灰の使徒
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それから数か月、シルクはアイゼルとの修行と世話の日々に明け暮れた。
後になって分かったことだが、アイゼルは魔法の才能以外ではただの手のかかる中年男性だった。飯の準備や洗濯などは全てシルクの仕事で、塔の管理や手入れなど以ての外だ。
彼には前任の召使いがいたらしいが、誰もがもアイゼルの粗相の悪さに呆れ辞退していったそうだ。それでもシルクは根気強く彼の面倒を見た。自分の技を磨き、新たな使命を全うするために。ただ、アイゼルが塔に数人の女性と酒の匂いを漂わせて帰ってきたときは、堪忍袋の緒が切れ、丸々一日、二日酔いのアイゼルを地べたに座らせ説教した。その成果あって女遊びは落ち着いたが、未だに酒癖は抜けなかった。
アイゼルは一ヶ月に数日ほど、ガルドンに呼び出され、魔法使いとしての仕事をするために街に出向いた。この塔をあてがわれる代わりに、アイゼルには呼び出されたら行かないといけないという義務が課されているのだ。シルクは気分に応じて彼と一緒に街に出向いた。
その日は、シルクは塔で留守番をしていた。アイゼルは難病を患った民を治すために街に行っていた。帰ってくるのは数日後だろう。シルクはいつも通り塔の掃除をし、鶏が卵を産んだか確かめるために庭へ出た。
そこで彼女は庭に接した森の奥から視線を感じ、闇に目を凝らした。護符を握りしめ、短剣を抜く。音もなく、長身の男性が姿を表した。白い装束を全身に纏い、真っ白な長髪を結っている。
男は警戒するシルクと目を合わせ、お辞儀をした。
「貴公がシルク様ですね。噂通り本当に幼い少女とは……。私は灰の使徒の一人、グエルと申します。貴方は素晴らしい混沌の力…才能を持っている。その護符は貴方の力を抑制、封印しているのです。」
シルクは眉根をひそめた。私が混沌の力を持っている…?だけど、アイゼルやマゼルダは私には均衡を守る者の血が流れていると…。私を仲間にするために嘘をついているのか?
「貴方はアイゼルに騙されているのです。」
グエルは憤慨したように言った。
「確かに、貴方の祖先には憎むべき均衡の使徒がいる。しかし貴方には混沌の力が宿っている。誰にも抗えないほどの。感じたことがある筈だ。あの燃えるような怒りを。憎しみを。…貴方が使い魔を倒すのを見ました。素晴らしい技だった。だが貴方の真の力はあんなものじゃない。護符に縛られなければ、もっと強大になれる。…」
グエルは上目遣いにシルクを見た。
「私達の下に来なさい。そうすれば、貴方の故郷も取り戻せる。」
シルクは夢を見ているような、地に足がつかないようなふわふわとした感覚に襲われていた。強烈な眠気に、立っているのもままならないほどだ。…何か術をかけられている…?
意識の底で警戒音が鳴り響いていたが、足が勝手に男の方へ向かっていた。左手で胸元を探り、護符を取り出す。シルクがグエルを見つめると、グエルは頷いた。護符を首から取り外し庭に捨てる。
シルクはグエルと共にアイゼルの塔を離れ、森の奥、灰の使徒の本拠地へ向かった。
「帰ったぞー。シルクー」
アイゼルは塔に着き、シルクが居なくなったことに気づいた。
「おい!冗談はよせシルク……。」
塔中探し回っても見つからない。
「今日は女も酒も無いぜ」
そう呟いても、返ってくるのは森のざわめきだけだった。塔の中は埃と蜘蛛の巣に汚染されている。シルクは数日前からいなくなったようだ。
アイゼルが立ち尽くしていると、不意に太陽を反射し眩しく光るものが目に入った。庭に出てみると、そこにはシルクの護符が落ちていた。
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アイゼルは庭の地面に落ちた護符を見つめ、胸に冷たい不安が広がるのを感じた。護符は埃にまみれ、まるで主を失ったかのように静かにそこに横たわっていた。彼は膝をつき、護符を拾い上げた。いつも温かかった石は冷たく、微かな脈動も感じられない。アイゼルの顔が曇り、唇から低い呻きが漏れた。
「シルク…何をしたんだ…」
彼は護符を握りしめ、立ち上がった。森の奥から漂う不穏な空気が、まるで嘲笑うように彼を包む。アイゼルは塔に戻り、急いで棚から古びた水晶球を取り出した。球に手を翳すと、表面が曇り、ぼんやりとした映像が浮かび上がる。そこにはシルクの姿――白い装束の男と共に、霧深い森の奥を進む彼女の背中が見えた。アイゼルの目が鋭く光った。「灰の使徒…グエルめ。」
