均衡と混沌
7.
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「護符無しで彼女に戦闘を強いるとは。アイゼル、貴方も鈍くなりましたね。」
グエルが意味の分からないことを言う。シルクはグエルに構わず目を瞑って集中した。
アイゼルが怪物たちとやり合う音も、グエルが気味悪く笑う声も、段々遠ざかっていく。これまでに無いほど雑念が消え思考が澄み渡っている。シルクはグエルの言った言葉を思い出していた。
『護符に縛られなければ、もっと強大になれる』
本当に護符が私の力を抑制していたのか…?でも、あれはマゼルダから貰ったものだ。シルクはマゼルダがそんなことをするとは思えなかった。
だが、護符が彼女の力を抑制しているという証拠があるということは、否定できない事実だった。実際、シルクは護符を手放した今、嘗てない力を感じていたのだ。今なら、何でもできる気がする。
シルクは片手をゆっくりと上げた。目を瞑っていても、アイゼル、彼と戦う化け物たち、そしてグエルがどこにいて何をしているのか手に取るように分かった。上げた右手で虚空を握りしめる。
見えない何かに握りつぶされるかのように、アイゼルの目の前で人形の化け物がグチュッと音を立て潰れた。アイゼルは返り血を全身に浴び、呆気に取られていた。…シルクがやったのか…?
アイゼルがシルクの方を見ると、シルクの周りを赤黒い霧が旋回していた。
「…素晴らしい!」
グエルが恍惚とした表情を浮かべ、シルクを見ている。かと思うとグエルは目を瞑ったままのシルクに飛びかかった。
「シルク!避けろ!」
アイゼルは巨狼に阻まれ叫ぶことしか出来なかったが、シルクにはその警告すら必要無かった。
グエルの刃は彼女に届かず、霧が刃を彼の掌から奪い取った。
グエルは興奮に顔を歪ませ、叫ぶようにシルクを煽った。
「そうだ!お前の街を、故郷を破壊したのは私です!あの悲鳴を、惨状を、貴方にも見せたかった!さあ、私を憎みなさい!力を解放するんだ…!」
シルクの目から、一筋の涙が流れる。彼女は目を見開き、グエルを睨めつけた。茶色だった瞳は赤黒く濁り、顔に焼き付いた炎の紋様が濃く、鋭くシルクの顔を侵食していく。さっきまでの少女の面影が消え去り憎悪に歪んだ顔を見て、アイゼルは歯を食いしばった。
「シルク…!そいつの言う事に耳を貸すな!」
そんなアイゼルの呼びかけも、今のシルクには届かなかった。
「…お前を許さない」
シルクは憎悪を抑え込み淡々と告げた。
「さあ、来なさい!」
グエルが両腕を広げる。シルクはグエルを見据え、引き裂くような身振りをした。
「やめろ!」
アイゼルが叫ぶ。次の瞬間、グエルの身体が中心から裂け、肉塊になった。
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森の静寂は、まるで時間が止まったかのように重く、冷たく広がった。グエルの身体は二つに裂け、地面に崩れ落ちた瞬間、赤黒い霧が彼の周りから消え、まるで命を失ったように静かになった。シルクは動かず、グエルを睨みつけたまま立ち尽くしていた。彼女の顔に刻まれた炎の紋様はまだ薄く光り、赤黒く濁った瞳は憎悪と混乱で揺れている。アイゼルは巨狼の最後の頭を切り落とし、血にまみれた短剣を握りながらシルクに駆け寄った。
「シルク! 聞こえるか? シルク!」 アイゼルは彼女の肩を掴み、強く揺さぶった。だが、シルクの目は彼を素通りし、虚空を見つめているようだった。彼女の周囲にはまだ赤黒い霧が漂い、まるで彼女の内なる混沌が形を成しているかのようだった。
「…アイゼル。」 シルクの声は低く、まるで別人のように冷たかった。「私は…彼を殺した。故郷を燃やした男を。」 彼女の手が震え、赤黒い霧がその指先から滴るように揺れた。「でも…これでいいの? 何か…間違ってる気がする。」
