暁よ、覚めないで(3)
とっくに日は暮れて夜になっていた。行って帰ってきたら恐らく深夜だろう――。明日の学校生活に支障を来たす可能性もあるけれど、学校生活と地球の平和とじゃ秤に載せるまでもない。
レーヴァのコックピットに乗り込み、レーヴァテインを起動させる。無論タイプはマルドゥーク、干渉者はエアリオだ。作戦は簡単なレクチャーの後、即座に開始される事になった。こうしてレーヴァに乗り込むのは三度目……。慣れたとは言えないが、緊張も無かった。
『マルドゥーク、聴こえますか?』
「こちらマルドゥーク……。聴こえてますよ、ユカリさん」
通信機越しに聴こえてくるユカリさんの声に耳を傾けながらカタパルトエレベータに移動する。格納庫内を移動するレーヴァの瞳が輝き、背後のサブシートに座ったエアリオが目を閉じたまま全身から淡く金色の光を放った。レーヴァはそれに連動し、甲冑に身を包まれていく。
『旧オーストラリア北部へは通常通りカタパルトエレベータにて出撃後、大気圏外に離脱せず空中から向かってください。エアリオが目印を出すので、それに従ってね』
「わかりました。向こうについたらアレをやっつければいいんでしょう?」
『ええ。でも、気をつけて……。全く何の事前調査も行っていないから敵の能力、ランク、一切が不明だわ。もしかしたら上位神話級の可能性も在り得るから』
能力、というのはまあ連中の特技みたいなものだろう。ランクというのは“天使級”か“神話級”か……。無論ランクが高い程、相応の神の名がつけられ神話級と呼称される。だがまあサイズ的にあれが天使級というのは考えづらいだろう。これと言って外見的な特徴と言えば卵である事くらいなので、神話級とも言い切れないのだけれど……。
精神を集中し空中にインターフェイスを展開する。レーヴァを動かす事に関してはもう殆ど疑問はない。自分の動かしやすいように、自分でその気になれるようにツールを構成する。深く息を出し入れし、カタパルトエレベータ内に屈んで投擲に備える。
「大丈夫ですよ。あんな奴楽勝です」
『……信じているわ。レーヴァテイン=マルドゥーク、カタパルトエレベータ使用許可! 出撃どうぞ!』
「了解! マルドゥーク、行きますッ!」
エレベータに火花が走り、一瞬で数百キロという速度に加速した土台ははそのままどんどん速度を上げ、果てしなく空へ向かって伸びる塔の彼方へとレーヴァを吹き飛ばしていく。打ち出された上空の漆黒の中、翼を広げマルドゥークは雲の上を引き絞られた矢のように急速に突き進んで行った。
カタパルトの投擲方向からほぼ直角に曲がったというのに抵抗も殆ど感じない。やはりレーヴァは人類の技術の中ではあらゆる意味で最高峰だ。空中に浮かび上がった実在しない光のビーコンが目印となり、何も考えずとも大空を迷う事無く飛ぶ事が出来る。とてもすがすがしい気分だ。
時々雲の隙間から覗ける世界は、ボクが思っていた以上に暗く――人が生活を営んでいるようには見えなかった。太平洋上のヴァルハラから南に移動しする間に見える景色といえば、人の住む事の無くなった島くらいなのだが。
かつてはこの世界も文明の光で溢れ、空から見下ろす世界は闇を照らし人の領域を誇示していた事だろう。それが今はまるで月明かりが支配するかのように、闇が文明と領域を奪おうと侵食しているかのようだ。猛スピードで遠ざかる景色……そこから思考を戦闘へと引き戻す。
「エアリオ、遠距離から流転の弓矢でケリをつけるよ」
「確かに正体が知れない以上それが確実……」
エアリオの同意も得られたところで、あとは真っ直ぐに進むだけだ。実際に旧オーストラリアまでは一時間もかからなかった。驚くべきはマルドゥークの飛行速度なのだが、まあ今更かもしれない。
海上スレスレを低空飛行し、既にユウフラテスを出現させて敵が視認出来るのを待つ。それは大して時間を要せず直ぐに訪れた。エアリオがボクの目の前に表示させた拡大図にその姿が見えた、のだが――違和感が過ぎった。思わず眉を顰め、エアリオに問いかける。
「……あれ? エアリオ、さっき写真で見た時……あそこの周りって森じゃなかったっけ?」
そう――。見れば卵の周囲は荒野になっていた。自然物など何一つ存在しない、砂漠と言ってもいい荒野だ。写真で確認した数時間前の様子には確かに森が……。鬱蒼と生い茂る森が見えていたはずだった。それが今は地形まですっかりなだらかになり、山も川も消え去っている。
エアリオもそれに違和感を覚えたのか若干不思議そうに首を傾げたが、結局ボクらは歩みを止める事はなかった。対象を確認し、問答無用で弓を引く。海上を凍てつかせながら光の速度ですっ飛んでいくその無数の矢――。対象は回避する素振りすら見えない。
