夢の、終わり(1)
「目標、熱圏に突入! 数は約三百、全て天使級と断定! 特殊戦闘タイプ認知せず、全て“大天使”級!」
巨大なモニターに映し出された宇宙に限りなく近い空の映像、そこには無数の異形の怪物たちが翼を羽ばたかせて居た。“天使”――そう呼ばれたそれらは様々な形状を持ち、それぞれがランク分けされており形状もそれぞれ異なっていた。
空を埋め尽くすような数の天使……しかしそこに居る誰もが特に慌てた様子もなく画面を眺めている。そう、この程度の状況は日常茶飯事――。この世界にとっての当たり前なのである。
「三百、ですか? そんなちょっとで攻めてきたんですかねえ、ウッフッフ」
スーツ姿の男が口元を緩め、小さく笑った。この組織の副指令であり、作戦指揮官でもある彼にしてみればこの状況は特に大したものではない。まず確実に勝てるであろうという見込みがあるからこそ、彼らは余裕を持って対応できるのである。
オペレーションルームは広大だ。巨大なメインスクリーンに映し出される敵の映像を舐めるような視線で見つめ、男は静かに微笑む。男の片手を上げる合図と共に、コンソールの前に座ったオペレーターがマイクを通して指示を出した。
「レーヴァはカタパルトエレベータへ移行! 三百秒後に射出します、対ショック用意を!」
『こちらカイト、了解した! 今回は“イカロス”で出撃する!』
「了解しました。識別コード“イカロス”は直ちに出撃、その後成層圏に敵勢力が到達する前に殲滅してください……。ふふ、でもカイト君ならこんなの問題ないと思うわ。いつも通り、頑張ってね」
『無駄に期待されるとこっちもアレなんだけどな〜……了解、戻ってきたらさっさとメシにしたいよ』
「頑張ってくださいねえ〜、カイト君! 今のところ君しか『適合者』がいないんですから〜!」
副指令の男が大声で叫ぶと司令室に小さな笑いが起こった。一方、その司令室よりも上部にある格納庫では巨大なロボットがハンガーの拘束より解き放たれようとしていた。
全長約40メートル――。“アーティフェクタ”と呼ばれる巨大な人型ロボット。細身であり、どちらかといえば女性のそれに近いシルエット……。薄くほとんど何も纏っていない装甲の下には機械というよりは人間そのものと見えるシルエットが浮かび上がっている。
全身の細部に至るまで通されていた修復神経が抜き去られると腕部、脚部、胸部の順番でハンガーに固定していた拘束機が開放される。圧縮されていた空気が放たれる音と共に、ロボット……というよりは巨人が鎧を纏ったようなそれの兜の隙間、灯が点されるように瞳が輝いた。
そうして繰り出された、あまりに巨大な一歩。ただ歩くだけで“そのために設計されている”格納庫ですら振動が広がる。まるで人のように優雅に歩くそれの胸部、無色に輝く光球の内部に学生服を着用した男女の姿があった。そこはコックピットと呼ばれる場所だったが、三百六十度に広がる景色は機神が見ている景色そのものであり、機神の目を通し彼らは世界を見ているのだ。
まるで空中に浮いているように立つ少年の周囲には光で構築された操縦桿やコンソールが浮かび上がっている。金髪の少年、カイトは実体のない操縦桿を握り締め、機神を歩ませた。
「さて……今回はどうなることやら」
静かに息をつくカイト、しかしその目に恐怖の色はない。少年の背後に浮かぶ少女はやはり光のコンソールに囲まれていた。大きな違いがあるとすれば、少年は広いスペースに立っているというのに少女の方は椅子のようなものに腰掛けているという事だろうか。
それは二人の役割が違う事を所以とするものであり、少年は振り返ると大抵蹴られるなり物を投げられるなりするので出来る限り振り返らないようにしていた。その理由というのは、実に下らなく単純な物だったが……。
「パンツ見えるからな……」
「何か言った――? イカロス射出位置に移動! さっさとしなさい!」
「何もしなくても怒られる、っと……。はいはい……イカロス、射出位置に移動」
直径1kmほどの巨大な円形の部屋、その中心部まで移動した機神は腰を低く据え、片膝を突いて空を見上げる。それを合図としたように頭上を塞いでいた無数のシャッターが次々に開放されていく。
「イカロス射出位置に固定完了! 射出許可もらえるか!?」
『こちら司令部、カタパルトエレベータ使用許可! カイト君、ご武運を!』
「了解! レーヴァテイン=イカロス――行くぜッ!!」
四方から、眩い光が頭上へ向かい高速で放たれた。それはエレベーターだった。ただし、規格外の超巨大であり、その上昇速度も限りなく高速の……。
