神話、狩る者たち(1)
霧掛かった薄暗い白の闇の中、一つの神の姿があった。それは霧の中で街をから街へと往来し、そこに住む命全てを光に還してきた。そして今またとある街へとやってきた神は、地上に住む者たちを見下ろしながら光を広げていく。
逃げ惑う人々、破裂して血をぶちまける人々……突然の不幸を嘆く事も出来ないまま新で行く人々。誰もが無力であり、それに抗う術を持たない。このままならばこの街も今までのそれらのように等しく死都となり得るだろう。そしてそれは誰にも止められない……そのはずだった。
霧の中、轟音と共に飛来するのは無数のミサイルであった。複数の戦闘機がそれらを放ち、神を攻撃する。人類とてただ黙ってやられているわけではない。自らに天罰を与える神だとしても、その存在に抗うのが人の性というもの。しかしその無力な翼では神の光に通じるはずもなく、次々に撃墜されていく戦闘機たち……。しかし誰もが街を救おうと必死で命を投げ捨てていった。
「――もういい、連中を下がらせろ」
それは男の声だった。薄暗いコックピットの中、コンソールの淡い光に照らされながら男は溜息混じりに呟いた。その指示に従ってか、戦闘機たちはやがて戦闘領域から去っていく。男はそれを見届けてから身体を起こし、操縦桿を握り締めた。
「エンリル」
「……はい」
「戦闘モードで起動後、目標を殲滅する」
「……はい」
か細く消え入るような声を頼りに目を凝らせば、闇の中には少女の姿が伺える。彼の背後、彼の背中をただ見つめながら少女はゆっくりと目を開いた。褐色の肌に銀色の髪……。金色の瞳に光が宿り、そしてそれは動き出した。
瞳に火を点し、ゆっくりと腰を上げ、立ち上がる。鉄板のような鋼の翼を広げ、黒いボディを霧の合間から輝かせながら、ゆっくりと。それは、まるで彼らが戦う、人類の敵と呼べる存在のような。人型をした――巨大なロボットだった。
「“ガルヴァテイン=ティアマト”――。これより戦闘行動を開始する」
『こちら司令部、了解した。ティアマトの戦闘行動を許可する。ミスター、武運を』
「さて……。行くぞ、エンリル。準備はいいか?」
「はい、大丈夫です。行きましょう……マスター」
「…………。いい子だ」
男は優しく微笑みを浮かべ、ガルヴァテインと呼ばれた黒き巨人を歩ませる。黒い機体が両手を天に翳すと光が収束し、そこにはあるはずのない巨大な二丁の拳銃が現れていた。
武装の出現と同時に駆け出し、戦闘機よりも早く……一瞬で市街地を通過して敵を目指す。放たれた無数の弾丸は神が展開する結界に弾かれ淡く光を放って消えた。ティアマトの名を持つアーティフェクタは跳躍し、神の頭上を飛び越えながら弾丸を吐き出す。
着地点には人がいた。悲鳴を上げて逃げる子供がいた。踏みつけてしまっても仕方が無い位置だった。丁度着地点にいたのである。しかも周囲は既に死人ばかりであり、ろくに生きているものなどいないこの場所で、一人の子供の命など、どれほど軽いものか。
だが男はそうしなかった。不器用な体制で着地し、神が放つフォゾンの波動から子供を守るように身を翻す。衝撃と共に干渉者の全身に走る痛み……。しかし男は少女を振り返る事すらしない。ただ拳銃を前に、子供を踏み潰さぬように、歩む―――。
放たれる光の弾丸を拳銃で弾き、かわし、駆け寄りながらその銃の先端が開き――光の刃が現れる。銃剣……。それはただの拳銃ではない。対象を切り裂き、突き刺し、そうして放つ……格闘戦闘に特化した特殊兵装。
「……貰った」
最後の光弾を屈んでかわすと同時に刃をコアに突き刺した。一瞬、全ての時間が停止する。何もかもが一瞬の出来事だった。男は後方で子供があの攻撃で尚無事である事を確信し、引き金を引く。
同時に何度も繰り返し一点に向かって直撃するフォゾンの弾丸はコアを砕き、神を光へと還した。内側から爆散する神……その光から子供を庇うように、ガルヴァテインは膝をついて銃を十字に構えていた。ゆっくりと振り返り足元を見る。子供は怯えた目でティアマトを見上げ、呆然と立ち尽くしていた。
