翼よ、かがやいて(2)
「あたしが出撃します」
開口一番、イリアは強い口調でそう断言した。その発言を誰もが受け入れ、反対する者は一人も居なかった。イリアの戦いたいという意思は、誰もが理解していたからだ。
事は突然起こった。大気圏外を探索していたジェネシスのレーダーに、ある神の反応が検出されたのである。その名は第一神話級“ホルス”――。かつて一度ヴァルハラを襲撃し、そして辛うじて撃退する事に成功した炎の神話。イリア・アークライトという少女が、翼を焼かれ失った……正真正銘、彼女の根底に存在するトラウマそのものだった。
一年前、スヴィアが乗り込んだイカロスはホルスに敗北した。しかしホルスはそのまま何をするでもなく、地球の周回軌道を飛んでいたらしい。元々何もしない神だった。探知するのも難しい。だからこそ、それと戦い破れるなど、本当に稀有な事例だった。それに挑もうと言い出したのも、イリア。それに負けてしまったのも、イリアだったのだから責任は彼女に収束して当然であった。
人類に何をするでもなくただただ漂うだけの神話……。上級の神――第一神話級には稀にそうした無意味な行動が見られる事がある。それは彼らが下級神に比べ明確な意思を持ち、個性というものを所持しているからだと言われている。その個性を持つ、神の意思にたまたま気まぐれに見逃してもらえた……。そんな強烈な敗北感がイリアのプライドにざっくりと突き刺さって穴をあけたまま、今まで一年間彼女を責め立て続けていた。
「あたしが出撃して、今度こそホルスを倒します」
胸に手を当て、決意するように発言する。しかしブリーフィングルーム内の空気は彼女ほど好戦的ではなかった。そもそも、元々はブリーフィングの為に集まったわけではなかったのだが……。
「しかしですね、イリアさん? ホルスは別段今は放っておいても問題のない敵です。人類にとってほぼ全く害がない以上、下手に手を出す必要もないかと思うのですが」
嗜めるようなヴェクターの言葉……それは正論だった。このまま放っておけば、きっと数時間後にはヴァルハラの頭上を通り過ぎ、また人類には探知できない彼の旅が始まるだろう。そもそも一年前何故ホルスが襲撃を仕掛けてきたのかさえ謎であり、そして何故レーヴァテインが見逃されたのかも未だ原因不明なのだ。だから、何もしなければいい。傷つくこともなく、ただ何もしなければそれで丸く収まるのだ。それでも少女は……。それを理解していながら少女は、強く拳を握り締める。
「迷惑だって事はわかってます……。以前の二の舞になるかもしれない事もわかってます。皆を危険に晒すだけだって事も……ただの我侭だって事もわかってます! でも、お願いします……。どうしても勝ちたいんです……っ! このままじゃあたし、一生飛べないままなんです――っ!」
太陽に近づこうとして翼を焼かれた少女。もう一度その燃え尽きた翼を自らの心に取り戻す為に、たとえ危険でもまた太陽に挑みたい……。それは少女の切なる願いだった。以前から周知の事だった。それでもヴェクターは首を縦に振るのを迷っていた。
「気持ちはわかります。けれど、貴方のそんな不安定な心でホルスに勝利出来るのですか?」
「……それはっ! やってみなければわからないわ!」
「いいえ……わかります。心理状態の不安定さはレーヴァの性能を極端に左右します。貴方も知っている事でしょう? だから前回、不意を突かれて動揺した貴方は負けたのではなかったですか?」
ぐうの音も出ない正論は別に彼女を言い負かせたくて言っているわけではない。ただヴェクターは副司令として、勝算のない戦場に部下を向かわせる事は出来なかっただけである。第一神話級となればそれはクレイオスやアルテミスどころの話ではない。自ら明確な意思を持ち、本能だけで戦う低級神とは存在の格が違いすぎる。
むやみに手を出せばレーヴァテインとてあっと言う間に敗北しかねない強敵……。この世界にたった数体しか確認されていない上位存在を相手に、足場も固まっていないレーヴァテインでどう勝利しようというのか。ヴェクターの判断は彼なりにイリアの事を、そしてジェネシスを……ヴァルハラの事を考えた物であった。