アイゼルは歯を食いしばり、シルクの顔を両手で挟んだ。「シルク、目を覚ませ! グエルの言葉に飲まれるな! お前は均衡の血を継いでるんだ。混沌に流されるな!」
シルクの瞳が一瞬、揺らいだ。彼女は自分の手を見つめ、霧がゆっくりと消えていくのを見た。炎の紋様が薄れ、茶色の瞳が徐々に戻ってくる。だが、彼女の胸にはまだ重い塊が残っていた。グエルの言葉――「護符は貴方の力を抑制している」「混沌の力が宿っている」――その言葉が、彼女の心に棘のように刺さっていた。
「アイゼル…護符が私の力を抑えてたって、本当なの?」 シルクは弱々しく尋ね、アイゼルの目を真っ直ぐに見つめた。「グエルは…私がもっと強い力を持ってるって言った。護符がなかったら、こんな風に…制御できなかったかもしれない。でも、今の私は…確かに強かった。」
アイゼルは一瞬言葉に詰まり、森の奥を見やった。グエルの死体はすでに灰に変わり、風に吹かれて散っていく。「シルク、護符のことは…マゼルダから聞いていた。確かに、あれはお前の力を制御するものだ。だが、抑制してるんじゃない。導いてるんだ。お前の力は強すぎる。均衡の血と混沌の力が、両方お前に流れている。それを一つにまとめるのが護符の役割だ。」
シルクは目を丸くした。「両方…? 均衡と混沌? そんなの…どうやって…」
アイゼルは彼女の肩に手を置き、落ち着かせるように言った。「お前の祖先は、均衡を守る者だった。だが、遠い昔、混沌の力を取り込んだ者がいた。それがお前の血に宿ってる。グエルはその混沌だけを引き出そうとした。だが、シルク、護符がなければ、お前は自分を失う。さっきの力…あれはお前を焼き尽くす危険があったんだ。」
シルクは自分の手を見つめ、グエルを裂いた瞬間の感覚を思い出した。あの圧倒的な力、すべてを飲み込むような解放感――だが、同時に、彼女の心がどこか遠くへ引きずられていくような恐怖もあった。「アイゼル…私、怖いよ。この力…私を壊しそうで。」
アイゼルは小さく笑い、彼女の頭を軽く叩いた。「バカ言うな。怖いなら、俺がいる。マゼルダもどこかで生きてるさ。お前は一人じゃない。護符を取り戻して、力を制御する方法を一緒に学ぶんだ。灰の使徒はまだいる。グエルはただの尖兵だ。もっとでかい奴らが動いてる。」
シルクは頷き、胸の奥で再び決意が灯るのを感じた。彼女はグエルの死体が消えた地面を見やり、静かに呟いた。「護符…庭に捨てた。取りに戻らないと。」
アイゼルは彼女を支えながら森を戻り始めた。「ああ、戻るぞ。だが、シルク、覚えておけ。護符は道具だ。真の力はお前の中にある。グエルの言う混沌も、お前の均衡の血も、どっちもお前自身だ。それを受け入れるんだ。」
森の霧が薄れ、月光が二人の背を照らした。塔に戻る途中、シルクは自分の内に眠る二つの力を感じていた。炎と水、破壊と創造、混沌と均衡。それらがせめぎ合いながら、彼女を新たな道へと導いている。灰の使徒の次の動きはまだ見えないが、シルクはもう迷わない。護符を取り戻し、アイゼルと共に戦う――故郷を取り戻し、均衡を守るために。
塔の庭に着くと、護符はまだそこにあった。シルクはそれを拾い上げ、温もりが戻ってくるのを感じた。彼女は護符を首にかけ、アイゼルを見た。「次は何をすればいい?」
アイゼルはにやりと笑い、短剣を手に持った。「まずは、塔を片付ける。お前がサボったせいで、蜘蛛の巣だらけだぞ。それから…灰の使徒の本拠地を探す。マゼルダの居場所もな。準備はいいか、シルク?」
シルクは小さく笑い、頷いた。「いいよ、アイゼル。行こう。」
森の奥で、かすかな風がざわめいた。灰の使徒の目が、遠くから二人を見ている。戦いはまだ終わらない――いや、これからが本当の始まりだ。