子供にとってはこの霧の中、あの化物を倒した“何か”はそれ以上の化物、くらいにしか理解出来ないのだろう。男はそれもわかっている。だが、男の実力ならば全ての攻撃を避けきれたというのに、わざわざ銃で弾くなんて事をしたのは――その子がそこにいたからで。
甘ったれた男だった。クールな様相には似つかわしくないほどのお人よし……。地獄のような景色の中で、しかしそれを分かっているから少女は彼の背中を見つめ安心して言う事が出来る。
「……戻りましょう、マスター」
「ああ」
囁くような声に従い、男はティアマトを下がらせる。その姿は恐ろしい悪魔のようであり、冷たい無機質の銃剣を引っさげた化物であり、搭乗者もまた無口でその心は理解出来ない。
しかし子供はそれを見上げ、思うのだ。恐ろしくても、わけがわからなくても。ソレは確かに、自分を救ってくれた英雄なのだと。
別に、人助けをして感謝されたいから戦っているわけではない。全ての戦いに意味や理由を求められる程人間は上等ではない。だが男はそれでも己の刃に理由を求めた。生きる意味を探していた。だから今ここにいる。神と……この世界と、闘い続けているのだ――。
神話、狩る者たち(1)
エアリオが退院して学校に戻ってきたのは、アルテミスを倒してからまた数日後の事だった。頭部に対するダメージという事もありその後の経過が心配されたのだが、どうやら数日気を失っていただけで済んだらしい。
勿論まだこれからも通院して検査をする必要はあるらしいのだが、とりあえず今日から日常生活に復帰できると言う。何はともあれ、エアリオが無事に戻ってきてくれた事がボクにとっては幸いだった。
「エアリオ!」
そんなわけで、休み時間になるとボクはすぐにエアリオの教室まで走っていく事にした。エアリオは教室の隅っこでうつ伏せになって寝こけていたので、相変わらずだなあと思いながら教室に失礼する。
「おーい……? ボクだけど……。リイド・レンブラムですけどー」
肩を何度か揺さぶってみると、エアリオは寝ぼけ眼をごしごし擦りながら顔を上げた。というかこいつは授業中も完全に爆睡していたのか。恐ろしいやつだな。もう完全にやりたい放題じゃねえか。
「リイド……おふぁよう」
「……おはよう。それより怪我、もういいのか?」
「んー……。へーき。元からたいしたことなかった。でも、アルバが大事をとれって……」
「そ、そっか……。なら、良かった……」
最近は授業中も窓の外をちらちらみてエアリオが戻って来ないか気にしていたから、これでようやく授業に集中出来る。そんな変な行動のお陰で授業中に登校してきたエアリオの姿に気づく事が出来たのだから、一応は効果があったのだろうか。
エアリオは相変わらず眠そうだった。ボクに比べればいつも遥かに多く寝ているはずなのに、いつも眠そうだ。寝ている間と食べている間はずっと幸せなんだろうなあなんて前に考えた事があったけど、きっとそうなんだろうな。
「その……。この間の作戦の事なんだけど……」
「……?」
エアリオは“何の話かさっぱりわからない”という表情を浮かべている。多分本当に何のことだかさっぱりなんだろう。エアリオはきっと、ボクのミスを責めたりしない。けど……そういう問題じゃないんだ。
彼女に歩み寄り、ボクは潔く頭を下げた。休み時間の教室の中だから他の生徒にも見られているんだろうけど、そんな事を気にしている場合じゃなかった。ボクは彼女を傷つけてしまった。彼女を守れなかった。だから……男なら、頭を下げて然るべきだと思うから。
「ボクの所為で……ごめん、エアリオ! 次からは……次からはもっと、上手くやるから!」
「…………」
彼女は少しの間黙り込んだ後、小さな手で下げたボクの頭を撫でた。無性に恥ずかしくて逆に頭が上げられなかった。冷や汗を流しながらそっと彼女の顔を覗き見ると……エアリオは、笑っていた。
「気にしなくて良い。私はリイドのパートナーだから……。例えどんな事になったって、私だけはずっとリイドの味方だから」
「…………。エアリオ……」
カイトは……エアリオは言う事を聞かないと言っていた。イリアとはしょっちゅう喧嘩してる。普段からぼけーっとしていて、マイペースで……だらしがなくて駄目人間で、でもどうしてかこんなにもボクに優しい。エアリオは、いつだってボクに優しかった。