「今度負ければ、死ぬのは貴方だけではない。沢山の人の期待と命を背負っているレーヴァと、あなたの大切な仲間を殺す事になりかねないんですよ?」
「それは……わかってるけど……! でも、だって……! あたし、みんなの足手まといで居たくないっ!!」
顔を上げ、悲痛なくらい必死に叫ぶイリア。それが彼女の本音であり、彼女の心の奥深くまで突き刺さった傷の痛みそのものだった。
「空も飛べなくて何がレーヴァテインよ! あたし、誰かの力を借りなきゃまともに出撃も出来ないのなんてもう嫌なのっ!! 乗り越えたいのよ、自分自身の弱さを……! お願いヴェクター……! お願いします!!」
深々と頭を下げるイリア、その額を汗が流れる……。場を沈黙が包み、ヴェクターがイリアに言葉を投げかけようとしたその時だった。部屋に飛び込んできたユカリは慌てた様子でヴェクターへ駆け寄った。
「ヴェクター、ホルスが……! ホルスが、予定していた周回コースから離脱し、ヴァルハラに向かっています!」
ユカリの叫びにヴェクターの顔色が変わった。それはまるきり一年前の事件の時と同じケースを意味していた。本来ならば人間に対して無害であるはずのホルス……。それがヴァルハラに何故か向かってくるという事。普段は能天気な態度のヴェクターもこの時ばかりは真剣な様子だった。
「…………。どうやら、このままやり過ごすという事は出来なくなってしまったようですね……」
「なら、あたしが……!」
「……そういう事であれば、こちらも予定を繰り上げねばなりません。まあ、元々その為に全員を招集したのですが……。どうぞ、お入りください」
イリアを無視して話を進めるヴェクター。そうして彼が指を鳴らすと、自動ドアが左右に開いて一人の少女が部屋に入ってくる。イリアも、カイトも、リイドも……その場に居た全員が我が目を疑った。紅の髪を揺らし、ジェネシスのスーツを着てヴェクターの隣に立つ少女……。アイリス・アークライトは自らの姉の戸惑う姿をその瞳に映し、尚も冷静だった。
「本日付でジェネシスアーティフェクタ運用本部、レーヴァテイン“干渉者”として配属になりました。アイリス・アークライトです。どうぞ宜しくお願いします」
「な…………ッ!?」
「アイリス・アークライトッ!? ちょっとヴェクター、これは!?」
身を乗り出したのはリイドだった。先ほどまでは黙っていられたが、最早黙っていられる状況ではない。彼女は自分を“レーヴァテイン干渉者”と名乗ったのだ。となれば、彼女の存在の意味する事はたった一つしかない。
イリアはこの事実を知っていたが、まさかこんなにも早くアイリスが参戦する事になるとは思っても見なかった。ついさっき、ここに来る前病室で出会ったばかりなのだから。元々イリアはここにアイリスがパイロットになるという事についての説明を求めて乗り込んできたつもりだった。しかしホルスの姿が観測され、それどころではなくなっていたのだ。
姉にとってみれば、それは自分にとって耐えかねる問題が二つ同時に畳み掛けてきたのと同じ事である。完全にイリアは放心状態になり、瞳を揺らしながら唖然としていた。それに対して妹はそんな姉から視線を逸らし、ただ沈黙している。カイトもなにがなんだかわからず、ただイリアを支える事しか出来ない。リイドは前の乗り出し、アイリスの前に立った。
「君は本当にそれでいいの……? レーヴァテインは……君を傷つけたロボットなんだぞ……」
「……知っています、リイド・レンブラム。貴方が81番プレートの事件で街を破壊した張本人である事も、私を入院させた事も」
リイドもまた、そのアイリスの冷たい言葉に胸を抉られる思いだった。しかし引き下がるわけにはいかない。何故だかはわからなかったが、ここで自分がなんとかしなければ大変な事になる……そんな気がしたからだ。
「ヴェクター、このタイミングでアイリスを紹介って……まさか……」