「ありゃ、これはもう終わったかな?」
ユウフラテスが複数直撃すればいくら神と言えどもそれに耐え切る事は出来ない。勝負はついた――そう思った直後だった。
無数の光は空中で霧散し、敵に届くその直前で消滅してしまった。まるで花火のように、空中で瞬く青白い光――。まるで最初からそこで消えるのが決まっていたかのように一斉に、スムーズに消え去ったユウフラテスの矢を見て慌ててマルドゥークの進行を止めた。
空中で羽ばたき、停止するマルドゥーク……。急停止に衝撃が走り、海は飛沫を高らかに上げた。滞空しながらもう一度カメラを望遠し確認してみる。対象は確かに何もしていない。そこにただあるだけだ。分解されたユウフラテスの光がまるで輝く雪のように卵に降り注いでいる。幻想的な景色だが、今はそんなものに見惚れている場合ではない。
「エアリオ、どう思う?」
「――強力な結界か何かか……。それか遠距離攻撃を無力化する……そんな特性か」
そうとしか思えなかった。ボクもそれに同意だ。何はともあれここからいくら攻撃したところで無駄、ということだろう。遠距離攻撃の無力化と周囲の荒廃……。それが脳裏で何か嫌な結末に結びつきそうな気がしたのだが、その時ボクは留まって考えるより、力押しでの目先の勝利に目がくらんでしまっていた。
後々考えれば無謀……無策。バカ正直に正面から突っ込んだ所で危険である事は誰がどう考えても明らかだったんだ。なのにその時のボクは……相手が何だろうと絶対に勝てると、そう強く思い込んでいた。その思い上がりが普段の自分ならば見つけられるはずの答えを遠ざけ、無駄な“ミス”を生む事につながってしまう。
「もう少し近づいて攻撃しよう。エアリオ、行くぞ!」
次の瞬間だった――。先ほどまで何のリアクションも見せていなかった巨大な卵……その殻の表面に無数の模様が一斉に浮かび上がったのだ。赤黒く輝く紋章――それに吸い込まれるように、飛散していたユウフラテスの光が収束していく。
卵の前に段々と広がったのは大きな光の輪だった。それはゆっくりと……次第に早く、早く早く加速してどんどん回転を高速化していく。ぐるぐる回る光の帯――。それがチカっと瞬いた刹那、大気を劈く聞いた事も無いような“音”がボクらの傍を通過した。
「――――ッ!?」
エアリオが歯を食いしばり、何かを念じる。それに応じてレーヴァテインはボクの意思とは関係なくその周囲にいくつかの光の障壁を展開した。一瞬遅れ――思考が追いつく。レーヴァテインへと“射出”されたのだ。さっきの光の輪が……一つの帯が、まっすぐに……。まるで、“剣”みたいに。
思考より更に遅れ、海が割れた――。立ち上る光と爆発、そして降り注ぐ豪雨のような海水……。レーヴァは全身に海水を浴び、その装甲の表面を輝かせながら改めて敵を見据える。
「遠距離攻撃……!? エアリオッ!!」
「駄目……! マルドゥークじゃ、避けきれない……! リイド、退避して!!」
「逃げる……!? ボクに逃げろっていうのか!? 冗談じゃない、ボクは逃げない……! ボクは勝つんだ!! 闘って、勝利出来なきゃ……意味がないだろうがぁあああああッ!!!!」
翼を瞬かせ、マルドゥークを飛翔させる。先ほどと全く同じ挙動で、敵は再び光の帯を回転させ始めた。あれは回転を早め、それそそのままこちらに打ち出す為の準備動作なんだ。判っている。今度は見切れる――。ボクの中に確信めいたものがあった。脅迫じみた観念……と言った方が近いかもしれない。どちらにせよ、その時の精神状態は決してまともとは言い難いもので……。
海を低空ですっ飛びながらマルドゥークは弓矢を連発した。しかしそれが着弾するよりも早く――敵は帯を射出する。またあの、音を裂くような……。大気を両断するような……耳に残る、異様に高い音が聞こえてくる。まるで歌っているようにも聞こえるのは、ボクの耳が麻痺してきたからなのか。
だが、今度は避けられる――。ボクはそれが射出される動作を見て――? 見て? 見た時にはもう遅いんじゃないのか――そう思った直後、ボクは手にしていた弓を正面に構えていた。弓に帯が着弾する――その弾速は音よりも、光よりも早い。弓は一発で切断され、マルドゥークの装甲は砕け、エアリオが張った障壁も一発で吹き飛ばされてしまった。
レーヴァテインに乗っている間、ボクの五感は限りなく研ぎ澄まされている。敵の動作を見るだけでその次の行動が予測出来たり、超人的な操作が可能なのだ。そうでなければ光を武器にする敵と闘えるはずもない。だから奴の行動は見えていた。予見していた。でも防御した……それは何故か?
