更にオリカの身体を押すと、体勢を崩したオリカは片手で窓辺にがしりとしがみついてなんとか耐えていた。プルプルしながらボクを見ているオリカ……。それを見下ろし、ボクは言った。
「とりあえずどうしてここに来たのかもう一度確認していいか……?」
「ふぬぬ……っ!? リ、リイド君の監視と安全確認のためです……っ」
「この学園にはな、いきなりホームルームしょっぱなからラペリングで強襲してくるようなヤツはいないから安心して落ちろ」
「にゃぁあああ――ッ!? リイド君、だめ、だめだよう……! こんな人目のある所でそんなドSっぷり発揮されたらオリカちゃん胸がドキドキしちゃ……うッ!?」
オリカの指を壁から引っぺがすと、その身体はそのまま落下していった。しかし壁を蹴ったオリカは空中で回転し、見事に着地して見せたのである。窓辺からオリカを見ていたクラスメイトたちが拍手をし、オリカはそれに応えるように両手を挙げた。この様子ならクラスでも上手くやっていけるだろう。
とりあえず黒板の前から新品のチョークを一本拝借し、それをオリカ目掛けて思い切り投擲する。額にチョークの直撃を受けたオリカはばったりと倒れ、額を押さえてぷるぷる震えていた。何も見なかった事にして窓とカーテンを閉める。勿論鍵をかけるのも忘れない。
「……レンブラム……。そろそろ先生、ホームルームしていいか……?」
「え? ああ……。ボクの事は気にせず進めてください」
先生が何故か泣き出しそうな顔をしていたが、ボクは興味なかったので勝手にノートパソコンを開いてフォゾン力学の計算をしていた。暫くすると情けない声の朝礼が行われ、いつも通りの一日がまた始まるのであった――。
交錯、天空都市(1)
「対神兵器開発室が“独自開発”した人型機動兵器、ねぇ……。どう考えたって独自開発って感じじゃあねぇな、こりゃ……」
その通達は唐突に行われた――。ジェネシス上層部より、アーティフェクタ運用本部への命令……その内容は、ジェネシス対神兵器開発室による独自開発兵器、“マステマ”の実戦配備、及び同パイロットの運用本部への配属であった。
当然、それはヴェクターも……そしてヘイムダルを生み出したルドルフも知らない事実であった。まさか水面下で開発されていたヘイムダルに匹敵する人型兵器が完成品でいきなり実戦配備される事になるなど、誰が想像しただろうか? ハンガーに搬入された紫のカラーリングのその機体を見上げ、ルドルフはどう考えても不機嫌な様子だ。
「外見はヘイムダルよりも、同盟軍のヨルムンガルドに近いですね。スペックデータによると、ヘイムダルよりも繊細な能力に優れているようですよ?」
「……ああ、データは俺様も目を通してある……。中距離による怪物連中のデータ収集、及びレーヴァテイン、ヘイムダルの活動を情報戦にて援護……というのは聞こえが良いが、要するにレーヴァテインの監視だろ? もしかしてヘイムダルのデータを漏洩させたのは対神兵器開発室の連中じゃねえのか……?」
腕を組み、イライラした様子のルドルフ。隣に立ったユカリもこの状況に納得しているわけではない。だが、この組織が企業であり、そして運用本部は特別な位置づけにあるとは言えやはり組織の渦中にある。上層部からの命令に逆らう事が出来ないのは当然であった。
「で、ヴェクターはなんだって?」
「“命令だから従うしかない”……だそうですよ。それに実際、データ収集が上手く行けばこちらの兵器開発にも進展が得られますしね。正直、最近のレーヴァテインは遠距離からのデータ観測だけでは完全に把握し切れませんし……」
先日のホルス戦ではついにシンクロ値が測定不能という事態に陥り、更にレーヴァテイン周辺の状況も非常に曖昧になっていた。これまでもレーヴァテインに搭載されたジェネシス製の情報収集機器が戦闘に耐え切れず破損する事はあったものの、最近はリイドの成長もあっていよいよ制御しきれない傾向にある。