「そのまさかです。適性検査の結果、彼女には超遠距離攻撃の才能があります。まあ……平たく言えば狙撃ですね。ホルスとまともに遣り合えば、レーヴァテインはタダではすまない……。故に超遠距離からの狙撃でホルスを撃墜します」
「おいヴェクター、冗談だろ!? アイリスはまだ一度もレーヴァテインに乗った事もないただの学生なんだぞ!? つい今日まで入院してたこいつに、レーヴァテインを動かして第一神話級を落とせってのか!? 無茶苦茶だッ!!!!」
「しかし、最も安全で最も勝率の高い作戦です。仮に失敗したとしても、干渉者を乗せ変えて出撃すればいいだけの話です。それに――忘れたのですか? レーヴァテインにとって経験はあまり意味がないのです。問題は“適正”……。それさえあれば、神話級を撃破する事も十分可能なのです」
それはリイドのケースを指し示しているのは明らかだった。リイドは確かにその日当日になるまでただの学生であり、何の特殊な訓練も受けていない一般人であった。その日ただばったり会っただけのエアリオと共に出撃し、見事神話級クレイオスを撃破して見せたのだ。自分でそれをやってしまっただけに、リイドは何も言い返すことが出来ない。
「マルドゥークの弓じゃ駄目なのか……!? いくらなんでも、それは……!!」
「マルドゥークの弓の射程距離はほぼ無限だけど、その精度はあまり頼れる物じゃない。基本的に連射するのを前提とした命中率だから」
割って入ったのはエアリオだった。干渉者でありマルドゥークを最も理解している彼女がそういうのだからそれが絶対なのだろう。確かにユウフラテスは精度や射程距離よりも断続的に、範囲的に攻撃を行うのに特化した武装だ。フォゾンの矢は重力や大気通過による減衰を受けず真っ直ぐ飛ぶものの、その精度は所詮“弓”だ。
「検査の結果、アイリスさんのレーヴァテインには超遠距離狙撃用のライフルを精製する能力があります。現時点を持ってテストタイプレーヴァテインをタイプ“オルフェウス”と命名、これより作戦会議へと移行します」
それは、既に彼女が長い入院期間中にレーヴァテインへの適合テスト、そしてどのようなレーヴァテインの装甲、能力が具現化するのかが確認されているという事だった。水面下で進んでいた誰も知らなかった干渉者の登場……それはあらゆる意味でパイロットたちに衝撃を齎した。
「私の“オルフェウス”なら、ホルスを超遠距離から狙撃する事が可能です。姉さんに倒せなかった敵……私が倒してみせます」
「アイリス……あんた……レーヴァテインに乗るって事がどういう事なのか判ってるの!?」
「…………ちゃんと説明も受けましたし、マニュアルも読みました。姉さんの“イカロス”の説明を聞いた上で、私が出撃するべきだと思います。私は絶対に失敗しない……。姉さんのようにはならない」
そう断言するアイリスの眼差しは鋭い。自惚れや傲慢さがあるわけではない。だが……彼女は姉を見返したいと、姉に認めてもらいたいと思うあまりそれ以外の事実を冷静に判断する事が出来ない状況にあった。結局、何かに熱くなるとそれ一直線なのは姉譲りという事なのだが……。
イリアとアイリスは真っ直ぐに睨み合う。そんな二人の間に割って入ったのはカイトだった。カイトはイリアとアイリス、両方の肩を叩いて首を横に振る。そうして驚くべき事を口にした。
「……判ったよ、アイリス。俺が乗ってやる。一緒に……あいつを倒しに行こう」
「カイトさん……」
「ちょ……!? ちょっと待ってよ! それはまずいだろっ!!」
慌てた様子で口を挟んだのはリイドだった。自分でも何故口を挟んでしまったのかよく分からないまま、少年は言葉を続ける。
「カイト……レーヴァには乗れないんじゃなかったの?」
そう、だから――自分はたった一人のレーヴァテイン適合者で。だから今までだってそうして戦ってきて。だから自分はすごいんだって。