顔を上げると気まずくて目を合わせる事が出来なかった。ボクは人に謝った事など本当に数える程しかない。それは誰にも迷惑をかけてこなかったからだ。でも……最近は誰かに謝ってばかりの気がして、ひどく情けない気分だった。
「ボクは……強くなるよ。今よりずっと……もっと。もう誰にも負けない力を手に入れてやる……絶対に。だから……エアリオ、また改めて……その、宜しく」
「ん……。宜しく、リイド」
小さな手が差し出される。それが握手を求めているのだと判り……ボクは照れくさく感じながらもそれに応じた。また誰かの手に触れる。そうしてボクは自分が誰かと関わっている事を知る。強くならねばならないのだと思い知る。
我侭を通す為に、自分が自分で在り続ける為に……力は絶対に必要なんだ。どんな事も全ては力一つでねじ伏せる事が出来る。だからボクは強くなる。その為に出来る努力の全てを惜しまずに……。心の中で誓おう。彼女の傷に……。ボクのプライドに……賭けて。
「どころでリイド」
「ん?」
「もう休み時間終わるけど」
「……のわっ!? ご、ごめん! じゃあまた後で!」
エアリオはうつ伏せになったまま手をヒラヒラ振っていた。そうだった、昼休みじゃなくて授業と授業の合間に来たのだった。このままじゃ優等生なのに遅刻しちゃうよ!
そんなわけで何故か廊下を全力疾走したせいで、教室に向かってきていた先生に捕まって珍しく怒られてしまった。どっちみち怒られた……。しかしエアリオが怒っていない事に安堵し、ボクは先生に怒られていることなど激しくどうでもよかった。
昼休みが少しだけ待ち遠しくて、みんなと一緒に何を食べようか……そんな事を考えていた。そうして待ちに待った休み時間になると、いつも通りエアリオがすぐさまやってきてボクをつれて中庭のカフェテリアへ走っていく。そこへカイトとイリアが並んでやってきて、いつものメンバーが集合した。……でもって、エアリオが持ってきたのはBLTバーガーであり、ボクが授業中に考えた食事メニューは遠いものになりそうだった。
「まあいいけどね……」
四人で食事を摂るのは別に今までもあったはずなのに、少しだけ空気が変わった気がした。何より変わったのはきっとボク自身が彼らに少しだけ興味を抱き始めたということだろうか。
基本的に他人に対して無関心なボクは目の前で誰が何をしていようが関係のないことだ。しかし今はこうしてエアリオとイリアが睨み合い……いや、イリアの一方的な睨みか……をしていて、それを苦笑しながら眺めているカイトがいて、そんな様子が少しだけ心地よかった。
そうしてボク自身が少しだけ変わった事をボクはまだ強くは意識していなくて、そうして背後から肩を叩かれてボクは我に返った。振り返り……思わずぎょっとする。
「リイド君、何をしているのかな~? 楽しそうだね!」
「カグラ先輩……。あれ、なんか久しぶりですね」
立っていたのはこの第三学園生徒会長であるカグラ・シンリュウジ先輩だった。なんだか久々に見た気がするのはボクだけだろうか。まあ、最近はレーヴァ関係で放課後も時間がつぶされたりしていたんだけど。
ポニーテールにまとめた金髪を揺らしながら四つしか椅子のないはずのテーブルに強引に五つ目の椅子を持ち込み、挙句の果てボクのBLTバーガーを食いながら当たり前のように笑った。
「久しぶりっていうか、元々そんな頻繁には会ってなかったけどね」
「カグラじゃねえか。なんだ、どうした急に?」
カイトは目を丸くしているが、どうも知り合いらしい。イリアも特に驚いていないところを見ると知り合いのようだ。というか、この学園の生徒で彼女の事を知らない人間など居ないだろう。他者に疎いボクですら知り合いなのだ。逆に知り合っていない人間などいるのだろうか。
「ん〜……別に急でもなくない? お昼休み以外は結構一緒にいるじゃん、カイトとイリアは」
「まあ、確かにそうね」
と納得しているイリア。いや、これって確かレーヴァ関係者の集まりだったような気がするのはボクだけ?
