弱さの、温度(3)
「レーヴァテイン……トライデント……。エクスカリバー、そしてガルヴァテイン――か」
第三共同学園の生徒会室、校舎の最上部に存在する巨大なその部屋に居るのはカグラ一人だけだった。少女はブラインドを引き、薄暗い闇の中でただ一人ノートパソコンを操作していた。
画面に提示されているのは世界に存在する全四機のアーティフェクタの情報……。外見、性能、そして適格者。そこにはスヴィアやセト、そしてリイドの名前と写真もある。しかしカグラは特に驚く様子もない。彼女にとっては見慣れた情報だ。
「トライデントとエクスカリバーはいいとして、やっぱり問題はレーヴァとガルヴァってことかな……。この二機だけは、どう考えても何かがおかしい」
他の二機、トライデントとエクスカリバーに比べ、レーヴァとガルヴァは余りにも形状が酷似しすぎている。いや、ほぼ同一の機体と考えて間違いないだろう。それが同盟軍に一つ、ヴァルハラに一つあるという事実――。様々な不確かな要素と矛盾した理論が少女の頭脳を困惑させる。そしてそれは考えたくない最悪の可能性を示唆していた。
「何にせよ、このままじゃダメってことかしらねー」
美しい茶色の髪をヘアピンで留めながら立ち上がる。髪を下ろしたその姿は、その雰囲気は……。まるで人前の彼女の様子とは違っていた。淡白で鋭い目つき。何かを見透かす事を当然と成す、そんな疑心暗鬼の瞳。明るく振舞い周囲の誰からも好かれるカグラ・シンリュウジという少女のそれとは、百八十度異なる何か。
「さて、そろそろこっちからコンタクトするべきかしらね」
笑顔を作って見せると、先ほどまでの威圧感はまるで幻のように消えてしまった。カグラは鼻歌を刻みながらノートパソコンを鞄に突っ込んで生徒会室を出る。放課後遅くの学園に人気は殆どない。遅くまで部活動の生徒が利用しているグラウンドを見下ろしながら、少女は目を細めた。
「人類終焉のシナリオ……レーヴァテインプロジェクト、か。もしかしてこれも計画通り……? あんたならどう説明するのか……ねえ、スヴィア――?」
投げかける言葉に応える者は居ない。当然その場にスヴィアはいなかった。しかしカグラが首から提げたロケットの中、切り取られた写真の中に彼は居た。幼い頃のカグラの隣、親しい間柄であるという事を隠そうともせず、手を取り合いながら――。
その頃、ジェネシス本部格納庫はスタッフ総動員での大移動が始まっていた。ジェネシス格納庫はいくつか存在し、レーヴァテインなど人型兵器をストックするハンガーは今のところ二つしかなかった。それを大幅に増強し、最大十六機までアーティフェクタタイプの兵器を格納できるようにする作業を進めているのである。
事実上、このアーティフェクタハンガーはレーヴァテインのみが格納された閑散とした場所だった。故に殆どのスペースはレーヴァテイン専用の修理部品、パーツストック、複製された手足、レーヴァテイン用の武装などが乱雑に並べられているだけで、整理された状態とはお世辞にも言えなかった。それはレーヴァテインの武器部品開発を請け負うルドルフの性格的な問題であり、乱雑としていた方が本人としては落ち着くとの事で、あえてほったらかしになっていたのだ。
しかし格納庫の使用に備え、パーツの山で埋もれているスペースを何とかせねばならなくなり、仕方なくルドルフ本人が作業員に指示を出し整理する事になったのだ。黄色い安全ヘルメットを被ったルドルフは溜息を着きながら作業用ロボットが運ぶコンテナを眺めていた。
「しっかし、散らかってないハンガーなんて寒気がするぜ……。凡人にはわからないのかねぇ? ひらめきってのはカオスの中から生まれるんだぜ?」
「全く、またそんなことばかり言って……。私にしてみれば、散らかってるハンガーのほうが寒気がします」
ルドルフの背後から歩いてきたユカリはそんな事を言いながら微笑みかける。その手にはいくつかの資料が握られている。媒体は紙であり、それが重要な書類である事を示していた。