仕方のないことだった。少年はカイトにどこか憧れている節さえある。しかし、何一つ追いつけないその存在は時に少年にとって厄介なものにもなりえる。だから、自分だけがレーヴァを動かせて、カイトの代わりにやっているんだという事実は少年にとって今の関係性を守る重要な安定要素だった。
それが崩れ去ってしまう。そうなってしまったら、本当に自分が惨めになってしまう気がしていた。けれどそれを止める方がもっと惨めで馬鹿馬鹿しいことだということに少年は気づけない。何故なら自分自身が抱いているコンプレックスそのものに、まだ気づく事が出来ないのだから。
「一度くらい大丈夫だ。自分の体の事くらい――自分が一番良く分かってるさ」
カイトは真っ直ぐにそう告げた。そこには彼なりにこの状況の責任を取ろうという意図が見えた。リイドは驚き、そして何も言えなくなる。カイトは……やはり、リイドの数段上を行く少年なのだ。その、志の高さで……。
「私も、適合者はカイトさんにお願いしたいです。リイド・レンブラム……貴方は信用出来ません」
冷たい軽蔑の視線と共にアイリスはリイドに告げる。それは――仕方の無い事だったのかもしれない。彼女にとってリイドは決して尊敬できるような人間像ではなかった。リイド・レンブラムという少年は、決して誰もが思い描く英雄像とは異なっていたのだから。
リイドは初めてレーヴァテインに乗ったあの日、大きなミスを犯してしまった。街を破壊し、力に自惚れ、自分を唐突に現実から突き放したそのシチュエーションに酔いしれていたのだ。ただ、大きすぎるその力が少年をおかしくしてしまったのだ。
少年は気づく事が出来た。自分の過ちも、自分と共に闘う仲間の大切さも、自分を支えてくれる友の想いも、レーヴァテインという存在の恐ろしさも、そしてそのレーヴァを操らねばならないという事の責任の重さも……。だがそれは、彼がこの僅かな期間で一気に学んだ事だ。アイリスはそれを知らない。この世界中の誰も知らないのだ。カイト、イリア、エアリオ……。最初から彼と共にあり、衝突を繰り返してきた仲間以外、誰も……。
アイリスにとってリイドは力を暴走させるだけの無様な悪人でしかなかった。決して共に闘いたい相手などではない。イリアもカイトもリイドについて弁明する事は出来なかった。彼女を巻き込まない為……しかしそれが今や全て裏目に出ている。果たしてどうする事が正しかったのかは誰にも判らないが、その結果が“今”ならばそこから逃れる事は誰にも出来ない。そう、誰にも……。
「リイド・レンブラム……貴方にレーヴァテインを動かす資格は無い。貴方のような人がレーヴァテインに乗り続ける以上、この世界に不幸が……悲劇が増えるだけです」
「アイリス、あんたちょっと言いすぎよ!! リイドの気持ちも少しは考えたらどうなの!?」
「どうして姉さんは私じゃなくてこの人の肩を持つんですか!? 私を入院させたのも、私たちが住んでいた家を吹き飛ばしたのも!! 全部この人なんですよ!? この人と……エアリオ・ウイリオ! あの干渉者がやった事です!!」
「アイリス――ッ!!」
二人の言い争いが再びヒートアップしそうになったのを止めたのはエアリオだった。先ほどまで殆ど黙っていただけに、その行動は以外だった。イリアの道を阻むように前に身を乗り出し、アイリスの肩を押し返す。
「…………何ですか? 私、何か間違った事を言いましたか?」
「……間違っては居ない。それは客観的事実の全て。現実……真実、そして真理。けれど、お前はそれしか判ってない」
エアリオはアイリスの身体をそっと優しく突き放した。その力は本当に軽いものだったが、アイリスは何故かそれに逆らえず後退する。エアリオは長い前髪の合間から金色の瞳を覗かせ、振り返りながら告げた。
「――――お前は、“正しいだけ”だ。正しさだけでこの世界を救えるのなら……わたしだって、とっくにそうしている」
「…………エアリオ……?」
普段とは明らかに違うエアリオの言葉に戸惑うリイド。その手を掴み、エアリオは部屋からリイドを連れ出していく。これ以上この場に残っても言争いにしかならない……。エアリオの判断は正しかった。
「……。宜しいですか、カイト君?」