軋むように振動する大気の中、エレベーターは矢のように空に向かって突き進んでいく。無数のフロア、エリアが目にも留まらぬ速さで目前を通り過ぎていき、やがて何も無い、青空だけが広がる場所――そしてそれすらも乗り越えた雲の上、果てしない空の向こう、どこまでも続く、ただその塔だけが続く、それだけの場所。
――打ち出される、投げ出されるように。光を纏って――翼を広げて。摩擦に焼かれ、煌きながら。美しきその身を世界に晒し、巨人は猛然と舞い上がる。
“レーヴァテイン”――それは空中を音速で、雲を切り裂き飛翔しながらその形状を変化させていた。何も纏っていなかった生身の装甲を翼から放たれた無数の光の粒子たちが覆い、造型していく――。腕を、肩を、足を、腰を、背を、胸を、そして翼さえその姿形を変え、羽ばたくのだ。
無色から燃えるような真紅へ。両手に燃える炎のような紅い光を纏い、頭上に広がる天使の群れへと突き進んでいく。それはまるで地上から放たれた光の矢だった。空を埋め尽くし今まさに地上へ降りようとしている天使たちの群れを嵐のように貫通し、巻き込み、消し飛ばしていく。光は大地を遠く臨むその場所で何度も何度も天使の群れを往復し、爆発と光を放っていた。
「全員まとめて――――消し飛べぇッ!!!!」
光を纏った両手を組み、そこから放たれる紅い波動が大気を熱し、融解させていく。空を瞬く連鎖する光――やがて巻き起こった無数の爆発は美しく、しかし無慈悲に全てのものを壊していく。
炎の嵐の中、無数の翼を広げ空に舞う機神の姿は神々しく、余りにも美しい。そして、それは誰もがその姿を知らない不可侵の神。故に穢れを知らず、救いを知らない――。
その眼下、遥か彼方に広がっている巨大な町へと降り立つために神は舞い降りていく。やはりそして、穢れを知らないままに――。
夢の、終わり(1)
ボクはこの世界が嫌いだ――。
黒板に記されていく白い文字の羅列……。ペンがノートの上を奔る軽快な音。窓から差し込むゆったりとした日差し。少しだけ暗くて、時々明るくて、それはいつもアンバランスだ。
教師の声も、クラスメイトの声も、ボクにとっては鬱陶しいものでしかない。だからボクは耳を傾けない。耳に入ってもそのまま言葉はどこかへ消えてしまう。右から左へ……まさに馬の耳に念仏といった所か。
退屈な日常、そして平和な日常に忙殺されていく自分……。幸せなことなんか何一つない。窓の外……遥か彼方。悠久なる天空の先、そこにかつてボクが目指した場所がある。
“全なる宇宙”。果てしない宇宙の先にあると言われている、まだ誰も知らない未踏の地。本当はこの町はそのための町だった。ロマンと夢と希望を載せて遥か彼方、宇宙のどこかへ向かうための塔。それがいつからか、夢でもある目的を奪われ、ボクはこの世界に失望した。
空を自由に飛ぶ事を許されたのは……実在するのかどうかもわからない、ロボットのパイロットだけ。今日もプレートシティの中央部にあるカタパルトエレベータが動いていたから、きっとロボットは空へ向かったのだろう。それを誰も疑問に思わない……。ロボットが出撃して空を飛んで何かと戦って帰ってくる。それがこの町の日常的な景色でありそれに疑問を抱く人間なんているはずもない。誰もが興味を持たない、曖昧な存在のロボットがボクはたまらなくうらやましかった。
「――リイド。リイド・レンブラム」
教師の少し苛立った声が聞こえ、擡げていた顔を上げる。どうやら思い切り無視して窓の向こうを見ていたのがばれたらしい。視線を空から黒板へ戻すと、初歩的なフォゾン理論式がいつのまにか書き込まれていた。
「リイド・レンブラム……この問題を解いてみろ」
「……はい」
空を飛ぶ権利は、今のところそのロボットにしかない。だからボクはうらやましい。うらやましくて仕方がない。でもパイロットどころかそれが本当に存在するのかどうかもわからない。
そんなわけのわからないものを恨む事も、妬む事も、はっきり言って馬鹿馬鹿しい。だからといってこの気持ちをどうすればいのか……。うまい方法があればぜひ教えて欲しいものだ。
「む……席に戻れ」
「はい」
そう、こんな退屈な問題じゃなくてね……。
問題を解いて席に戻る。一体どんな勉強をしているのかはわからないが、解けと言われたら解く。別になんてことはない。退屈な毎日……どうしてボクは空を飛べないのだろうか。それともロボットも、この町を襲う何かも、本当はボクが生み出した幻覚なのだろうか?
