砂漠の祭り
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「アイゼル!早く起きて!」
空が朝焼けに染まり始めた頃、シルクはアイゼルを叩き起こした。
「ん、ああ…。もうちょっとだけ……。」
シルクは寝返りを打ち、布団で両耳を覆った。
「何言ってるの!今日はガルドンにしばらくここを離れるって言いに行くんでしょ?」
シルクはアイゼルの布団をひったくり、着替えさせた。
「朝ごはん、置いとくから。」
まだ寝起きのアイゼルに構わず、シルクは慌ただしく支度をした。
「お前はどこに行くんだ?もう朝食は取ったのか?」
アイゼルが席につき卵焼きとコーヒーをついばみながら聞く。
「とっくに食べたよ。庭で、魔法の練習してくる!」
シルクが庭へ駆け出そうとすると、塔の入り口のベルが鳴った。
こんなところまで訪ねてくる人なんて、そうそういない。…まさか、また灰の使徒…?シルクが警戒しながら戸を開けると、そこには大きな袋を背負った数人の女性がいた。傍らにはあの衛兵もいる。彼はシルクを見て、帽子を傾けた。
「俺が呼んだんだ」
呆気に取られているシルクの背後でアイゼルが言った。
「貴女がシルクね。今日はよろしく。」
女性たちはそういうやいなやズカズカと塔に入ってきた。
「ちょっと待って。どういうこと?あなたたちは誰?何しに来たの?」
シルクが困惑して聞くと、女性たちは互いに目を見合わせた。
「あら、聞いてないの?まあ、あの人のことだからしょうがないわね。」
女性はアイゼルを睨んだ。アイゼルは気づかないふりをして黙々とパンを口に運んでいる。それを見て初めて、シルクはその女性がこの前アイゼルが塔に連れてきていた女性だと気づいた。
「今日は街でお祭りがあるから、貴女をめかしつけてくれってアイゼルに頼まれたのよ。」
シルクはそう説明されても納得いかなかった。
「…でも、私達は早く灰の使徒の本拠地に行って奴らを止めないと……。」
不安を滲ませて呟くと、それを聞いたアイゼルが言った。
「お前は気負いすぎだシルク。それにどうせガルドンを訪ねるんだし、良い機会じゃないか。時には休息も必要だろ?」
「祭りに行きたいだけじゃない。」
シルクが乗り気でないのを悟った女性はシルクの肩に手を乗せて言った。
「灰の使徒?が何かは分からないけど、せっかくのお祭りなんだから。楽しまなきゃ損よ。」
シルクはしぶしぶ女性たちに身をゆだねた。
それからの数時間はシルクにとって地獄だった。もともと田舎育ちの彼女は街の少女たちが着るドレスなどとは無縁の生活を送っていて、別段憧れもしなかった。
戸惑うシルクに構わず女性たちはキャッキャとはしゃいで、シルクに次から次へと多様なドレスを着せていった。
「どれも良いけど、やっぱりこれが一番似合うわね。」
結局、シルクは漆黒の生地に炎のような真紅の薔薇が刺繍されたドレスを着ることになった。これでやっと終わりかとほっと一息つくのもつかの間、今度はヘアメイクや化粧、アクセサリーの選定が始まった。シルクはさながらマネキンのようだった。
すべての支度ができる頃には、太陽は真上に近づいていた。
「似合うじゃないか」
すっかり着飾ったシルクをちらっと見て、アイゼルは言った。
「あら、素っ気ないのね。」
女性が茶化すように言う。シルクは耳を真っ赤にしてさっさと外へ出た。
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シルクは塔の外に出ると、朝の冷たい空気を深く吸い込んだ。漆黒のドレスに刺繍された真紅の薔薇が、朝陽に照らされて鮮やかに輝く。慣れない装いにぎこちなく歩きながら、彼女は内心で毒づいた。「こんな服でどうやって動くのよ…アイゼル、絶対祭りに行きたいだけだ。」 だが、どこかで、街の喧騒や人々の笑顔を見るのも悪くないかもしれない、という思いが芽生えていた。
アイゼルと女性たち、そして衛兵が後に続き、一行は砂漠都市へと向かった。衛兵はすっかり回復したようで、鎧の代わりに軽やかな革の服を着ている。彼はシルクに軽く微笑み、「あの時は助かった。礼を言ってなかったな、シルク」と囁いた。シルクは照れ隠しにそっぽを向き、「別に…放っておけなかっただけよ」と呟いた。