漸く静かになった場にヴェクターの問いが響いた。カイトは頷き、短く応える。その言葉に“裏切られた”という気持ち……そして妹の為に引き受けてくれた“ありがとう”という気持ちが混在し、イリアは立ち尽くす事しか出来なかった。
こうして、四番目のレーヴァテインによる作戦が開始されようとしていた。蒼い星を見下ろし、闇の中を漂うホルス……。それを導くようにどこからとも無く旋律が聞こえてくる。ホルスはまるでそれに操られるかのように、真っ直ぐにジェネシスへと移動を開始していた――。
翼よ、かがやいて(2)
「……ありがとうございます、カイトさん。私に付き合ってくれて」
作戦会議が終わり、アイリスは専用のパイロットスーツへ着替えていた。カイトは着替えを外で待っていて、出てきたアイリスに首を横に振って見せた。
「お前の気持ちは分かってたつもりだ。でも、俺たちは自分勝手な都合でお前を遠ざけていた……。悪いのは俺たちの方だからな。こっちこそ、今まで黙ってて悪かった。これからは……一緒に闘おう」
「カイトさん……」
「昔みたいに、カイトって呼び捨てでいいぜ。幼馴染なんだからな」
「そうですか……。では、そうさせてもらいます」
アイリスは長い髪をポニーテールに括り、眼鏡を外してケースに閉じる。それは彼女にとって忘れられない……姉からのプレゼントだった。姉との対立も、全ては必要な事なのだと今は思っていた。自分は役立たずではなく、闘えるのだと……。姉を支えられるのだと証明したかったのだ。その自信はあった。やらなければならない理由もあった。だから少女は顔を上げる。姉譲りの、真っ直ぐな勝気な目で。
「ですが、よかったんですか……? その……カイトは身体の調子が……」
「あ~……。まあ、何とかなるだろ。それに、今のお前じゃリイドとシンクロするのは無理だろうしな」
「当たり前です! あんた非常識な人……どうしてレーヴァに乗せるんですか? カイトは……どうしてリイドを仲間として認めているんですか?」
「その答えはな、アイリス。そりゃ、自分で見つけなきゃならないんだよ」
優しく笑い、カイトはアイリスの頭にポンと手を置いた。くしゃくしゃと頭を撫でる優しい手は昔と変わらない。カイトはずっと、イリアにとってもアイリスにとってもヒーローだった。歳相応に子供っぽい所があるかと思いきや、その言動はどこか大人じみている。アイリスは照れくさそうに頭を撫でられ、それを拒否する事はなかった。
「姉さんは……私を認めてくれるでしょうか? そしたらまた……家族みんなで、暮らせるんでしょうか……?」
「そいつはどうかな……。イリアはな……なんつーか、過保護っつーか……。お前の事が大事で大事で仕方が無いんだよ。それはわかるだろ?」
「……はい。父の遺言ですから……それは」
苦笑を浮かべ、それからアイリスの背中を軽く叩くカイト。ここでイリアの味方になってアイリスを拒絶する事もカイトには出来た。だがあえてそうしなかったのは、彼が本気でアークライト姉妹の事を思っての事だ。二人とも意地っ張りなのだから、アイリスは否定されれば否定されるほど悲観的に事実を曲解してしまう。だから自分だけでもせめて味方になってやり、アイリスが素直に姉が大好きだという気持ちを前に出せるようにしてあげねばならない……そう考えたのだ。
勿論イリアの事も心配だったが、素直にイカロスでは戦ってほしくないという気持ちもある。ヴェクターの言うとおり、今のイリアにホルスを倒す事は難しい……それが現実だ。彼女がそうする事でしか乗り越えられないと感じている事はずっと前からカイトも知っている。だが……その為に命を賭けるのは、出来る事を全てやってからでも遅くないだろう。アイリスの“オルフェウス”がホルスに対して有効なのであれば、アイリスがホルスを倒す事でイリアもまたそのトラウマを超えられるかもしれない。