この機械主義のご時世、紙媒体など使用する意義は一つしかない。それは、物理的に存在するという事だけだ。データハッキングの可能性が0とはいえないコンピュータの中にいつまでもこの計画を保存しておく事は危険以外の何者でもない。尤も、本部のみで独立した情報伝達系統を持つジェネシスアーティフェクタ運用本部のセキュリティはただでさえ強固なのだが……。
「でも、これだけ慎重に進めるなんて……。やっぱり同盟軍の新型、気になります?」
「当たり前だろ? どぉおお~~考えてもあの新型、うちの技術が流出してんだ。俺様が考えた技術を勝手に使いやがって……。くそ、考えるだけで胸糞悪くなってくるぜ」
「あまり考えたくないですけどね、うちにスパイがいるなんて」
「ジェネシスほどでかい組織ならスパイなんぞうじゃうじゃいても何もおかしくねえよ。なんにせよ、こいつが無事完成した事を俺様はまず喜ぶ事にするよ」
肩を竦め、頭上を見上げるルドルフ。それに釣られるようにユカリも視線を上げた。ハンガーに運び込まれてくる、レーヴァテインより一回り小柄な機体……。純白のカラーリングにレーヴァに酷似したデザイン。レーヴァテインの素体に近いそれらは一機ではなく、合計六機ハンガーに並べられた。同時に運ばれて来たのは専用の武装で、コンテナから開放された装備はずらりと配置されていく。
「これがジェネシス製人型戦闘機、“ヘイムダル”……」
「ちなみに型番はない。元々量産に向いてる機体じゃねえし、レーヴァの干渉者による装甲変更とまではいかねえが、パーツの付け替えで状況に対応する予定だ……。まあ今は通常武装と、オーダーメイドの機体が一機だけあるんだけどな」
「神話級に通用するんですか? このロボット……」
「まあ、そこそこダメージは与えられるだろ。通常武装は20mmアサルトライフルとコンバットナイフ……。あとはイカロスでテストしたDソードの量産型が装備予定だ。神話級のフォゾンバリアをブチ抜ける武装は今の所Dソードくらいだから、遠距離戦闘には向いてねーけどな」
「対神儀礼済みの特殊弾頭を使っても、神話級に与えられるダメージは僅かですからね……」
「結局あのバケモンは至近距離から白兵装備で叩き斬るのが一番効果的で手っ取り早いんだよ。頭数が少ないのとパイロットが見つかってないのが今の所悩みだな」
ヘイムダルもレーヴァテイン同様、フォゾンによって活動する以上それに適した適合者が必要となる。ただ、レーヴァテインとの最大の違いは干渉者が不必要であり、適合者単体での操作が可能である事である。
無論光装甲も展開できない為レーヴァテインに比べれば非常に脆く、光武装の構成も不可能だが、そんな機能を持つ機体は今の技術では生産不可能だった。故に通常の戦闘機よりも優れた、人型戦闘機というカテゴライズになるヘイムダルだが……残念ながら適合するパイロットは今だ一人も見つかっていなかった。つまり、機体はあってもまったく動かせる状態にないのである。これでは意味がないのだが、そればかりはルドルフにどうこうできる問題ではない。
「早いとこ諜報部に適合者探してもらわないとな。レーヴァほど人は選ばねえし、フォゾン化影響も殆どないはずだから……まあ何とかなるだろ」
「そうですね……。レーヴァテインのパイロットがリイド君しか居ない今、少しでも戦力の増強は必要でしょうから」
二人がそうして雑談しつつヘイムダル搬送の様子を眺めていると、そんな二人の背後からリズミカルな音が聞こえてきた。同時に振り返ると、そこには何故かマラカスを振っているヴェクターの姿があった。
「いや~~~~! これが噂の量産型ですか! 素晴らしいですねえ! いい仕事ですよ、ルドルフ君!」
しかし副指令に対する視線は随分と冷ややかだった。ユカリは冷たい視線を向け、ルドルフはあからさまに舌打ちしてみせる。そんな様子にヴェクターはマラカスを下ろし、少し寂しげに続けた。
「そんな目で見ないで下さいよ……。完成したヘイムダルを見に来ただけなんですから……」
「ヘイムダルはまだ完成してねえよ。パイロットが乗り込んでの実機テストがまだだ。まだロールアウトしたとは言えねえな」