「それにしても、急激に戦力が増強しつつありますね……。ヘイムダルだけでも十分すぎるくらいに配備されているのに……」
「ま、ヴァルハラの防衛戦力としてだけ使うには過ぎた力かもな。だが第一神話級が相手になれば、レーヴァテインがやられる可能性もあるんだ。備えあれば憂いなし……だろ?」
「別の憂いがあっては意味がないと思いますけどね。新しく配属されるマステマのパイロット……また少年らしいですよ?」
「さしずめ、上層部の監視役って事か……。めんどうくせえな。どんなヤツだ?」
「それが……元同盟軍のパイロットだったみたいなんです。幼少時より難民として各地を転々とした後、同盟軍にて戦闘機パイロットとして活躍……。その後、いくつかの戦地を移動し、同盟軍を離脱してジェネシスに来たそうです」
「そこまでうさんくせえと逆になんかこう……ほっとするな」
「冗談言ってる場合じゃないですよ? 数値だけ見ればレーヴァテインの適合者としても十分すぎる能力です。恐らくカイト君が復帰するまでの間の予備パイロットという意味もあるんでしょうね」
ユカリは抱えていた資料をルドルフに手渡す。そこには過去の経歴と顔写真が載っていた。長く伸ばしたブロンドの髪が印象的な少年で、眼鏡の向こうに覗く瞳は随分と無機質に見えた。ルドルフはその名前を忌々しげに読み上げ、そしてマステマを見上げるのであった。
「…………。“エルデ・ラングレン”……か――」
「それで……あたしはいつになったら退院出来るのよ~~ッ!!!!」
ジェネシス本部にある病室、そこにイリアの叫び声が響き渡っていた。彼女がいたのはカイトの病室で、重傷のカイトはベッドの上に横たわってイリアを眺めている。
「それを俺に言われてもな……。仕方ないだろ? まだ安全とは言えないんだってよ」
そう、実はカイト、アイリスだけではなくイリアもまた入院したままだったのである。その後イリアは様々な検査を受けたが、未だに退院させてもらえずにいた。アルバからしてみれば高いシンクロの後意識不明、更に唐突に目覚めるなど今回のイリアの一連の出来事には不安要素も多く、まだまだ経過を見たほうがいいという判断である。それはイリアのためなのであるが、いつも身体を動かしていなければ退屈で仕方がないといった性格のイリアにとってみればこの入院生活は拷問そのものだった。
身体に傷はないしどこも痛まないので、本部内をウロウロする事は許可されている。従って暇つぶしにカイトの部屋やアイリスの部屋に行くのだが、イリアは元気でも他の二人は怪我人……。そしてこの閉鎖された入院生活では新しい話題というものが無く、一週間近く経った今イリアの我慢は限界に近づいていた。
「もうどう考えたって元気なのに……。アルバ先生……今回ばかりは恨んでやる……っ」
「ははは……。てか、お前こそいつも俺にアルバさんにみてもらえって言ってたじゃねえか。自分の番だと思って大人しくしてろって」
「それとコレとは関係ないわ」
「……関係ないんスか……」
びしりと言い放つイリア。最早こうなると手のつけようがない……。パイプ椅子の上に座り、退屈そうに足をばたばた投げ出すイリア。そんな時、救世主よろしくアイリスが病室に入ってきた。
「……あ、やっぱり姉さんも一緒だったんですか?」
「アイリス!! ちょうど良かったわ、カイトがつまんないのよ!」
「つま……ちょ……。俺、怪我人なんだけど……。しかもアイリスを庇ったからボロッボロなんスけど……」
「カイト、その件については本当にごめんなさい……」
「いやアイリス、お前は謝らなくていいんだけど……ああもう、なんでこんなめんどくさいんだこの姉妹は……」
一人遠い目をするカイト。そんな少年をほったらかしにイリアはアイリスへと歩み寄る。アイリスは片足の骨にヒビが入っていたのでまだギプスで固定し、松葉杖をついている状態だった。そんな妹の身体を眺め、自分が座っていた椅子を差し出した。
「アイリス、怪我してるんだからあんまりうろうろしちゃだめよ?」