彼は水晶球を棚に戻し、短剣と数本の薬草瓶を腰に差した。「シルク、お前はバカか。護符を捨てるなんて…」 だが、彼の声には怒りよりも深い心配が滲んでいた。シルクの力は確かに強大だが、制御できなければ彼女自身を滅ぼす。灰の使徒が彼女を誘ったのは、その力を利用するため――あるいは、破壊の触媒として使うためだ。
アイゼルは塔を飛び出し、森の奥へと急いだ。シルクの足跡を追うのは簡単だった。彼女が護符を捨てたことで、彼女の力が漏れ出し、森の草木がわずかに萎れている。アイゼルは走りながら、シルクの修行の日々を思い出した。あの短気で頑固な少女が、掃除や世話を文句も言わずにやってのけた姿。彼女の内に秘めた炎のような意志。グエルが言った「混沌の力」は、確かにシルクの内に宿っているかもしれない。だが、アイゼルは信じていた――彼女は均衡の血を継ぐ者であり、破壊を選ぶような人間ではないと。
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一方、シルクはグエルと共に森の奥を進んでいた。彼女の意識は霧に包まれたようにぼんやりとし、足取りもどこか夢遊病者のようだった。グエルの白い装束が月光に映え、まるで幽霊のように揺らめく。彼の声は甘く、しかしどこか冷たく響いた。
「シルク、感じるだろう? 護符を捨てた今、お前の力は自由だ。もう抑える必要はない。怒りも、憎しみも、すべてを受け入れなさい。それが真の力だ。」
シルクは頷きそうになったが、胸の奥で何かが引っかかった。グエルの言葉は魅力的だった。故郷を失った痛み、炎に飲み込まれた記憶――それらを力に変え、すべてを取り戻せるという誘惑。だが、彼女の内にマゼルダの声が響いた。「護符を離すな。あれはお前を守る唯一のものだ。」
シルクは立ち止まり、グエルを睨んだ。「…あなた、誰なの? 灰の使徒って何? 私の故郷を燃やしたのはあなたたちでしょ?」
グエルは微笑んだが、その目は冷ややかだった。「燃やした? いや、シルク。あの炎はお前自身の力の目覚めだった。護符がそれを抑えていたから、制御できなかっただけだ。灰の使徒は、均衡という偽りの鎖を断ち切る者たちだ。この世界は均衡など必要ない。混沌こそが真実を解放する。」
シルクの頭が痛んだ。グエルの言葉は彼女の心を揺さぶり、護符を捨てた瞬間の解放感を思い出させた。だが、同時に、アイゼルの教えが蘇る。「力は感じるだけじゃなく、導くんだ。迷うな。」 彼女は拳を握り、グエルに一歩近づいた。「あなたたちの目的は? 私をどうするつもり?」
グエルは笑い、両手を広げた。「お前は我々の鍵だ、シルク。均衡を砕くための触媒。お前の血と力を使い、灰の使徒は世界を再構築する。新たな秩序を――混沌の秩序を築くんだ。」
その瞬間、シルクの背後で鋭い風が吹いた。アイゼルが霧を切り裂き、短剣を構えて現れた。「グエル、口が上手いのは認めるが、シルクは渡さん。」
グエルは眉を上げ、嘲るように笑った。「アイゼル、相変わらず遅いな。彼女はすでに護符を捨てた。もうお前の手には負えんよ。」
シルクは二人の間を行き来する視線に立ち尽くした。彼女の内に、炎と水、怒りと静けさがせめぎ合う。グエルの言葉は甘く、アイゼルの目は真剣だった。彼女は自分の胸に手を当て、護符のない空虚な感触を感じた。だが、その空虚さの中に、彼女自身の意志がまだ息づいていることを感じた。
「シルク!」 アイゼルが叫んだ。「お前は均衡の血を継いでる。グエルの言う混沌は、ただの破壊だ。お前が本当に望むものを思い出せ!」
シルクの目が揺れた。彼女は故郷の炎、家族の笑顔、マゼルダの温かい手、アイゼルの不器用な優しさを思い出した。グエルの誘惑は強かったが、彼女の心の奥で、均衡を守りたいという意志が燃え始めた。
「グエル…私はあなたには行かない。」 シルクは声を震わせながらも、はっきりと告げた。「私の力は、破壊のためじゃない。」
グエルの笑みが消え、目が冷たく光った。「愚かな選択だ、シルク。だが、護符のないお前は無力だ。」 彼が手を上げると、霧が渦を巻き、複数の影が現れた。銀色の狼、そしてその背後に、さらに巨大な人型の影。
アイゼルがシルクの前に立ち、短剣を構えた。「シルク、護符がなくてもお前の力はそこにある。感じろ。導け。俺が時間を稼ぐ!」
戦いが始まった。アイゼルの霧の刃が狼を切り裂き、グエルの術が森を揺らす。シルクは目を閉じ、自分の内に眠る力を呼び起こした。護符はなくても、彼女の血はまだ歌っている。炎と水、均衡の力が、彼女の意志に応え始めた。