「リイドともアタシは知り合い……。というかマブダチの関係なので特に問題はないと思うんだよね!」
「誰がマブダチだ誰が……! 意外な言葉でボクを表現するな……」
「も〜照れちゃって! 夕暮れの部室で一緒に機械弄りした仲じゃないか〜!」
「あんたは見てただけだろ! あと別にボクは機械弄ってないし……」
「いじってたじゃん、なんかこう、端末みたいなの」
「バラしてたわけじゃないからね! なんだよ、ボクは機械オタクかよ! しかも一人でか! 寂しすぎるだろ!!」
と、そこまで畳み掛けるようにツッコんでからボクは自分の顔が真っ赤になるのを感じた。エアリオの、イリアの、カイトの視線がボクに釘付けになっている。無論、ボクが勢いよくツッコミを入れたからだろう。
元々このカグラという先輩相手にはボクは意外と素直というか、素――というか、とにかくよく喋る事があった。遠慮も無いので、こうした人前で見せない姿を見せてしまうことはたまにあったのだが。しかしまさかよりによってレーヴァ関係者の前で思い切り鋭くツッコんでしまうとは……。先輩の首筋に入った手刀をおそるおそる引っ込め、咳払いする。
「――って、カイトが言ってましたよ」
「ぅ俺かよっ!?」
カイトにツッコミ返される。これはさすがに無茶ぶりだったようだ。というかツッコまれて逆に余計に恥ずかしくなってしまった。
「何何? カイトとリイドってもしかして漫才の勉強とかしてんの?」
「「 してねーよっ!! 」」
同時にボクらのツッコミがカグラに飛んでいく。意図せず息がぴったりと合ってしまった。逆に気まずい……。
「あっはっはっは! おもしろー! 君ら仲いいんだねえ」
「いや……別に」
「おう、まぁな」
今度はちぐはぐな答えになった。カイトはニヤニヤしながらボクの肩を組み、頭をワシワシ撫でながら言う。
「テレんなよ! 同じ境遇の仲間じゃねえか!」
「ちょっと……。暑苦しいから止めてくださいよ」
「ひでぇ!?」
そんなこんなでぎゃあぎゃあ騒いでいるうちにすぐに昼休みは終わってしまった。あっという間だった。驚くほどそれは早くて。だからボクは自分が楽しかったんだってようやく気づいた。
なんだか今後はカグラが混ざりそうな気がして、少しだけ疲れるけど……まあ、きっと相手はカイトあたりがやってくれるだろうからいいかな。そんな事を考えながら一日が過ぎ、放課後になって教室を出ようとした時だった。
「待てよ……リイド・レンブラム」
顔を上げるとそこには少しだけ見覚えのある人の顔があった。いつだったか、イリアを階段の踊り場で問い詰めていた上級生だ。いかにもボクが気に入らないという目でこちらを見ている。鞄を手に取り、立ち上がる。ボクは笑いながらその人の隣に立った。
「何か用ですか?」
「話がある……ついてこい」
ボクの返事も聞かないまま彼は廊下を歩いていく。少しだけ教室がざわめき、ボクは大人しく彼についていくことにした。向かった先は屋上だった。放課後の屋上に人の姿は殆ど無く、先に居た数名も彼のただならぬ雰囲気を感じてすぐに去ってしまった。
フェンスを背に彼は振り返り、ポケットに手を突っ込んだままボクを見下ろす。カイト並に背の高い彼は、完全にボクを見下ろす姿勢のままゆっくりと口を開いた。
「お前……レーヴァテインのパイロットなんだよな」
「前にそう言った覚えがありますけど」
「じゃあイリアは何だ? あいつは……何をしているんだ?」
「何を、と言うと?」
「イリアはロボットにどう関わってるんだって聞いてるんだよ」
「それにボクが答えるとでも思いますか?」
鋭い目つきで睨まれる。しかしそんなもの怖くもなんともない。ああ、またバカが何かやってるよ――というくらいにしか思えない。
暴力的手段に出たり、他人を威圧したり……そんなのはバカのやることだ。とてもじゃないが利口な人間の手段じゃない。そんなことをやってるのは決まってバカで、どうせ自分の中に正しさなんか持ち合わせても居ないくせに、偉そうに感情論で相手を傷つける。