「……姉さん、それは姉さんも同じじゃないですか? 姉さんの方こそ大変だったんですから、少しは自愛してください」
「あたしは平気よ、頑丈だもの!」
「…………そんな事言って、何かあって目覚めなくなったりしたらどうするんですか? 私もカイトもショックで立ち直れなくなりますよ」
「そんなことないない! あははははっ!!」
何を言っても無駄だと思ったのか、アイリスは姉の厚意に甘え椅子の上に座る事にした。イリアはそんなアイリスの背後に立ち、抱きつきながら笑っている。
「ねえ、あんた入院生活で退屈じゃないの?」
「たまにこうしてカイトや姉さんと話していますし、それに本を読む時間が沢山あって丁度良いです。普段はそんなに時間が取れませんから」
「ほ、本……?」
アイリスは頷き、持ってきていた文庫本を取り出した。アイリスの趣味は読書……。暇さえあれば本を読むのが日課だった。普段は勉強であまり時間が取れないのだが、入院中くらいはと割り切って読書を満喫しているらしい。しかしイリアとカイトの表情は青ざめていた。
「一日中本読んでるのか……? つ、疲れないか?」
「え……? いえ、全然。そういえば姉さんもカイトも本は読まないんですね」
「あ、あたしだって読書くらいするわよ!」
「……イリアの場合はマンガだろ……。しかも少女マンガじゃなくて少年マンガ……うごッ!?」
カイトの脇腹をイリアが小突く。しかし軽くつついただけのつもりがカイトは尋常ではなく痛がっていた。脇腹が折れているのだからそれも当然なのだが、イリアはカイトが大げさに痛がっているようにしか思っていなかった。
「そ、それで今は何の本を読んでるの? あたしも知ってるかもしれないし……教えてよ」
「え……? いいですけど、少し古いですよ? 今読んでるのは“閉ざされた時間たち”という本です。大体二十年くらい前に流行ったSFですね」
「…………。カイト、知ってる?」
「俺に振るなよ……」
「本当に知らないんですか!? 映画化もされてますよ!?」
しかし二人はだんまりである。アイリスは信じられないと言った様子で二人を眺め、本を閉じた。何となくここで本を読むのは場違いだと感じられたからだ。そしてそれはあながち間違いでもない。
「そ、そういえば共同学園はもうすぐ学園祭だったわよね!? 学園祭までにはあたしたち退院出来るかしら?」
「……俺は多分難しいぞ……。まだ当分ベッドの上だな……」
「私と姉さんは、何とか間に合うんじゃないですか? 姉さんが行きたいなら、私からアルバさんにお願いしましょうか?」
「い、いや……さすがに妹にそこまでしてもらうのもちょっと……」
というイリアだが、実際アイリスのほうがしっかりしているのは客観的に見て明らかであった。しかしそれを言えば本人は怒り出すので何も言わないのが吉である。少年は少女との長い付き合いで良く訓練された思考を育んでいた。
そうして三人が雑談をしていると、そこにリイドとエアリオがやってきた。二人は殆ど毎日見舞いにやってきており、入院組にしてみればそれが一日の唯一の楽しみでもあった。相変わらずアイリスはリイドが気に入らない様子だったが、イリアとカイトの手前急にリイドに噛み付くような事はなかった。
「三人ともいつもこの時間になるとここに集まってるよね」
「……暇なの?」
「ひ、暇じゃないわよ。あたしたちだって結構忙しいのよ。ど……読書とか……っ」
そう反論するアイリスだったが、背後でカイトは涙を流していた。誰一人イリアの発言を信じる者はいなかったので、リイドはそのまま話を続けた。
「皆覚えてる? 学園祭が終わったら定期テストだって事」
アッサリと事実を伝えるリイド。しかしそれを忘れていたかった人が二名……。リイドは視線を鋭くし、そうして鞄から教材を取り出した。
「……あんたたち本当に受験生だって自覚あるのか? しょうがない、今日は勉強会だな」
「……レンブラム、貴方は姉さんをバカにしてるんですか? 年上の貴方がどうして姉さんに勉強を教えるんですか?」