もしかしたらそうかもしれない……と思う。なんにせよ、ボクはきっとどこかがおかしい。そうに違いないのだ。
「リイド、さっきの問題よく解けたねえ~! ずうっと余所見してたのにわかるなんてすごいじゃん?」
教室を出て長い廊下を真っ直ぐに歩き階段を降りた校舎の裏側にボクが足しげく通う部室がある。そう、部室……ボクが所属する“フォゾン工学研究部”の部室は、部室とは名ばかりの倉庫の一画にある。しかも一番古くて狭い……使用していい部屋が多いのだけが優遇されている部分だと言えるが、最新の学問であるフォゾン工学に取り組む部室がこんな倉庫の一画なのは全プレートシティの中でも恐らくここだけだろう。
しかし、それもそのはずである。何しろフォゾン工学部はとっくに廃部になっているのだから……。部活動というよりボクが勝手にこの元フォゾン工学部の部室を使用しているだけであり、ボク以外にここを訪れる人物は殆ど居ない。ただ一人を除いて……。
その、たった一人の例外と言う奴が私物の端末を操作するボクの背後に立っていた。上級生の女子……。窓辺に腰掛け、片手をひらひらと振りながら笑っている。
「学年違うのにどうしてさっきの出来事知ってるんですか……正直怖いんですけど」
「いやいやいや、きみきみ、アタシを誰だと思っとるね? 生徒会長のカグラ・シンリュウジ、花も恥らう乙女の十五歳! 校内での主な出来事は完全に把握していて当然というやつだよ、リイド君!」
「それはすごいですねー」
完全にスルーして作業を続ける。挙句の果て椅子の上に乗って身振り手振りで動作を続けていたカグラだったが無視を決め込むボクの態度に退屈になったのかずうずうしく顔を出して端末を覗き込んできた。異様に近いこの人のスキンシップ方針は時々ボクを苛立たせる……。
「リイド、何やってんの?」
「……エーテル・リブート・ドライブの設計です」
「エーテルリブ……リブ? なんじゃらほい」
「エーテルを再びフォゾンに再変換しエネルギーを一瞬ですが爆発的に上昇させるデバイスの設計ですよ」
「ごみんさっぱりだっぜ」
「あんたフォゾン工学の授業受けてんじゃねーのかよ……」
「なんか言ったかい?」
「いえ別に……」
西暦2666年――――。
人類の文明は今までの歴史の例にもれることなく、飛躍的かつ爆発的な進化を遂げていた。人類にとって踏破出来ない場所は既に地球上には存在せず、理解出来ない理論もまた存在しない。人類は地球上のおおよそ全ての理を理解し、己の存在を上位の存在へと昇華させた。
新たな力を手にした人類はやがて大地を離れ空を目指し、その先にあるもの――宇宙を目指した。千年前、地上で愚かにも戦争を繰り返していた人類は争いを放棄し、より高みを目指すため手を取り合った。そして新しい力と文明をその手に、天を貫く塔を作り上げたのだ。それが、“天空要塞都市ヴァルハラ”……。ボクらが住む、この空に浮かぶ町だ。
とは言っても、実際にヴァルハラが空中に浮遊しているわけではない。その規模が巨大過ぎて分かり辛いが、それは地中に根ざす一本の大樹のように天空に向かって伸びている……言わば一本の“棒”だ。
恐らく宇宙まで届くほどのその巨大な塔を軸に円盤状に建造された108のプレートシティ。そして塔の内部を高速で移動するシャフトエレベータ。かつての文明では夢物語だった数々を実現させたのは、フォゾンという新しいエネルギーの発見と運用だった。
人類はかつて炎を明かりとしていた。しかし電気を運用しランプが生まれ人は夜を克服した。原子力や太陽光、風や光、人類にとっては危険すぎるものまで自在に操り新しいエネルギーとしてきた人類の文明……。人類の発展の歴史は常にエネルギーと共にあったとボクは考える。そしてその延長線上に“フォゾン”があるのだ。
――フォゾン。それは大気に満ち満ちた生命の力。
自然……木や草によって、まるで酸素のように日々生み出されているフォゾン。それは肉眼では捕らえる事の出来ない無色の力。生けとし生ける者ならば全てが必要とし生み出すもの。
世界と言う、地球と言う巨大な生命が呼吸をするために必要なエネルギー……つまり、生きる力そのものなのかもしれない。目には見えないその力を利用出来る形に変化させ、新たなエネルギーとしたもの――それがフォゾン変換エネルギー、“エーテル”だ。
人類はまた新しいエネルギーの光に導かれ、その文明をより一層進歩させた。その象徴がこの町、ヴァルハラだ。ボクは人類の最先端に生きている事だけは誇りに思っている。