「それでも完成は完成ですよ。それにパイロットなら一人は心当たりがありますからねえ……。はい、これ資料」
ヘイムダルに駆け寄って喜んでいるヴェクター。彼に手渡された資料に目を通したユカリは思わず表情を強張らせた。ルドルフは背伸びしてそれを覗き込み、納得したように頷く。
「よりによって、彼女ですか……」
「ま、ある意味当然と言えば同然だけどな。適正検査で数値が高かったから難癖つけて入院期間を延ばしてたんだろ?」
「……いいんでしょうか、これは……」
「他に動かせるあてがねえなら、そうするしかないだろうな。本人もやる気はあるだろうしな……。それに作ったヘイムダルが無駄になったら流石におりゃ泣くぞ」
「仕事とは言え、嫌になるわね……子供ばっかり戦場に引っ張り出すのは」
溜息混じりにユカリが閉じた資料の一番上のページ。そこには少女の顔写真と共に個人情報が記載されていた。ヘイムダルの適合者となる可能性が最も高い、最高の適合値を予想される少女……。こうなる事は予想していたのだが、つくづく現実は冷酷だ。
「あー、そうでしたそうでした……。“彼女”の注文通り、作ってくれましたか? 例のカスタムスペック機は」
「ああ、そっちにあるのがそうだ」
並んだ八機のヘイムダルの中、ルドルフが指差したその機体は明らかに異色の雰囲気を放っていた。全体のディテールが細かくヘイムダルとは差別化されており、他のヘイムダルがホワイトカラーなのに対しそのヘイムダルはクリムゾンカラーであった。
「言われた通りに調整したが……あんなピーキーな機体、誰が使うんだ? 大型フォゾンビームライフル“ギャラルホルン”を運用出来るのは今の所あれだけだな」
「まあ、あれはうちの“指令”の命令ですからねえ……。ヘイムダルカスタム、通称“レッドフロイライン”……。素晴らしい完成度です」
ヴェクターは真紅のヘイムダルを見上げ、笑みを浮かべる。事情が飲み込めないルドルフとユカリは互いに顔を見合わせ、その特殊なヘイムダルを眺める事しか出来なかった。
弱さの、温度(3)
「あれーっ!? みんなお揃いでどうしたの? あとエアリオちゃんおかえり♪」
「ただいま」
「いや……それ以前にオリカ、あんたの格好はどうしたんだ……?」
冷や汗を流しながらカイトが指差す先、玄関を開けて出てきたオリカはメイド服に身を包んでいた。普段は帽子が乗っかっている頭にはふりふりのフリルがついたメイドカチューシャが乗っている。オリカは当たり前のようにその場でクルリと一回転し、可愛らしいポーズを取って言った。
「みらくるまじかる、メイド戦士☆オリカちゃんだよーっ! キラッ♪」
やや、孤独を醸し出す沈黙が流れた……。暫くするとオリカは寂しく家の中に引っ込んでいく。それに続いてイリアとカイト、そしてエアリオも中に入っていった。
「あら? リイドのヤツ、意外といい家に住んでるのね……」
「ああ、ウチとは大違いだろ?」
「あ~、そういえば二人は同居してるんだもんねー」
「……というか、イリアが俺の部屋に勝手に押しかけてきたっつーかなんつーか……」
腕を組み、カイトは我が家の事を思い出した。元々カイトは一人暮らしをしており、お世辞にも立派とは言えないが家賃のお手頃なアパートに住んでいた。そこにイリアが勝手に押しかけてきたのである。最近はジェネシスから高額な報酬がもらえるので引越したのだが、流石にこの豪邸には叶わない。
「イリアちゃんは押しかけ女房なんだね~」
「ちょ……!? そんなんじゃないわよ! 変な事言わないでくれる!?」
「あー、イリアは家事が全部駄目だからな。むしろ押しかけ亭主か? いででででッ!? おまっ! 手加減しろよなあっ!!」
イリアの踵でつま先を思いっきり踏みつけられたカイトがその場で数回跳ねる。涙目のカイトに対し、イリアは腕を組んでそっぽを向いていた。
「オリカちゃんは、ツンツンしちゃったりデレデレしちゃったりするお年頃なんだね」
「は……?」
「イリアがツンデレなのはどうでもいいけど、リイドは?」