「避け……られ、ない……?」
そう、心のどこかで冷静にボクが判断したからだ。エアリオの発言通りだ。マルドゥークは分厚い装甲のせいで素早く動き回る事が出来ない……。だから、避けられなかったんだ。避けられるはずがなかったんだ。それはボクの腕とかエアリオのサポートとかそういう問題じゃない。それは、“相性”の――。
以前、クレイオスと闘っていたカイトとイリアの事を思い返した。そうだ、レーヴァテインがいくら強いとは言っても相手は神……。レーヴァはあくまで神に近いものでしかない。だから勝利する為には、相性を考慮しなければならない……。そんな基礎的な事を忘れていたなんて……。
「――リイド、海中へ!! 早くッ!! そこなら光武装の威力は減衰されるッ!!」
エアリオらしからぬ必死な叫びだった。それで自分が漸く危険な状態にある事を知る……。エアリオの指示通り、海中へ逃れようとするが……既に次の攻撃が目前まで迫っていた。
両腕を前に突き出し、正面に無数の障壁を展開させる。虹色に輝く薄い壁……それを連続で突き破った一撃はレーヴァテインの左頭部を掠って遥か背後の海を割った。遅れて大量に出血するレーヴァテイン……。何とかそのまま海中に逃れたまでは良かったのだが……。
「…………ふ……っ! う……っく……ッ!?」
振り返ると何故かエアリオが片目を抑えて必死の形相を浮かべていた。何が起きたのかまるで理解が追いつかないボクはアホみたいに振り返り、エアリオの身を案じる事しか出来ない。
小さな身体を震わせ、口をぱくぱくと開け閉めし、だらだらと脂汗を滲ませている。それからまるでおかしくなってしまったかのように口の端から涎を垂らしたまま、薄く目を開けたまま気を失ってしまった。それが余りにも異常で、ボクはどうしたらいいのかわからなくて……。
兎に角逃げなければならないと、そう考えた。けれどレーヴァはエアリオが気を失った事で装甲を失い……翼も失ってしまった。さっきまで空気と同じだった海が、今度は見た通りうねる闇の固まりとなってボクらを包囲する……。
「くそッ!! 動けよ! 装甲がなくなったら浮上する事も出来ないのかよ!? しっかりしろ、エアリオ……エアリオ――――ッ!!!!」
レーヴァは水中でもがくが、機械の塊であるこのレーヴァテインが何の推力も持たず浮上する事は不可能だ。どんどん海底に向かって落ちていく。幸いそこまで深くなかったらしい水位のお陰ですぐに海底には到着する事が出来た。だが、浮上する事だけはどうやっても出来ない。レーヴァは干渉者が作る装甲を纏わない限り、ここまで無力なものなのか?
これじゃあただの力も何もない人形じゃないか。ボクに出来るのはこんな人形を動かす事だけだって言うのか。エアリオが……相棒が危ないっていう時に、こいつを連れて逃げてやる事さえも出来ないっていうのか……!?