砂漠都市に着くと、通りはすでに祭りの準備で賑わっていた。色とりどりの布が屋台や建物に飾られ、笛や太鼓の音が響き合い、甘い菓子の香りが漂う。子供たちが笑いながら走り回り、商人たちは大声で客を呼び込む。シルクはそんな光景に目を奪われ、しばし灰の使徒や護符のことを忘れた。
「ほら、シルク、ぼーっとしてないでこっちだ。」 アイゼルが彼女の手を引っ張り、屋台の一つに連れて行った。そこでは焼きたてのスパイスパンと、砂漠の果実を使った甘い飲み物が並んでいる。アイゼルはパンをつまみ、シルクに押し付けた。「食えよ。こんな美味いもん、塔じゃ味わえんぞ。」
シルクはパンを一口かじり、予想外のスパイスの風味に目を丸くした。「…美味しい。」 彼女は思わず笑みをこぼし、アイゼルが満足げに頷く。女性たちも屋台を回りながら、シルクにアクセサリーや小さな菓子を手渡してきた。彼女たちの明るさに、シルクの心は少しずつ軽くなっていった。
だが、祭りの喧騒の中で、シルクはふと違和感を覚えた。群衆の向こう、路地の影に、白い装束の人物が立っている。グエルと同じような長い白髪、冷たい目。シルクの胸の護符が微かに熱を帯び、警告するように脈打った。彼女はアイゼルの袖を掴み、囁いた。「アイゼル…あそこ。灰の使徒だ。」
アイゼルは即座に視線を路地に向け、表情を硬くした。「…ちっ、祭りのどさくさに紛れてきやがったか。」 彼は女性たちと衛兵に目配せし、「お前ら、シルクを頼む。俺が様子を見てくる」と告げた。だが、シルクは首を振った。
「私も行く。アイゼル、一人じゃ危ないよ。」 彼女はドレスの裾をたくし上げ、護符を握りしめた。祭りの賑わいが彼女の決意を隠し、二人で路地に近づいた。
路地の奥で、白髪の人物が静かに待っていた。グエルとは異なる、もっと鋭い気配を放つ女だった。彼女の装束には灰色の紋様が縫い込まれ、目はまるで氷のように冷たい。「シルク・ベナリフェ。グエルを殺した娘だな。」 彼女の声は低く、しかしどこか歌うように響いた。「私は灰の使徒の二人目、セリス。お前の力、確かに見事だ。だが、混沌を抑える護符に縛られたままでは、すぐに限界が来る。」
シルクは一歩前に出た。「グエルと同じこと言うのね。あなたたち、均衡を壊して何になるの? 混沌で世界を灰にするだけじゃない!」
セリスは薄く笑った。「灰? 違うよ、シルク。灰は新たな始まりだ。均衡は停滞を生む。世界は変わらなければならない。グエルはお前の怒りを引き出したが、私は違う。お前の心の奥、もっと深い欲望を見せてやる。」
セリスが手を振ると、路地の空気が歪み、シルクの視界が揺れた。突然、彼女の前にベルの森が現れた――燃える前の、緑豊かな故郷。家族の笑顔、川のせせらぎ、ツリーハウスの温もり。シルクの胸が締め付けられ、涙が溢れそうになった。「…これは…幻?」
「幻じゃない。欲望だ。」 セリスが囁く。「混沌の力を受け入れれば、故郷を取り戻せる。お前の力で、すべてを元に戻せるんだ。」
シルクの手が震えた。護符が熱くなり、彼女を現実に引き戻そうとする。だが、故郷の光景はあまりにも鮮やかで、彼女の心を揺さぶった。アイゼルが彼女の肩を掴み、叫んだ。「シルク、目を覚ませ! セリスの術だ! 護符を信じろ!」
シルクは目を閉じ、深呼吸した。護符の脈動が彼女の意志を呼び戻す。彼女は故郷の幻を見ながら、静かに呟いた。「…故郷は、取り戻すよ。だけど、あなたの言う混沌なんかじゃない。私の力で、均衡で、守るんだ。」
彼女は護符を握り、赤黒い霧を呼び起こした。セリスの幻が砕け、路地に冷たい風が吹き抜ける。セリスは目を細め、笑った。「…面白い娘だ。だが、シルク、これは始まりに過ぎない。灰の使徒はまだ三人いる。私たちはお前を諦めないよ。」
セリスが霧の中に消えると、祭りの喧騒が再びシルクの耳に届いた。アイゼルは彼女の背を軽く叩き、「よくやった。だが、セリスはグエルより厄介だ。次はもっと準備が必要だぞ」と告げた。
シルクは頷き、護符を握りしめた。「アイゼル…祭り、楽しんでからガルドンに相談しに行こう。灰の使徒の本拠地、絶対に見つける。」
アイゼルはにやりと笑い、「その意気だ。さ、まずは甘い菓子でも食うか!」 二人は祭りの群衆に紛れ、しかし心のどこかで、灰の使徒の次の動きを警戒していた。