そういう人間がボクは大嫌いだ。この様子だともしかしたらまだイリアに付きまとっていたのかもしれない。そう考えると何故か酷くイライラした。
「イリアがレーヴァにどう関わってようが、あんたには関係のない事だろ? いつまでもしつこくてウザったいんですよ、わかんないんですか?」
「んだと……? てめえこそイリアとどう関係があるんだよ」
「仲間ですから。無力なあんたと違って、この街の平和を守る正義のヒーローですから」
「あれが正義だと……!? ふざけるなよ! あんなもののどこが正義だ! あんなただの暴力が、正義であってたまるか!」
胸倉を掴み上げられる。刺すような敵意を全身に感じるが、ボクはそれを笑い飛ばす。
「暴力を口にする人間がこの態度ですか? じゃあ訊きますけど――。あんたたちが振るう暴力とボクがレーヴァで振るう暴力、どこが違うんですか?」
「何……?」
「だから、あんたがこうやって今ボクの襟首を掴み上げている行為と、ボクがレーヴァで街を踏み壊す行為と、違うところがあるんですか?」
「……………………っ」
「ボクはまだ敵を倒して街を守るって理由がありますけど、あんたのこれはただの私情だ。そんな幼稚な感情を他人に押し付けないでくださいよ」
次の瞬間、彼の拳が振り上げられボクは殴り飛ばされていた。殴られた頬は痛かったけれど、別にそれがどうというわけでもない。全く負けたわけでもなければ、むしろこれは相手の降参のサインなのだから。
乱れた制服についた埃を叩いて落としながら立ち上がり、汚いゴミ屑を見るような目で見上げてやる。これでイリアに付きまとわなくなるというのなら……安い代償だ。
「これで満足しましたか?」
「……」
「イリアに付きまとうのも、やめてくださいよ。人の迷惑考えた方がいいと思いますよ、先輩」
「てめえにイリアの事はわからねえ……。イリアは……あいつは……っ」
少年は去っていった。捨てセリフまで吐いておいて、何の発展も得られないまま引き下がっていった。馬鹿馬鹿しい。酷く馬鹿馬鹿しい。人間と言うやつはいつもそうだ。なんでそうなのだろう。ああ、バカのする事が馬鹿馬鹿しくて当たり前か。別におかしなことは何もない。
「帰るか……」
鞄を拾い上げて屋上から降りようと振り返ると、昇降口でカグラが手を振っていた。どうやら一部始終見られていたらしく……若干ばつが悪いのは否めない。しかし逃げ場は他に無かったので、ボクは仕方なく真っ直ぐ昇降口に向かった。
「はい、オレンジジュースでオッケー?」
何がオッケーなのかわからないが……。モロに口の中が切れてしまっているのにオレンジジュースを飲めとはただの嫌がらせですか。校内の自動販売機で買ってきたオレンジジュースとココアを片手ずつに持ちながらカグラは人懐っこい笑顔で笑った。
ボクの視線に気づいてか、それとも冗談だったのか。彼女はココアをボクに差し出し、紙パックのオレンジジュースにストローを差し込んだ。フェンスを背にしながらストローでジュースを吸うカグラの笑顔から目を逸らし、ずるずると、ゆっくりとその場に座り込んだ。
指先から冷たいココアの温度が紙パック越しに感じられて、あとはもうどうでもよかった。何だか酷く疲れていて、何もする気が起きない。殴られた頬が熱くて痛い。その頬にオレンジジュースを当てながらカグラはボクのすぐ隣に座っていた。
「アンタ、不器用だねぇ」
「何が?」
「なんでわざわざ相手を怒らせるようなこと言うわけ? テキトーにへらへらして謝ってれば少なくとも殴られはしなかったっしょ」
「…………。んー……」
そりゃ、そうなのだろうけど。ボクは自分の思った事は全部口に出てしまうタイプだから仕方ない。それはカグラだって分かってるだろうに、なんでそんな事を今更訊くのかよくわからなかった。
「今思うと、なんか……カっとなったんだ。あんなやつどうでもいいはずなのに、なんかイライラして」