「くそ……! エアリオ、エアリオッ!! しっかりしろ……頼むから……! エアリオ、エアリオォッ!!」
もう何をやっても無駄だと判断した。操作を放棄してエアリオに駆け寄る。彼女の頬に触れると、じっとりと粘つく汗が指についた。普段は冷たい彼女の体温が、今は熱病にかかったかのように高くなっている。外傷はどこにもないのに、一体何がどうなっているんだ? ボクには何ともないのに……どうしてエアリオだけがこんな事になるんだ!?
「エアリオ! しっかりしろよ! どうしちゃったんだよ、なあっ!!」
『それ以上彼女に手を出さないで! すぐに救助部隊を向かわせるから、そのままそこにいて!!』
通信機から飛び込んできたユカリさんの叫び声にようやく我に帰る事が出来た。慌てて通信機に飛びつき、不安を隠しきれない声で問い掛ける。
「何が起きたんですか!? エアリオはどうしちゃったんですか!? エアリオ、大丈夫ですよね!? 助かりますよねっ!?」
『今はそんなこと説明している場合じゃないの! とにかく動かないで! いいわね、絶対に勝手な事はしないで! 彼女を助けたいでしょう!?』
「……た、助けなんかなくても海底を歩いていけます!」
『馬鹿言わないで! エアリオの案内なしでは迷うだけよ! すぐにレーヴァの生命維持装置が作動してエアリオは落ち着くはずだから、とにかく安静にしてあげて! 絶対にそこを動かないで! これは命令よ!!』
ユカリさんはそれだけ一気に捲くし立て、通信を切ってしまった。自分の頬を冷や汗が伝うのを感じる。喉がカラカラだ。なんだ、これ……。どうしたんだよ……。なんで足がすくんで動けないんだよ……。
ボクは力なくその場に座り込み、海中では歩く事さえもままならないレーヴァテインの弱さを呪った。でも本当はわかってるんだ。ボクが……ボクが最初からエアリオの言うとおりにしてれば……。いや、そうでなかったとしても、もっと最初から気をつけていれば……。
「なんなんだよ……」
こんなはずじゃなかったのに。こんな風になるはずがないんだ。だってボクは天才で、だって、だって、ボクは……ボクは、必要とされてる。特別なんだ。なのに何でエアリオがこんなに苦しんでるんだ? どうしてボクは一人じゃレーヴァも動かせないんだ?
何も出来ない。何も出来る事が無い……。ただ、助けられるのを待ってるだけ……? 悔しかった。でも一番悔しかったのは……“ああ、助けてもらえるんだ”って、心のどこかで安堵している自分がいる事をハッキリと自覚しているから――。
「…………バカかよ、ボクは……」
海面に映りこんでいた光が消えていく。長い間夜の闇を照らし上げていた光はゆっくりと消滅し、再び夜に静寂が訪れようとしていた――。
暁よ、覚めないで(3)
「あんたがそうしていたって、事態は全く好転しないのよ」
彼女はそう言ってボクの隣に座った。真っ暗闇の海を臨む砂浜に座り込み、ただただボクは呆然とそれを眺めていた。
隣で揺れる真紅の髪を直視できない。いや、そんなことすら考えられない。もう全くの思考停止状態。何が起きたのかも、何がどうなったのかもわからない。
頭を抱えて蹲りたい気持ちで一杯のはずなのに、何故かそうできない。心の中で何かが麻痺してしまったようで、言葉が出ない。目を瞑れば思い出す……。エアリオの気が触れてしまったかのような痛みに悶える表情を。一瞬の出来事に何も出来なかった自分の無力さを。
ただわかることは、ボクは敵に負けて、そして自分じゃ何も出来なくて、結局救助の潜水艦が来るまで呆然と立ち尽くしていることしかできなかったって事だけ……。情けなくて涙が出そうだった。何が楽勝だ。何が余裕だ。全然見えなかった。何にもわからなかった。