「ど、どうでもいいって……? エアリオ……あんたねえ……」
エアリオの言葉にオリカは上の階を指差した。部屋に入るなとこっぴどく怒られたオリカは、仕方が無く家の中の掃除や洗濯をしていたらしい。何度もリイドの寝ている所に進入しようとしたのだが、進入したら本気で追い出すとリイドに叱られそれからリビングで膝を抱えていた……という顛末である。
「……判ったわ。あんた馬鹿でしょ?」
「…………。イリア……お前だけはそれ言っちゃ駄目だ……」
「なんでよーッ!?」
「まあ、リイド君なら二階の自室に居ると思うよ? オリカちゃんはねぇ……ここで膝を抱えて待ってるから、皆様子を見てきてよ」
「え? あんた一緒に来ないの?」
「オリカちゃんは……リイド君の命令には絶対服従なのですっ! わーん、わんっ☆」
三人はオリカをガン無視してそのまま階段を上っていった。取り残されたオリカは本当に膝を抱え、部屋の隅で蹲る事になった……。そうして二回に上がった三人はリイドの部屋の前で足を止める事になる。
そこには紙に書かれた“オリカの立ち入りを禁ずる”の文字が……。エアリオは問答無用でその扉を開け放った。カイトとイリアもそれに続き、部屋の中に入っていく。
「リイド、生きてる~?」
少年はベッドの上に寝転んだまま静かに寝息を立てていた。想像していたよりよほど暢気そうなその状況にイリアは静かに苦笑し、それからデスク前にあった椅子に腰掛け寝顔を覗き込んだ。
「なんていうか……。こうして黙ってれば女の子みたいな顔でかわいいのにねぇ」
「はは、そいつは言えてる! リイドは黙ってりゃな~!」
軽くウェイブした髪を指先に絡め、そっと頬に触れてみる。特に熱があるわけではない。イリアは安心し、その肩を優しく揺さぶった。カイトは部屋の中を勝手に見て周り、エアリオはイリアの隣でリイドの顔をじっと見つめている。
「リイド、起きなさい。もう夕暮れよ」
「……リイド、リイドー」
ゆさゆさ、ゆさゆさ……。エアリオがリイドの身体を揺する。しかし目覚める気配は一向にない。故にもう少しだけ強く揺すってみる。少女二人は顔を見合わせた。
「まるで目覚める気配がないわね」
「リイド、わたしには寝るなって言ったのに……」
ゆさゆさ、ゆさゆさ……。やはり目覚める気配はまだない。少しだけ可愛そうだけれど、悪戯も込めてリイドの頭を軽く引っぱたいてみる。ニヤニヤするイリア……しかしリイドは目覚めない。流石におかしいと思ったのかカイトも集まってきた。
「おーい、リイド君……? おい、これ大丈夫か?」
「リイド! リイドー!」
肩を強く揺さぶってみる。顔を叩いてみる。ベッドから引っ張り出して、身体を起こしてみる。何をやっても静かに寝息を立てているだけで、リイドが目覚める気配は一向にない。
その状況が流石に異常だと気づいたイリアの表情がみるみる青ざめていく。別段身体に異常は見られない。けれど全く目覚めない……。それは明らかに異常事態だった。
「リイド! ちょっと、起きてよ! 何があったの!? リイドッ!!」
「落ち着けイリア! エアリオ、本部に搬送するぞ! こうなると迂闊に動かさない方が良い……! 救急隊を手配してくれ! オリカに頼めばすぐだろ!」
「わ、わかった……」
取り乱す少女二人に対し、カイトは冷静だった。しかし少年もリイドの事が心配なのには変わりない。とりあえずイリアを部屋の外に追い出すと、リイドをそっとベッドに寝かせてその手を握り締めた。
救急隊が到着するまでの間もずっとリイドに呼びかけ続けた。しかし少年は目を覚まさず、仲間たちの声は静かな部屋に空しく響き渡るだけだ。少年はすぐさまジェネシスの救急隊により本部医療施設へと運び込まれる事となった。
医務室の前、検査のためか関係者以外立ち入りを禁止された扉の前でカイトたちは立ち尽くしていた。重苦しい空気が流れる中、エアリオは不安そうに扉を見つめ、カイトは腕を組み、原因を自分なりに模索している。イリアは壁を背に座り込み、オリカは相変わらずメイド服のままで明らかに浮いていた。