それが何故だったのかは思い出せない。でもボクにしては珍しくやり返してやりたいなんて少しだけ思ってしまった。やられたからやり返す、なんてのはバカの短絡思考だ。それを繰り返していたら終わるはずが無いわけだし。
だからボクは自分がそうして思い浮かべていた苛立ちの正体がわからなくて、不思議な気分になっていた。頬を冷やしながら窓の向こうを眺める。自分でも良くわからない感情……良くわからない行動だった。
「何でなんだろうな……。なんか……むかついたんだよ」
夕暮れの空を見上げながら呟くボクの前にカグラは躍り出て、それからボクの頭を撫でて言った。
「いい傾向じゃないか、少年」
なんだか最近人に頭を撫でられてばかりな気がする。ちなみに男のボクがいうのもどうかと思うけど、女の子に頭を撫でてもらうのは……意外と気持ちいいものだ。死んでも口には出せないが。
「レーヴァテインだかなんだか知らないけど、そんなのに乗ってさ。戦ってるんでしょ? 君は」
「知ってたんだ」
「知らない生徒は居ないと思うよ。みんな色々な意味で君を避けたり、君の悪口を言ったり……。でも、君は確かにそんな性格だけど、でも、ちゃんと逃げずに戦ってるもんね」
「……当たり前でしょ」
「そうかな? みんな、戦争してるって事もちゃんと理解してなくてさ。空から怪物が落ちてくるって事も、よくわかってなくてさ。だからみんなきっと、急にそんなのが現実になったから少し驚いてて――。少しずつ君のことも受け入れてくれるんじゃないかな。いつか、ね」
カグラの言うことはよくわからなかった。でも彼女の言うことがはずれたことはないので、ボクはとりあえず頷いておいた。彼女がしばらくボクを放っておいてくれたのは何故なのだろう……少しだけ考えてみる。紙パックにストローを挿して吸い込むと、口の中がずきずきした。
「……痛いな」
そう漏らすとカグラはボクに笑いかけた。腰に手を当て、夕日を臨む我が学園の生徒会長の姿は……やっぱり少し凛々しかった。
そうして鞄を片手に家に帰ろうと校庭を歩き、校門まで行くと……その先で見覚えのある三人が話しているのが見えた。相変わらず賑やかそうで、ボクに気づかず騒いでいる。
きっとボクを待っていてくれたのだろうと思う。無駄なことをしていると思う。でも、それが少しだけ嬉しかった。近づけば聴こえてくる彼らの声に少しだけ安心しながら、ボクは彼らの元に向かって行った。
「お、リイド! 遅かったじゃねえか、何して――って、うおっ!? 顔すげえことになってんぞ?」
「ちょっと、どうしたのよ……? 大丈夫?」
「いや、平気だから」
「あんた頭悪いんじゃないの? 思いっきり腫れてるわよ……? あーあ……もう」
冷 たいイリアの手が傷口に触れるとズキンと痛んだ。でも心配そうにボクの顔を眺めているイリアを見ていると、何となく諦めに似た感情が沸きあがってくる。
「本当に平気だから、ほっといてくれよ」
「何よ心配してやってんのに……。はいはい、悪ぅございましたね」
「心配するな! 傷は男の勲章だぞ、リイド!」
うん、何言ってんだこの人――。エアリオは黙ってボクに少しだけ目配せする。大丈夫か、って。だからボクも苦笑してそれに答える。痛いけど、大丈夫だよ――って。
夕暮れの中、ボクらは肩を並べて歩く。伸びた影が四つ並んで坂道を降りていく様子が、少しだけこそばゆかった。でも今はそれでいい。何も考えず、出来ればずっとこのままで……。そう願ってしまうのは、悪い事ではないと思うから。
「よし、今日も本部でトレーニングだ!」
盛り上がっているカイトが笑う。こいつは毎日全力だ。
「今日こそ勝敗を覆してみせるわよ」
イリアもなんだかんだで楽しそうだ。早いとこ、彼女に勝てるようにならなきゃな。
「…………」
エアリオは余裕の表情を浮かべている。約束を守る為にも……ボクは強くなるよ。
何も考えず、何も不安に思わず……。成すべき事があるというのはこんなにも心強いのだろうか。ボクはレーヴァのパイロットとして戦う……。強くなる。何かを守る為に……。それが今はとても居心地良かった。哀しい現実を、忘れてしまうほどに……。