いや、きっとわかったはずなんだ。わかったはずなのに、余裕ぶってボクはそれを見逃してしまった。そしてエアリオは……。脳裏をエアリオの叫ぶ声が過ぎる。胸を締め付ける柔らかい痛みに耐えかね、ボクは目を瞑った。
居ても立っても居られないのに、暗闇の中に消えてしまいたいのに、風に揺れる鮮やかな彼女の髪がそれを許してくれない。月明かりに照らされる彼女の髪は漆黒の中で尚燃える様に明るく、鮮明にその存在を世界に示し出す。
ボクをじっと見つめる彼女の視線から逃げるように顔を背けると、彼女は――イリアはボクの襟首を掴んで強引に視線を合わさせた。宝石みたいな、真っ直ぐな眼差しがボクの弱気な顔を映しこんでいる。
「……自分で招いた結果でしょ? 逃げるなんて許されないわ。逃げ場なんてどこにもないのよ。どこにも……ね」
「――わかってるよ……」
それでも目を逸らす。わかってるさ。バカだったのはボクのほうだ。勝てるはずの戦いを負け戦に変えてしまったのだから。でも、だから……。だからこそ、ボクはそれを認められない。認めてしまったら、ボクの中のすべてが台無しになってしまう気がして。
イリアはそんなボクの事を目を細めじっとただただ見つめていた。その瞳からはどんな感情も窺い知れず、彼女らしさとは掛離れて見えた。それが仲間を傷つけたボクに対する怒りなのか、それともミスを嘲笑しているのか……。何にせよいい感情ではない事くらいはわかる。でも仕方ない。甘んじて受ける責任がボクにはある。
だってエアリオは……。まだ、目を覚まさないのだから――――。
作戦行動は中断されていた――。それはリイド・レンブラムの不注意のせいではあったが、すべての責任が彼にあったかといえばそうでもない。
故に旧オーストラリア政府は即座に対応し、レーヴァテインを回収。遅れてヴェクターとイリア、そしてレーヴァの応急修理に必要な機材を載せた輸送機が到着し、ロック状態のコックピットを外部操作で強制開放……。その後リイド・レンブラムとエアリオ・ウィリオの救助に成功した。
無傷のリイドを放置し、負傷状態だったエアリオは即座に応急処置を施され“敵”が存在する陸地の対岸に設置された緊急対応司令部へと搬送された。レーヴァテインは外部装甲を失い頭部を破損……。頭部は応急処置が行われレーヴァの再起動自体は問題なく行われた。問題はむしろ機体ではなく、パイロットの方である。
誰もが騒がしく己の成すべき事を成す戦場で、ただ何も出来ないまま一人立ち尽くしている事に耐えられなくなったリイドは逃げるように海岸へと走った。一時間近くそこで蹲り、海を眺めていた少年の背後から歩み寄ったのはイリア・アークライトであった。少女は真紅の髪を風に靡かせ、少年を見下ろしている。
イリアは既に戦闘に備えてか、ジェネシスの特殊制服に着替えていた。外見は女性用スーツそのものだが、一般人の知識では到底理解不可能な要素が織り込まれ、干渉者を保護する役割を持つ簡易装甲だ。それに対してリイドは学園の制服のまま……。夜の海辺ではそれでは寒いだろうに、本人はそんなことにも気づかないほど焦燥していた。
そのせいだろうか……。或いはイリアという少女は元々“そう”だったのか。彼女の頭の中からリイドに対する怒りの感情はすっかり抜け落ちていた。口では厳しい事を言ったとしても、所詮リイドは彼女にしてみれば年下であり――。新入りであり、そして仲間なのだ。カイトならばこんな時落ち込んでいる後輩相手に怒鳴りつけたりはしない。そう考えるだけで自然と彼女は冷静になる事が出来た。
無論、エアリオが戦闘不能ならば彼女がレーヴァテインに乗って出撃せねばならない。それに対してカイトはそうできない以上、留守番となるのは当然の事だった。何よりリイドが無傷であり、まだ戦えるというのであればそれは不幸中の幸い。隣に座り、彼の事を見つめながら少女は自分が輸送機の中で考えた、彼にしてやろうと思っていた事を思い出した。