「どうしよう……。なんでリイドがこんなことに……」
「……リイド、フィリピンゲート作戦後から少し様子がおかしかった。最近ずっと具合悪いって……」
「フィリピンゲート作戦の後……?」
エアリオの話を聞いたイリアの頭の中に余り考えたくない可能性が浮かび上がる。フィリピンゲートで行った事……。リイドが初めて経験したこと。頭の中で箇条書きにでもすればわかりやすいだろう。その中でも一際大きい“経験”、それは――。
「あたしとのシンクロが原因……じゃ、ないよね……?」
強烈なシンクロ状態はむしろ“トランス状態”と呼んだほうがいいのかもしれない。一時的にレーヴァの暴力性に身を任せ、イリアと思考を接続することでアイデンティティと倫理性を一部削り取る作業。
ソレは本来ならば“死”を越える存在の終末だ。死して尚、人はその人物個人であり続ける。死んだからといってなくなるわけではない。それを、削り取る作業……。だからこそシンクロは適合者に強い負担をかける。しかしカイトは確信を持って首を横に振った。そうしてイリアの肩を叩く。
「イリアのせいじゃねえだろ? シンクロだったら俺も何度も体験してるが、見ろよピンピンしてるだろ? リイドも多分、原因は何か別にあるんだ」
カイトの言う通り、シンクロが原因であるという可能性は低いだろう。カイトがシンクロ後このような状況に陥った事は一度もない。故にその関連性は薄いと言える。しかしそれでも、少女は自分を責め続けていた。自分が何かミスを犯したせいで、リイドは眠り続ける事になってしまったのではないか、と……。
少女にとってそれはもはや脅迫的な観念に等しかった。もしも、仮に……そうした様々な可能性が、自分自身を苦しめ続ける。普段は強気に振舞って見せても、トラブルには弱い……。それがイリアがまだ未熟な子供である事の証でもあった。
「リイド君なら、きっと大丈夫だよ。今はただ、眠っているだけだと思う」
そうフォローしたのはオリカだった。泣き出しそうな表情のイリアに微笑みかけ、その頭をポンと撫でた。
「私たちが不安になってもリイド君が良くなるわけじゃないんだし、気にしてもしょうがないよ。リイド君はこのくらいでどうにかなるような子じゃない……。信じてあげようよ、今は」
「……うん」
願うように、祈るように、少女は扉に手を触れる。どうか、目覚めてほしい……。彼が、いつもどおりに悪態をついてくれればそれでいい。自分の弱さを、否定したいと願うかのように。ただただ目を伏せ、祈り続けた……。
「………………夢?」
長い事夢を見ていたような気がする。いや、それともここが夢なのだろうか? 広がる草原、どこまでも果てしない空……。手を伸ばせば届きそうな太陽。見覚えのないはずの景色なのに、ずっとここにいたような、そんな懐かしさを覚える。
空のにおい。風のにおい。草のにおい……。振り返ればどこまでも広がる草原のその彼方に、ボクが守りたかったものがある。あるはずなのに、それは霧が掛かったように見通せず、どんなに近づきたいと願っても近寄る事が出来ない。だからこれは夢なんだろう。ボクが望み願ったとしても、叶う事のない夢。
「…………空、かぁ」
蒼いなあ――。下らないくらい真っ青で、ボク以外誰もいなくて。ああ、清清しい。この孤独の中で、この陽だまりの中で、永遠を過ごしていけたらどんなにいいだろう。誰とも関わることもなく、傷つく事もなく、傷つけてしまう事もなく。悲しい事もなく、辛い事もなく――。
けれどそれはきっと退屈で、だからボクは飛び出してしまったのだと思う。居心地のいい永遠の孤独よりも手に入れたい何かがそこにあったから。そうだ、誰かに呼ばれた気がしたんだ。今もきっと呼んでいる。その声を感じ、導かれるかのようにボクの意識は遠ざかっていく。夢の……その更に向こう側へと――。
「よう、お目覚めかい?」
すぐ目の前に、カイトの顔があった。色々な意味で最悪の目覚めだった。どこまで夢だったのか……。薄暗闇の中、ボクはそっと身体を起こした。
「ここは?」