「つまり、一度エーテルにしたフォゾンをもう一度フォゾンの形に戻す時、その量を増幅させて変換する……永遠機関の開発をしているんですよ。これが実現したら偉人伝間違いなしです」
「ふーん……。難しいことはよくわかんないけど、アンタやっぱり頭いいんだね」
年上のクセに頭はよくないらしい生徒会長は軽快に笑いながらボクの肩を叩く。この人は結局のところ何一つわかっていないのだろう。けれど別にそれでいいと思える。人間嫌いを自負しているボクが気兼ねなく接する事の出来る数少ない人物……それには間違いないわけで。
「……あれぇ? あれって今噂のカイト・フラクトルじゃない?」
「カイト・フラクトル?」
作業を中断して顔を上げた。カグラが指差す先、人気の無い校舎裏には金髪の少年の姿があった。長身でいかにも活発そうな外見をしている。制服をだらしなく着崩している辺り、あまり頭は良くなさそうだ。何やら隣に立っている女子と話しこんでいるようで、ボクたちが見ている事には気づきそうもない。
「噂って、何の噂?」
「アンタ知らないの? も〜、少しくらい噂話とか聞いた方がいいわよ? そんなんだから友達できないんじゃないの、少年」
「余計なお世話だよ……。それより内容」
「ああ、うん。えーっと、簡単な話だよ? 彼、ロボットのパイロットなんじゃないかって噂。ホラ、ヴァルハラにはロボットがいるでしょ? 見た事ないだろうけどさ」
そう、ヴァルハラにはロボットが居る――“らしい”。ボクら一般市民は拝む事すら許されないので……らしい、としか言えないが。
ロボットはいつもヴァルハラという巨大な塔の中央に位置し、海中から中間圏にまで伸びた巨大なエレベータで宇宙へと打ち上げられる。それは最早エレベータと言うよりは巨大な射出台と言えるだろう。普段は一般開放されている中央エレベータも、そのロボットが出撃する時だけは完全に閉鎖される。
普段はガラス張りで透けて見える内部の様子も完全に伺えなくなる。ガラスそのものが不透明になるように細工が施されているのだ。だから実在するという証拠はロボットが通りすぎる時のあの衝撃と町中に流れる警告のサイレンだけ……。それでもロボットは実在する……と思う。ロボットがいなければ、ボクらはこの町で“生きていけない”のだから。
「あいつがロボットのパイロット……? あんな馬鹿そうなやつが?」
顔は悪くないし運動神経もよさそうだけれど、お世辞にも頭がよさそうには見えない。ロボットなんて高性能なものを動かすからにはそれなりに――しかもそれがヴァルハラの機密とくれば余程知的な人間が動かしているのだろうと思うのだけど。仮に彼がパイロットだとしたら、ボクはちょっとあのロボットの存在に幻滅せざるを得ないだろう。
「まあ確かにバカと言えばバカだけどね。でも、ロボットが出撃する時必ずアイツは教室にいないんだ」
どうやらカグラは知り合いらしい。ならその話も少しは信憑性が生まれると思うけど……。
「でもどう見てもあれ、不良じゃないですか。単純にサボってるだけじゃないですか」
「かもねえ……。だからあくまで噂だよ。でも隣に立ってる女の子も関係者じゃないかって話」
そうしてカグラが語り始める頃にはボクはもうその話題から興味を失って作業に戻っていた。何と言われた所でそれが不確かならばボクにとっては興味の対象外だし、あんなやつがパイロットだなんてどうしても思えない。だったら自分のやるべきこと……自分自身が好きな事に時間を費やしたほうが余程有意義だと思うから。
「そういえばリイド、宇宙に行きたいんだっけ?」
「……そうですけど、何で今そんな話?」
「いや~。だったら興味あるんじゃないかと思ってね、あのロボット」
カグラは頭は悪いけれどこういう時の鋭さは目を見張るものがある。そう、ボクはロボットに乗りたい。ロボットに乗って宇宙に行きたい。そう願っている。何故か? 答えはシンプルだ。とにかくボクはもう地球に飽き飽きしている。もうこれ以上ないってくらい、この世界に飽きたんだ。
下らないことばかりが毎日延々と続いている、退屈と理不尽が交互にステップを踏むようなこの無限の日々を終わらせたいんだ。そうして一人きりになって宇宙の果てで綺麗な世界を目にして死ねたらどんなにいいだろう。うんざりするような人の声から開放されて……。