撃墜されたという知らせを聞いた当初、彼女が怒り狂っていたのは言うまでもない。乗り込んでリイドをぶん殴ってやると、カイトに啖呵まで切ってきた。だというのに、目の前の少年の姿を見たら何となくそんなものはどうでもよくなってしまったのだ。少なくともぶん殴るのはやめてやろうと思う。結局彼女にとってリイドは世話の焼ける後輩であり……守るべき仲間の一人なのだから。
「何はともあれ、戻るわよ。ほら、立って」
「…………」
自らの上着をリイドの肩にかけ、その手を引いて立ち上がらせる。彼女が自ら意識したわけではないのだが、その表情は柔らかい笑顔に満ちていた。
驚くのはリイドの方で、さんざ自分と折り合いが悪いと思っていた人間が見せる意外な優しさに涙腺が急激に刺激されてしまっていた。みっともないとわかっていながらも止まらない涙に両手の拳を強く握り締めて耐えるリイド……。その頭に優しく手を回し、少女は身体を抱き寄せた。
「情けないから泣くんじゃない。別にもう怒ってないし誰もあんたのことなんか責めやしないわよ」
「違うんだ……。ボクは……ボクは、自分自身が情けなくて――! 何も出来なかった……! エアリオを守ってやれなかった……!」
呆れながらイリアは苦笑する。少年にとって自分のプライドを傷つけられたという事は余程堪えたらしい。今まで躓く事が無かったであろうリイドの人生だからこそ、立ち上がるのがより難しくなってしまっているのかもしれない。
何はともあれ少女は少年の手を引き歩き出す。ここにいて風邪を引いてしまっては、作戦どころではなくなってしまう。ヴァルハラに比べればかつては温かかったはずの旧オーストラリアの海岸も、今はコートなしでは肌寒い。二人は臨時司令部に建てられたテントのうちの一つに入り、木製の椅子に腰掛けた。
現地の防衛政府に借与された施設故にそれはヴァルハラのような高性能さを感じさせるデザインではなく、手作りの温かみのあるものだった。相変わらず落ち込んだままのリイドに溜息をつきながら支給品の缶コーヒーを手渡し、自らもそれに手をかける。
「エアリオは……どうなったのかな」
「状態は安定したみたいだけど、しばらく戦闘は無理そうね。やられたのが頭って言うのがヤバかったわ」
「――――エアリオに謝らなくちゃ。あいつは気づいてたんだ、勝てないって……。今のボクじゃ、無理だって……。なのにボクは……」
「あら、珍しく弱気じゃない。それともエアリオが自分のパートナーなんだっていう自覚がようやく芽生えてきたの?」
「自分が悪いのに、その責任を他人に押し付けて生きていける程ボクは無責任じゃないだけだ――」
額に手を当て、リイドは溜息をついた。彼は……とても不器用な少年だった。別に、他人を傷つけたいわけではない。ただ自分の中にあるプライドや様々な正義が彼自身を雁字搦めに縛り付けている。
悪い事は悪いと素直に言える。いや、何もかも包み隠さず言ってしまう分、自分に対しても他人に対しても恐ろしく素直なのかもしれない。心を上手く制御するのが下手なだけなのだ、きっと――。そんな少年の様子にイリアは缶を傾けながら昔話を語り始めた。
「あたしにもあったわよ、そういうこと」
「え……?」
「昔ね、イカロスで出撃して……負けちゃった事があるんだ。ボロ負けでさ。でもあたし、その時自分はすごい才能があるんだって、自分は選ばれた人間なんだって、有頂天になってたんだ」
干渉者という限られた人間であるという事実。そして巨大な力を自由に扱え、誰からも褒められたならば。舞い上がらない人間など居るのだろうか? 特に彼女たちのように幼さを残す者たちがそれを真摯に受け止める事など出来るのだろうか?