イリアは何もかも自分の所為だと感じ、自分で何とかしなければならないと抱え込みすぎているのだ。それは贔屓目でもなんでもなく、イリアの欠点である。イリアはもっと仲間を頼り、仲間と共に居ていいのだ。許されていいのだ。彼女を赦すという事……それがきっとアイリスになら可能なのだ。カイトのその打算的な考えをアークライト姉妹は知る由も無かったが、それはそれで二人にとっては問題のない事だ。カイトが自分たちを思ってくれている事は、言われなくとも確実なのだから。
「よかったね~、アイリスちゃん! カイト君が乗ってくれて!」
そんな明るい声が聞こえてきた時、カイトは冷や汗を流して振り返った。視線の先には予想通りひらひらと手を振り笑うオリカの姿があった。アイリスは知り合いなのか、オリカに手を振って親しげに微笑みかけている。
「オリカさん! 来てたんですか?」
「そりゃ、オリカちゃんは干渉者の一人だからね~……っと、カイト君怖い顔しないでよ。邪魔しに来たわけじゃないんだから」
「お前か……。アイリスを引き込んだのは……」
「悪く思わないでよ、これも命令なんだから。レーヴァテインのパイロットは一人だって多い方がいいでしょ? それにこれは必然……避けては通れない戦いなんだよ。君にとっても……私にとっても、ね」
後半、オリカの言葉の真意はカイトには理解出来なかった。しかしあれだけ他人に心の壁を作るアイリスがなついている所を見ると、やはりオリカは悪人ではないのだろう。良くも悪くも仕事に対してストイック……オリカ・スティングレイならではの状況と言ってしまえばそれまでの事だ。
「初出撃で第一神話級を相手にするのは正直過酷だけど、アイリスちゃんのモチベーションはすごく高いからね。やってやれない事はないと思うよ、相性的にも」
「まあ、そりゃホルスに格闘で仕掛けるよりは大分マシだろうな……。しかし本当に大丈夫なのか? そのオルフェウスってレーヴァは」
「戦いの結末は常にわからないものだけど、少なくとも潜在能力は一級品だよ。何せ、あのエアリオ・ウイリオに匹敵する最高数値だからね」
「イリア以上って事か!? しかし、エアリオに匹敵するって……本当なのか、それは?」
カイトが疑ってかかるのも無理はない事だった。エアリオ・ウイリオは干渉者としてこの上ない程に優れた究極の存在である。彼女は常に自らに制限をかけてレーヴァを動かしているとされており、単純に干渉者としての性能はイリアの数段上を行くという。エアリオは基本的に本気で闘う事はなかったし、カイトとシンクロしようともしなかったのでそれはあくまで噂程度の情報だったが……。
「それなら、ヴェクターが賭けてみようと考えるのもあながち頷けるな……」
「それにこれはリフィル司令の命令でもあるからね。イリア・アークライトではなくアイリス・アークライトによるホルス撃墜……。彼女のシナリオ通りに行けばいいんだけど」
「リフィル司令……? そういや、ここの司令って見た事ないな……。オリカは知ってるのか?」
腕を組み、オリカは片目を瞑る。知っているどころの関係ではなかったが、それを口にする事は機密に触れる事になる。当たり障りの無い言葉で何とかそれをやり過ごそうと彼女が口にした言葉は、ある意味において妥当だったと言える。そう、それは――。
「……色々な意味で、特別な人だよ――」
「ありがとう、エアリオ。庇ってくれて……」
廊下で立ち止まり、リイドはそう呟いた。足を止めたエアリオは振り返り、それからじっとリイドを見上げる。二人は暫しの間見つめ合い、言葉も無かった。リイドは目を瞑り……そして言葉を続けた。
「ボクは、間違っていた。彼女の言う通り、最低の人間だ。レーヴァテインに乗る資格も……無いのかも知れない」
「リイド……」
「でも……誰になんと言われても、ボクはレーヴァテインから逃げるわけには行かないんだ。イリアの気持ちがボクにはよくわかる。ボクは、スヴィアを乗り越えたいんだ。レーヴァテインはその手段に過ぎないけど……。それ以外にも、きっと方法はあるけど……。でも、それが一番の近道なんだ。エアリオ……」