「本部の医務室ベッドだよ。寝心地も最高級だろ?」
冗談を言って笑うカイト。でも確かにベッドの寝心地は最高だ。周囲には似たようなベッドがいくつか並んでいて、しかしインテリア的には医務室というよりはどこかのオフィスのようだった。
おそらくここを管理している人間の趣向なのだろう。どちらかといえばこうしたインテリアの方が落ち着くので、歓迎だけれど。何はともあれ起きなければ……。そう思って身体を起こすと、足の上になにやら重いものが……。
「……何やってんの、この二人は?」
左右の足、ベッドの左右から身体を乗り出して眠るイリアとエアリオが居た。二人はイスの上に座り、ボクの足の上にうつ伏せに眠っている。その答えとしてカイトは黙って自分の腕に巻かれた時計を指差した。針はとっくに深夜を指し示している。
「うそだろ……。20時間近く寝てたっていうのか……」
正直新記録だ。ここまで寝坊すると逆にスカっとする。椅子に腰掛けたカイトはコンビニの袋から飲み物とパンを差し出してくれた。そういえば何も口にしていなかった所為か妙にお腹が空いていた。ありがたく袋を開けてパンを口に含む。カイトもまた缶コーヒーを口にしながら事情を説明してくれた。
「ってなわけで、お前は本部に運び込まれたあとぶっ続けでココで寝てたってわけだ」
「でも、なんで急に……?」
「それが原因は全くの不明らしいが、身体のどこかに異常があるとかそういうわけじゃないってよ。死ぬとかじゃねえから安心していいそうだ。それに目が覚めたら多分もう大丈夫になっているだろうってのが医者の見解だったが、どうよ?」
確かに眠気、気だるさのようなものは完全に抜け落ちていた。眠りすぎていたせいで身体がだるいのはあるが、これはまあ、仕方がないことだろう。しかし今までずっと起きていてくれたカイトがすごいと思う。イリアやエアリオが眠ってしまってもなんらおかしい事はない時間だった。
「今晩は俺らもここに止まって行っていいそうだ。明日は丁度休みだし、気にすんなよ」
「……そっか。なんか、心配かけたね」
「先に気にすんなって言ったろ?」
「そうだね……。ごめん、ありがとう」
人懐っこく笑うカイトの笑顔が眩しかった。エアリオとイリアを起こさないようにこっそりとベッドを抜け出し、汗だくのシャツを煽ぎながらジュースを一気に飲み干す。これだけ汗をかけば喉も渇くというものだ。素直に生き返った気持ちだったので、カイトには感謝しておこう。
「しかし、何が原因なんだろうな? お前に心当たりはないのか?」
「あ、うん……なんでだろう? よく、わからないな」
あの夢の事が気になったが、わざわざカイトに言うような事でもないだろう。関係がないとは思えないが、今の所要領を得ないんだし……。むしろそれを人に深刻そうに喋ってたらかなりイタいやつになってしまう。そっとその話は胸の中にしまっておく事にした。ハッキリすれば、話す事もあるだろうし。
「まあ、出て話すか? 夜中に女起こすのもどうかと思うしな」
「あ、うん。でもカイトは眠くないの?」
「いや、全く。勘違いしてるみてーだけど、俺さっきまで寝てたんだよ。ははははっ!」
……そういうことですか。カイトの優しさランクが少しだけ下がりつつ、ボクたちは夜中で静まり返った本部の通路に出た。普段から人気なんて全くない通路だけど、深夜だという事を意識するとより静かな気がしてくる。
真夜中でも平然と稼動しているエレベータで移動し、本社ビル内にあるレストランへ入った。本社ビルは二十四時間活動しているようで、人気も決して少なくない。こんな夜中、いつもならボクが眠ってしまっている世界でも、人は確かに動いている。そんな事を感じながらカイトとテーブルを挟み、軽食を頼んで待つことになった。
「そういえば、カイトとイリアって三年生だよね?」
「ん? ああ、それがどうかしたか?」
「そろそろ受験じゃないの?」
それがボクの頭から完全にすっぱり抜け落ちていたのは恐らく彼らがそんな風に全く見えなかったからだろう。受験と言う言葉を苦虫を噛み潰すような表情で受け止めたカイトは、水を一気飲みして笑う。