「そりゃ、イリアとカイトが馬鹿だからに決まってるだろ」
「む……!? 姉さんは馬鹿じゃありません!! そうですよね、姉さん!?」
と、振り返るアイリスの視線の先、イリアは両手で耳を塞いでいた。妹からの純粋な期待に絶対に応えられない姉……。現実はとても悲劇的だった。状況が飲み込めずにきょとんとするアイリス……。彼女が現実を知ったのは数分後の出来事である。
「ま、まさか姉さんが一年生の問題も出来ないなんて…………」
「……ち、違うのアイリス……! これには深いわけが……」
「……もういいです。姉さん、私がこれから毎日みっちり勉強に付き合ってあげますから。このままでは進学してもろくな編成になりませんよ?」
「う、うぐぐ……。ご、ごめんなさい……」
こうしてイリアにはアイリスが勉強を教える事になった。妹にびしばしと勉強を教えられる姉……。威厳も何もあったものではない。泣きながら勉強するイリアを遠巻きに眺め、リイドは冷や汗を流していた。
「あれは大丈夫なのか……? 姉妹の絆として……」
「ああ、アークライト姉妹は昔からずっとあんな感じだから気にすんな」
「逆に気にするんだけど……。そうだカイト、ついでだからオリカも呼んでいいかな?」
「そりゃ構わんけど……オリカもバカなのか?」
「義務教育受けてないらしいよ――――」
リイドの力の抜けた笑顔からはなんだか途方も無い苦労が窺えた。こうしてイリア、カイト、そしてオリカという比較的年上のメンバーが年下から勉強を教えられるという奇妙な絵が完成する。勉強会は三時間に及び、その間イリアは何度の何度も逃げ出そうとしたがその度にアイリスが哀しそうな顔をするのでトボトボと戻ってくるのであった。
「おいっ!!!! オリカはまず掛け算割り算からか!? こんなレベルで高校なんかいけるわけないだろ、バカッ!!!!」
「だって、オリカちゃん勉強なんかしてないし……。でも、日常生活では足し算引き算だけ出来れば生きてけるもんっ」
「生きてけねぇよ馬鹿野郎!! 親の顔が見てみたいよ、全く!!」
「…………でも、リイド君の個人レッスン……どきどきするにゃ~。えへへ、オリカちゃんバカでよかったかも~」
次の瞬間リイドはオリカの帽子を取り、教科書を丸めた鈍器で頭を引っぱたいた。中々軽快な音が響いたがオリカはまるで効いている気配が無い。続けてリイドは五回ほど滅多打ちにし、やっと帽子を戻した。
「いいから黙って勉強しろ……。お前は家に帰ってからも勉強だな……」
「ほんとーっ!? わーいわーい!! リイド君と二人っきりでお勉強だーっ!!」
「それはちょっと待った……。わたしにも言いたいことがある」
と、手を上げたのはエアリオであった。先ほどまでただ部屋の隅で様子を見ていただけのエアリオが会話に参加してきた事に驚く一同。そうして彼女の発言にもう一度驚きなおすのであった。
「さっきからリイドたちが教えてる勉強、わたしも一個もわかんない」
全員が絶句した――。全員の視線が集中し、エアリオは少しだけ照れくさそうに微笑んだが、照れている場合ではない。リイドはエアリオの肩をがしりと掴み、泣きそうな顔で言った。
「頼むからわかんないなら最初から参加してくれぇっ!! どっからわかんなかった!?」
「全部」
「全部。じゃあねえんだよぉおおおおっ!!!! 最初からか!? また最初から全部教えるのかあああああッ!!!!」
頭を抱えて絶叫するリイド。こうして他に入院患者のいない病室ににぎやかな声が夜遅くまで響き渡っていた。そんな病室の前を通る、スーツ姿の少年が一人。ロングの髪を背後で束ねた少年は病室と呼ぶには余りにもにぎやか過ぎるその部屋の前で一度足を止め、ネームプレートを見やった。
「……カイト・フラクトル……? ああ、確かレーヴァテイン適合者の……」
挨拶をしようかとも思ったが、にぎやかな空気を壊すのもどうかと思いとどまる。そうして三番目の適合者は一人、薄暗い廊下の中へと姿を消していくのであった――。