ただ掴まれていただけの手ではなく、リイドは自分の意思でエアリオの手を握り返した。つながる二人の手……。誰かに触れる事が無かった少年が、初めて掴んだ手。小さくて、白くて、柔らかくて……。少しだけ、冷たい手。それを両手でぎゅっと包み込む。エアリオ・ウイリオという少女との出会い……そこから全ては始まった。
レーヴァテインに出会い、戦いの中へ放り込まれた。その中で自分なりにうまくやってきたつもりだし、衝突もあったが仲間との絆を確かに感じる事が出来た。その先にあった真実はリイドにとって全てがよかった事ではない。スヴィアとレーヴァの関係、そして仲間へのコンプレックス、共感……。だが、この中のどれか一つでもかけていたならばきっと今の自分は無かったと、そう思える。
「ボクを……庇わなくて良い。ボクは……誰に何を言われても、それでも自分自身で在り続ける。エアリオ……ボクは闘う。これからも闘い続ける。レーヴァテインに乗り続けるよ」
「……そう。余計な心配だった……?」
「……でも、嬉しかった。その……正直、少し君に対して遠慮する気持ちがあったんだ。ボクは……君にとってスヴィアの代わりでしかないんだろうから」
照れくさそうにそう告白するリイド。しかしエアリオの反応は以外にも驚きに満ちていた。慌てた様子で首を横に振り、きょとんとした目で呟く。
「……どうして、そうなるの?」
「え……? いや、だって……君はスヴィアのパートナーだったんだろ……? あれ、違うのか?」
「そうだけど、スヴィアはスヴィア……リイドはリイドだよ」
当たり前過ぎる事実を突きつけられ、リイドに衝撃が走った。それから少しだけ笑えてくる。ああ……そうなのだ。判っていたはずだった。エアリオは、そんなに複雑な考えをする女の子ではなかったのだ。彼女はあらゆる意味で無垢だ。劣等感に満ちた自分とは違う物の考え方をする。
エアリオは鏡だった。一点の曇りすらない、美しい鏡だ。だから……それを前に立つ事は勇気を必要とする。少年は気づいた。だからこそ……その鏡の前に真っ直ぐに立つ事が出来る。コンプレックスも、過ちも……受け入れる事が出来る。エアリオはただそこに居るだけだ。そう受け取るかは……自分次第。
「リイド、覚えてないの? ずっと昔に、約束した事」
「約束……?」
「わたしはどんな時でもリイドの味方……リイドの傍に居る。リイドがわたしの事をどう思っていても構わない。この世界がどうなったっていい。それでも最後まで……あなたを守る」
エアリオもまた、両手でリイドの手を握り締める。リイドは頷き、それから苦笑を浮かべた。記憶喪失になっている事を知らないエアリオは……ずっと、自分なりに昔のままにリイドと接してきたのだろうか? 何も覚えていない自分だけが空回りして……なんて間抜けな喜劇なのか。
「……イリアを探しに行こう。彼女には借りがあるんだ。一緒に来てくれるよね……エアリオ?」
「――答えるまでもない」
二人は頷き合い、走り出した。手を繋いで……小さなエアリオの歩幅をせかすようにリイドは走る。そうだ、もうじっとしているだけじゃ駄目なのだ。間違いも、罪も……背負って生きていかねばならない。過去は変わらない。だが未来派変えられる――。
本部の中を走り回り、イリアを見つけたのは廊下の途中にある休憩スペースだった。イリアは自動販売機で購入した飲み物を片手にベンチの上に腰掛けていた。リイドは駆け寄り、その肩を叩く。顔を上げたイリアは目にいっぱいに涙を溜めていて……どんな言葉をかければいいのかわからなくなる。
「……泣くな、イリア。しっかりしろ……。お姉ちゃんでしょ?」
戸惑うリイドの背後、エアリオの抑揚の無い声が響いた。今ここでそれを言うのか……と思ったが、イリアはしょんぼりした様子でうなだれるだけだった。人を励ますなんて事をした事がないだけにリイドは本格的に困っていたが、今はエアリオに続くしかない。
「イリア、きっとカイトなら上手くやるよ……。きっと大丈夫だって」