「いやあ、そうなんだけどな……。まあ成績悪くても進学できねえってわけでもねーし」
ボクらは完全なるエスカレータ制で進学することになる。もちろん、プレートの中には私立の学園も存在するが、基本的にプレートシティに学園はそれほど多くない。殆どの子供が同じプレートの上位階級に上がるだけで、他の学園にいくとか、ましてや学園ごとに学術レベルの差があるということは殆どない。それに該当しない私立学園はともかく、確かにボクらは勉強できなくても進学ができない、というわけではなかった。
とりあえず高校くらいまでは入りたいと希望するなら入れてもらえるが、ボクらは基本的に学力に応じたクラス分けを行われている。ボクのいるクラスはAクラスで、最も学力に優れた生徒が集まるクラスだ。教えられる内容も他のクラスとはわりと異なる。人数などにもよるけれど、クラスはざっとAからEくらいまでに分けられている。無論、Aに近づくほどあらゆるものが有利になるのは言うまでもない。
「一応勉強しておいたほうがいいんじゃないの? 進学した時クラス分けで痛い目みるよ」
そもそも教室の設備が違う気もする。Eになると結構なオンボロ教室になってしまう。Aは快適に過ごせるので文句ないが。
「いや、俺は元からEクラスだからな~……。別にいいんじゃないか?」
「よかないだろ! というかそこまでバカだっていうのは初耳だよ!」
「よく授業サボってたしな……」
ここでボクの注文したスパゲティとカイトが注文したトンカツ定食が登場する。まあ、カイトのボリューム満点な食事内容についてはあえて言及しないことにする。
「しかし、俺よりイリアのほうが頭悪いんだぜ? それ本人に言うとすげえ剣幕で怒るから絶対タブーだけどな」
「そ、そうなんだ……。意外……でもないな、今納得した」
確かに直情タイプの人間であるイリアはあんまり御利巧そうには見えなかった。しかしバカ二人が並んでバカやってるとなると、もう永遠にバカなんだろうな。バカって単語が三つも入る文章なんて我ながら異例だよ。
「よければ勉強教えようか? 三年の勉強くらいもう全部頭に入ってるけど」
「マジか!? そりゃ助かるよ! イリアのやつこのままEで進学したら引きこもるって泣きながら勉強してたからな~」
どんな状況だそれは……。ちょっと想像してみる。机にかじりついてぐずぐず泣きながら意地になって勉強するイリア……。ありありと想像出来てしまって逆に切なかった。
「そういや、イリアとは打ち解けたみたいだな」
「え? あ、そう……なのかな?」
初めて会った時、イリアはボクに対して敵意丸出しだったと思う。その理由は未だによくわからないわけだけど、何故か最近は少しだけ丸くなったような気がしていた。そんなボクの心境を読み取ったのか、カイトは爽やかに笑って、湯呑みを口にしてから語りだした。
「あいつが怒ってた理由はな、別にお前が気に入らないからってだけじゃねえんだよ」
「え?」
「今のお前なら冷静に聞いてくれそうだから話すけどな……。確かにあれは、お前が怒られて当然だったんだ」
街中で流転の弓矢を放った事だろうか?それだったら、あの時はそうするのが一番良かったと今でも思っている故に、ちょっと不満が残る。けれどカイトはきっとそんなことを言いたいのではないのだろう。カイトはこう見えて、かなり大雑把な性格をしている。確かに正義感は強くて誰からも好かれる兄貴肌なのだけれど、どこか何もかもを割り切っているような冷静さを備えているのだ。
だから彼がそんな風にいうということは、倫理的にどうとかではなく、きっとボクがイリアを怒らせるような……。個人的な何かをしでかしてしまったということなのだろう。そう思うと確かに少し納得がいく。少しばかりばつが悪くなって、一気にグラスを空にした。
「明日暇か?」
「え? あ、うん」
「だったらその理由、見に行くか」
有無を言わせぬカイトの力強い笑顔。ボクは黙って、グラスを口につけたまま、小さく頷くことしか出来なかった――――。