誰も居ない空――それは、ずっと昔からボクが憧れた約束の場所だった。もちろんそんな話は誰にもした事はないけれど。
「興味ないわけないじゃないですか。ロボットですよ? 子供の憧れじゃないですか」
「なるほど、そう来ますか……。ま、アタシはもう行くけど、程々にしなよ」
去っていくカグラを見送るとガラクタの山の上に寝転んだ。部屋の隅に山済みにされた用済みのそれらはボクにとっては居心地のいいものだ。だからそうして空を仰ぎ見る。
校舎裏にあるこの部室にはいつも日が差し込まない。空はこんなに晴れているのに、ここはどこかいつも薄暗い。それはまるでボクの心を映し取ったかのように、退屈で日々代わり映えのしない青――。
先ほどまで立っていたはずの噂の少年は居なくなっていた。当たり前だ、ここには何も無い。誰も居ない。居る理由がない。
作業を進めるのも嫌になって後片付けを済ませて部室を出た。 鍵だけはしっかりかけて、帰路を急ぐ。急ぐと言ってもする事もしたい事も無い。
ボクが暮らしている82番プレートシティは第三学園がある81番プレートの一つ下にある。ヴァルハラは108の巨大なプレートによって構成された天空都市だ。一つのプレートごとに一つの町が存在し、たくさんの人々が暮らしている。
番号が若くなるほど上に……つまり82番プレートシティはプレートシティの中ではかなり地上に近い場所にある。
町中に張り巡らされたプレート間を移動する無数の巨大なエレベータに乗り込み、81番プレートから82番プレートへと移動する。水平線の向こうから差し込む夕日の輝きを数分間揺れも存在しないエレベータから眺め続ける。
それぞれのプレートシティは巨大な硝子によって覆われている。無論ただの硝子というわけではないのだが、町から景色を見渡す事は容易だった。ただぼくにいわせればこのプレートシティに本当の空なんて存在しない。確かに見る事は出来るけれど、だって真上には他のプレートがあるのだから。
そのプレートの上にもまたプレート……それが全部で108。実に気の遠くなりそうな話じゃないか。空は果てしなく遠い……遠ざけられている。
何十人もが同時に移動できるエレベータの中は帰路を急ぐ学生で一杯だった。その隅っこで移動を耐え、自らのプレートに足を踏み出す。町の構造はどこも殆ど変わらない。住む人や建造物は違っても、大本の構造はどのプレートも同じなのだから仕方がないだろう。
町中を巡っているモノレールに乗って移動……するのが普通なのだろうけど、生憎ボクの家はエレベータからかなり近い場所にあるので必要なかった。歩いて数分で目に付いた巨大な豪邸、それがボクの家だ。自分で言うものあれだけれど、ボクはちょっとした金持ちの息子なのである。
玄関を網膜認証でパスして帰宅する。家には誰もいない。誰か居るはずも無いのでただいまとは言わなかった。即座に二階の自室に向かい、ベッドの上にカバンと制服の上着を投げ捨ててテレビの電源を入れた。
「…………」
TVで流れるたくさんのコマーシャル、その殆どが“ジェネシス”という企業と関わりの在るものだ。ついでに言うと、ジェネシスはボクの母親の勤務先でもある。
世界中、特にこのプレートシティでは圧倒的なシェアを占める超大企業、ジェネシス……。そこの幹部が自分の親だとしたら、生活に困らなくてもなんら疑問はない。
ボクはこの広すぎる家で母親と二人暮しだった。他に家族はいない。“あの人”は仕事で忙しいから中々戻らないし、実質一人暮らしのようなものだ。
家に帰っても特にする事もない……。テレビを消してベッドの上で目を閉じた。思い浮かべるのは宇宙の事とフォゾンの事ばかり。気づけば端末をいじって構想を練っていた。
こんな生活があと何年続くのだろう? 本当にただただうんざりするしかない。困った世の中だ。空を飛ぶどころか、人類がせっかく手に入れた輝かしい希望に満ちた道すら誰も行く事が出来ないなんて……。
「宇宙にいけたらいいのにな……」
宇宙に行く事は出来ない。
行けるだけの力はある。
でも、誰も行く事は出来ない。
宇宙に行く事だけは、人類には絶対に出来ない――。
「だって、人はそれを許されていないから……」
人ならざるもの、天の先、宙の先、遥か彼方、どこかも分からぬ果てしない場所に居る。
「神様って奴に、大地にしばりつけられたままだから……」
溜息一つと共に目を瞑る。指先が弾いたペンが机から落ちて、カツンと空しく音を立てていた――。