「なによ……。きっと……? テキトーな事言わないでよ! カイトの身体はボロボロなのよ!? アイリスは一度もレーヴァに乗った事もない! あの子は喧嘩をした事もないし、気弱でいつもオドオドしてて……! あんたに何がわかるのよ!! 何も知らないくせに偉そうな事言わないでよっ!!」
「――――だったらッ!! わかるように言ってくれよ! 言ってくれなきゃ何もわからないよっ!!」
掴みかかって来るイリアの胸倉を逆に掴み返し、リイドは額をイリアの額にぶつけた。紙コップが少女の手から零れ落ち、中身をぶちまける。涙を流すイリアの瞳を至近距離から覗き込み、リイドは辛そうに目を細めた。
「確かにあんたの言うとおり、ボクは何も知らない部外者だ……。あんたたちの過去なんて知らないし、あんたたちの気持ちを理解する事も出来ない……。でもそれは、あんたが伝えないからだろ……? 何も言わずに相手が勝手に理解してくれると思うな!! 甘ったれてるのはあんたのほうだ!!」
リイドらしからぬ熱い言葉にエアリオはおろおろして止めようか止めまいか迷っている様子だった。しかしイリアにその言葉は確かに響いていた。涙は止まり……そして表情は驚愕に彩られていく。リイドはイリアを突き放し、それから落ち着いた様子で言葉を続けた。
「“ここでそうしていたって事態は好転しない”……。あんたがあの日ボクに言った言葉だ。イリア……あんたは強い女の子だろ? あんたのお陰でボクは立ち上がれたんだ。救われたんだ……。そのあんたが――情けなくウジウジして、人を失望させるな」
「リイド……」
背後から歩み寄り、エアリオはリイドの横顔を眺めた。少年は真っ直ぐだった。その真っ直ぐさはカイトに……そしてイリアに貰ったものだ。プライドが高く、自分勝手でわがままで……。だがそれだからこそ、少年には絶対に譲れない気持ちがあったのだ。
あの日、あの時とは真逆の光景だった。リイドは膝を突いたイリアにそっと手を差し伸べる。少年は笑いもしなかったが、睨みもしなかった。そこには他の感情は一切なかった。“立ち上がれ、プライドに賭けて”――少年はただ、少女に強制する。誇り高き……強きパイロットであれと。
少女はその手を取り、立ち上がった。涙を拭い、そうしてリイドを見つめる。少女はもう自分を責めてはいなかったし、悲劇を嘆いても居なかった。まるで憑き物が落ちたかのように、晴れやかな気持ちだった。いや……そうならざるを得なかったのだ。年下の生意気な……この“くそったれ”な後輩の所為で。
「まさか、あんたに励まされる日が来るなんてね……」
「落ちぶれたもんだな、イリア」
「うっさいわね、生意気言うんじゃないわよ! でも……そうね。ありがとう、リイド……それからエアリオも」
エアリオに歩み寄り、イリアはその頭をぐりぐりと撫でた。リイドは両手をズボンのポケットに突っ込み、深々と溜息をついていた。実は慣れない事をやったので物凄く緊張して息苦しかったのは墓まで持っていく秘密だ。
「二人が出撃するのを見守ってやろう。それが……ボクらに出来るたった一つの事だから」
「…………そうね。言われなくてもわかってたはずなのに……。あ~~、もう、恥ずかしいわねぇ……! ほんとあんたに背中押されるなんて在り得ないわ!」
「そりゃどうも……。どうでもいいけど、急がないともう出撃してるんじゃない? 本部に行けばモニタリングしてるはずだ。急いだ方が良い」
「あ……そ、そうね! 何あんたらボサっとしてんのよ!! 急いで向かうわよ!!」
すっかり元気になったイリアは走り去っていく。その背中を見つめ、リイドは優しく微笑んでいた。そんな少年の背中を叩き、エアリオは頷く。
「……かっこよかったぞ、ヒーロー」
「…………そりゃどうも」
二人もそうして走り出した。立ち止まっている暇はないのだ。伝えたい思いがあるのならば、早く伝えなければならない……。そんな当たり前の事を思い出すのが、ほんの少しだけ遅れてしまった。
待ち構えている現実は常に彼らの運命を翻弄する。そして、来るべき覚醒の時が訪れようとしていた。飛来する焔の神……ホルス。戦闘開始の時はすぐ傍まで迫っていた――。