少女もそうだった。少年が今、そうして落ち込んでいるように。彼よりほんのわずかでも先を行くからこそ、その苦しみを理解出来る。切欠は……大切な人を守りたかったから。最初は……共に闘える事が嬉しかったから。だがその大きすぎる力は人を傲慢にもするし、人を裏切りもする。
「だって、あたしね……負けたことって無かったんだ。あんたも知ってるでしょうけど、運動は何でもいつも一番。勉強はちょっとアレだけど、でもいつも誰からも頼られててね……。あたしの事を信じてくれる人がいたから、自分自身の強さを信じてた」
自らを信ずる理由は人それぞれだろう。孤独であること、他人に理解されない事、自らの才能を自信とするリイド……。同じようにイリアにもまた自らを信ずる理由は存在していた。そしてそれは、いつも誰かに褒められ、認められ、前を行く事から来ていた。
見下していたつもりはない。ただみんなが褒めてくれるから、認めてくれるから、レーヴァに乗って戦って、そして自分も嬉しくて。いつの間にか、それが当たり前になりすぎて――自分が何をどうしたいのかもわからなくなってしまった。そう、何を守ろうとしていたのかさえも……。
「でも人間ってのは、自分を律する心がないと駄目ね。怠けちゃったり、誰かの所為にしちゃったり……とんでもないヘマをやらかしちゃったりね。あたしは宇宙で戦って、“敵”に負けて、そして地上に落とされた……」
装甲の大部分を破壊されたイカロスでの準備も何もない強制的な大気圏突入――。燃え盛る機体とコントロール出来ない何もかも……。熱くなっていくコックピットは彼女にとって凄まじい恐怖だった。その幼く脆い心を、完全に砕いて壊してしまう程に――。
「そうやって落とされて……海に落っこちて。死んじゃうかもしれないって思ったらすっごく怖くてさ……。情けないくらい泣き喚いて、一緒に乗ってた人の所為にしたの。自分は悪くないって誰にでもなく喋り続けたわ。多分……きっと、あれは自分に言ってたのね……。コックピットが開かなくって、でもあたし情けないから中でずっと我慢してた。きっと誰かが助けてくれるだろうって思って……。でもね、気づいたの」
「気づいた……?」
頷くイリア。目を閉じれば鮮明に思い出せるその景色に想いを馳せる。コックピットが開き、海から引き上げられたイカロスの隙間から見上げる蒼い空を見た時――。無力な少女は自分の小ささに涙した。弱さに……脆さに……傲慢さに……。
「ああ……。自分じゃ結局何も出来なくて、誰かの助けを待ってたんだって。誰かがいてくれるから自分は戦えたんだって。あたしが無事だった事を喜んでくれる仲間が居て、友達が居て……家族がいて。そういうの忘れて一人で戦ってるつもりになってた自分がかっこ悪くて、わんわん泣いた」
自分の経験とそれを重ね、項垂れるリイド。そんな少年の隣でコーヒーを飲み干し、缶をテーブルの上に置いてイリアは立ち上がる。
「正直に言うとね? 今でもイカロスに乗るの……怖いんだ。またいつ死に掛けるか判らない。またいつ……負けるか判らない。負けたら、何もかも失ってしまうかもしれない。守りたいもの全て……。自分の責任で、ね」
少しだけ恥ずかしそうに、頬を人差し指で掻きながら苦笑する。しかし思い直すように目を瞑り――そしてそっと想いを確かめる。言葉は力になる。想いは意思になる。弱さはやがて強さに……そして決意となるだろう。それを知っているからこそ、自信を持って言える事がある。
「でもさ、それ以外にあたしが出来る事ってないから。頭、悪いしさ……。それに、負けっぱなしは口惜しいでしょ? 自分に出来る事は、全部全力でやりたい……。一個だって手抜きなんかしたくない。もしまた同じ目に遭った時……死にそうになった時。あたしは大好きなあたしのままで死にたいから」
「……イリアらしいね」
「負けず嫌いはお互い様でしょ? あんたこそ、負けっぱなしでいいの? 立ち向かわなきゃ、何も変わらないわ。勝たない限り――敗北は止まないのよ」
イリアが白い歯を見せて笑う。差し伸べられた手……。それは少年に“一緒に行こう”と、“一緒に戦おう”と、ストレートに呼びかけていた。だから少年は思うのだ。自分だってこんな風に負けっぱなしの状況で落ち込んでいるような暇なんかないって。
その手を取って立ち上がれば、自分の成すべき事はあっさりと当然のように……目の前に見えている。イリアはこんな自分を受け入れてくれる。弱くて、未熟で……。普段から突っかかってくるのは、きっと昔の自分を見ているようでほうっておけないからだ。二人は似たもの同士……なら、その力はきっと重なり合う事が出来るだろう。
「舐めるなよ――。次は絶対に勝つ。勝ってみせる。あんな奴……余裕だ!」
「ええ! エアリオの仇……討ってやりましょう?」
二人が交わす握手。それは二人が出会ってから初めて交わす握手だった。同じ目的のため、同じ苦悩を背負い、だからこそ共に闘える。
少年はふと……自分が最近誰かの手を握る事が多くなったなと、そんな事を考えた。エアリオの手……イリアの手、カイトの手……。手と手が触れ合う事、誰かと心を通わせる事……。そんな事が自分に起こるなんて思っていなかった。
それが心の中に何ともいえない、言葉に出来ない感情を描き出す。不安はあった。けれど……今はそれで構わないと思った。目の前にあるリベンジ……それだけが、少年の心の中で大切な事実だったから――。